奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

ジョーカーは、ただただ愛が欲しかった。悲痛なまでに愛を求める声だった。

2020年10月02日 02時37分00秒 | 映画














9月29日の勉強会は
「自分の周りの暴力をしたり暴言を吐く人たち」についての打ち明けが多かったように思う。

そのシェア(過去のトラウマ的な思い出)を聞いている最中に

『気のせいだわ』と思いこむのは難しいくらい

「ジョーカー、ジョーカー、、ジョーカー」
という声(というか想念)が心の中で連呼した。


私たちは、他者に罪をみて
その他者の暴言や暴力による被害を受けている被害者として
自分や自分の身内のことを見がちで

「自分」という分離を信じている「心」の中にある狂気ではなくて
他者独自の狂気として、他者の中にだけ自我をみたい誘惑があったりする。



でも、そのような他者の動作(演技)も、紛れもなく
自分がみている夢の中で展開している


その夢の作者はどこにいて、
その夢を観察している者はどこにいるのか?

ということをすっかり忘れてしまって
自分を無垢なる夢の登場人物として認識する。


奇跡講座の理論などをここで解説すると、
何時間もこのブログの画面とにらめっこすることになりそうなので割愛するけども

やはりあの時に聴いた
「ジョーカー」という声がガイドだったのではないかな?と感じている。


ジョーカーは、自我と同一化している狂気そのものではあるけれども
その狂気は、邪悪なのではなくて

「愛がわからなくなってしまって、それでも悲痛に愛を求め泣き叫んでいる心の状態」で
助けが必要な心なのだな。。

という感覚。
今回久しぶりに観た時にそれをとても感じたのでした。
狂気は邪悪なのではなく、究極的に助けが必要な心の状態


何が愛で、何が平安なのか?
が、まったくわからなくなって
見分けがつかなくなってしまった状態なんだな。

自分を抑え込みすぎて、自分が今何を感じているのか?
考えているのか?どうしたいのか?


について、麻痺してしまっていて


でも、自分という感覚を確かめたくて、、「他者を痛めつける」という方法で
はじめて自分の存在感を感じることができるようになっているかのような

自分の行為がニュースになって、
はじめて自分の存在を世界も承認しているような感覚をえているかのような、、

自分を感じる「感じかた」を極端に間違えた方法で感じるようになり
本当の状態(真理)を極端なまでに歪曲してしまった心の状態なんだな。


そのような歪曲の中毒に陥っている「私」を救ってあげたいと思った。









、、私が今感じているのは

人間としてのあらゆる「信念」で「この世界」を維持して支えてきたんだな。。。
という「実感」
がとても強まっていて、実在したことのない一切の「信念」から手を放したいとますます強く思っている。


「なんでそこまで信じ続けて、信念に力を与え続けてきたんだっけ?????」



今となっては、ハマることの方が謎すぎるぐらいの明らかなトリックたち。


おそらくそのトリックを好んで、望んで、わざわざその仕掛けにはまりに行っていたんだろうと思う。

もちろんそれは無意識的なレベルで。。
その無意識の決断が意識化されていかねばならない道なんだろうなと思う。


その道は、茨の道ではなくて
慈悲の道なんだろうと思う。


今まで邪悪さを見ていたその場所に、
助けを求める叫び声をみるとき、少なくとも慈悲と救いを与えたいと感じるはず。

それは個人としてはできないことで、
自分の代わりに聖霊によって邪悪さではなくて愛と助けを求める声を認識していただく
すなわち、自分は引き退る。

そして、自分の代わりに聖霊によって慈しみ、助けを与えていただく。
すなわち、自分の心の扉をあける。



そういうことなんだろうと、今までの経験から、そう感じる。




映画『ジョーカー』本予告【HD】





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