幼少期から、私の心からの願望はこれだった。
「すべての人々、全体の幸せを望む」
何がきっかけでそう感じたのか?
そう祈ったのかは思い出せない。
幼稚園はカトリック系だったけど、そこで教えられたわけじゃない。
たとえ今、私が幸せを感じていても
この世の中でたった一人でも幸せを感じていない人がいたならば
私の幸せは完成されない。それでは満たされない。。。
なぜか、その事実に気が付いた。
6才前後だったのではないか?と思う。
「私という個人の幸せが満たされても、それは本当の私の幸せなどではない」
という感覚。。
だから、どうか全体のために私をおつかいください。
という祈りを子供ながらに自然に祈っていたと思う。
なぜそう祈っていたのか?というと
自分の幸せを望むなら、同時に全体も幸せでないと
私の幸せは決して叶わないと知っていたから。
具体的な宗教や、神様を信仰していたつもりはないけれども
母の影響で「世界人類が平和でありますように、守護霊様、守護神様、五井先生ありがとうございます」
という祈りは、ごく当たり前の祈りで
おはよう、おやすみなさい、と同じ自然な習慣だった。
基本的に私の中で、イエス様も五井先生も怖い人物ではなくて清らかな透明な愛の存在というイメージだったけど
かと言って、すがりつくような祈りかたをしてもいなかった。
子供の頃はまだ切羽詰まって苦しみを感じていなかったからだろう。
今、子供の頃と同じ祈りと願望があって、それとともに心の底からの懇願のような祈りになっている。
祈りはさらに具体的になっている。
「神様、聖霊、どうか全体の幸せ、全体の目覚めの加速化のためにのみ、私をおつかいください」
憎しみをみる人であれ、殺意を感じる人であれ、怒り憤慨する人であれ、たとえその怒りが私に向かっていたとしても
それでも、彼らの心に真の平安と幸せが復活されますようにと祈りたくなる。
個人の大橋のり子の祈りではなくて、真の幸せを望む「私」自身の祈りだと思う。
その私は、とにかく全体の幸せの復活を望んでいる。
そこにしか自分の幸福がないと知っている。
物理的な幸福が訪れるかどうかが問題なのではなく
平安な心、幸福な心の完全復活が訪れるかどうか?
それだけが唯一の願望であり、問題だ。
どのように導かれるのかはわからない。
でも、いかようにでもお導きいただきつかっていただきたいと願う。
心底、そう思う。