図書館の魔女 (上・下) / 髙田大介著 講談社
高田大介さんを知ったのは、元はと言えば将棋の世界からの辿り着きである。ここ数年でネットでの動画配信、テレビ映像も急速に進歩・変貌し、将棋の対局番組でも持ち時間6時間さらには二日がかりのタイトル戦まで実況中継される素晴らしい環境になった。おかげで数十年ぶりで「将棋の世界」に触れ「観る将棋」としてハマって、現役棋士の人となり、声まで、ほとんど頭に入ってしまった。もっとも対局中継でも、1時間以上の長考に沈んで・・・となれば、番組制作側としては困るし僕みたいなミーハーなファンは飽きてしまうので、対局者の昼食、晩飯、おやつの紹介までにも工夫を凝らしているようだ。棋士たちはヒフミン以外は千円札でお釣りがくるような店屋物食べてる、お気の毒にと思っていたら、高田さんのMARGES DE LA LINGUISTIQUE ⇨ 将棋指しが飯を食うに、遭遇した。
高田さんのこの研究手控えブログに載っていた戯れ文は無論遊びだが、しかしかなりの将棋愛好家でないと書けないし、何より面白い多才なかたとお見受けした。さて、なにをしてるヒトだろう?言語学者であり小説も書くということでどちらが本業かは図りかねたが、まずは目についた「図書館の魔女」という小説、これが全くもって素晴らしい。続編の「烏の伝言」まで、単行本それぞれ厚さ3センチづつもある長編なのでツンドク状態だったが没入したら一気通貫に楽しませてもらった。学者の論文なら世間一般の目には触れず、その知見に触れることは難しい。最近の小説といえば空想妄想ファンタジーが多くあまり読む気が起きなかった。ところが、高田さんの小説、これは、違った。
小説の読書感想など興ざめであるから、この小説の中で勉強になった箇所を数カ所引用させていただき、認知症寸前の我が頭脳のサポートにしたいと考えた。それが、以下の数カ所の引用である。
「図書館」というもの、「書物」というもの、それらがかたち作る世界、「言葉」というもの、さらには「手話」、それらに触れた箇所だ。そして、図書館は人類の知の集積として、無害な読書人のためではなく、現実世界を動かす司令塔にもなりうる、という箇所だ 。
さて、図書館の魔女とはいったい何者なのか????ここからは、小説だから「検索」ではなく、自分で買って読むという知的で地味で、楽しい作業が待っている。こういう本がもっと世の中には知られて売れて、それこそ図書館でも目につくようになって欲しいと、心から思う。
>>>> (以下、「図書館の魔女 (上・下) / 髙田大介著 講談社 」より引用 。。。。。部は中略)
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キリヒトの方へ向き直ったマツリカは、厳しい視線で彼を射すくめるとますますぞんざいに右手を振るって言葉を継いだ。
ーーそんなわけで私が欲していたのは、ハルカゼに代わってハルカゼ並の仕事のできるものだった。ちょうど心当てに出来る人物が見当たらないので、顔が広いのが取り柄の爺に推挙を依頼したわけ。さて、そこでだがお前に務まるだろうか、キリヒト。
キリヒトはどう応えていいものか判らなかった。自信がないといえば簡単だったかもしれないが、それでは自分の師匠をはじめ、自分を推挙した人々の期待に背くことになりかねない。返答に窮しているキリヒトに向かってマツリカはなおも言葉を重ねる。
ーー字も読めずに図書館の司書が務まるはずもないのはわかるね?しかし、そもそも字の読める読めないの問題ではない。司書というのが単にあっちの本棚に行き、こっちの本棚に戻りと、本を入れたり出したりするのが仕事だと思ったら大間違いだよ。
こう言ってマツリカはこれから大事なことを言おうとする者が必ずそうするように息をすっと深くすった。もっとも、ふつうの人がするように、ここで声音を高めたのではない。マツリカはその代わりに、左手をキリヒトの目の前に突き出すと素早い手の動きで語り始めた。
ーー科学者でもいい、博物学の徒でも文献に沈くものでも構わないが、人がこの世界について何か新たに余人の知りえぬことを見いだしたと思ったとき、必ずや人は書物を著す。そのようにこの世界の森羅万象を明らめ、究めようと一冊の書物が生まれ、類書に並んでいく。こうして世界のありとあらゆる事どもを細大漏らさず記すべく数限りない書物が書架に背を並べ、やがては書物の詰まった棚の数々がそれじたい一つの世界をなして、網の目のように絡まりあって世界の全体を搦めとっていこうとする。これが図書館だよ。キリヒト。
キリヒトには聞きなれぬ難しい言葉が、肘から先を鞭のようにふるうマツリカの手の動きに伴って次々と紡ぎ出されていく。ひらめく指先を目で追っているうちになんだか気が遠くなるようなきもちになってくる。図書館の書架の数々が自分の周りをめぐり出し、マツリカの指揮のままに渦を巻いて自分を翻弄しているかのように感じられてくる。キリヒトの目の前でまさにこの図書館が、そして螺旋をなしてどこまでも続いていく書架の列が、さらには一つひとつの書物が動き出してキリヒトの今まで知っていた世界を覆い尽くそうとしているようだ。なんだか本当に目まいがしてくる。
ーー図書館にある書物は、すべてが互いに関連しあって一つの稠密な世界を形づくっている。一冊いっさつの書物がそれぞれ世界に対する一片の知見を切り取り、それが嵌め絵のように集まって、大きな図を描いている。未だ知り得ぬ世界の全体を何とか窺おうとする者の前には、自分が自ら手にした心覚えと、人から学んだ世界の見かたとがせめぎ合い領分を争ってやまない。そしておのれ自身の認識と余人から預かる知見が、ほかのどこにも増して火花を散らしてせめぎ合うのが、ここ図書館だ。図書館は人の知りうる世界の縮図なんだ。図書館に携わるものの驕りを込めて言わせてもらえば、図書館こそ世界なんだよ。
。。。。。
ーーそれではキリヒト、お前は言葉のもう一つの基本的な性質のことを覚えているかな?
キリヒトは思わず頷いたが、それは何だったか言ってみろと言われたら困ってしまったところだ。幸いマツリカ自身が答えを先に言ってくれた。
ーー言葉は小から大へ階層構造をもって組み上がっているといくということだ。有限の記号がこうして漸次複雑さの度合いを増して、世界そのものの複雑さに拮抗しようとする。それではキリヒト、書物は何で出来ている?
「・・・言葉で・・・でしょうか」
ーーよかろう。言葉を集めて、一つの書物が織りなされる。この書物が言葉の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?
「はい」正直に言えば理解してしているかどうかは判らないが、それは質問ではなかった。
ーーだとすると書物もまた時の進行に従い、一方通行の一条の線を成していることは明白だね?
「はい」自信に欠けた返答に、マツリカが助け船をだす。
ーー何も難しい話じゃない。本を逆に読んでいく人はいないでしょう。逆から書いていく人はいないでしょう。そういうことよ。
なるほど、それなら判るとキリヒトの目が明るくなる。
ーーそれではキリヒト、最後の質問、図書館は何で出来ている?
キリヒトにも今度の質問の意味は明らかだった。削りだした岩盤やら、材木、漆喰、鋳鉄、そういうことを聞いているのではない。図書館を構成するもの、図書館が図書館であるためにそこになければならないもの、それは書物にほかならない。果たしてマツリカはキリヒトの答えを待たず、あとを続けた。
ーーもうすでに判っているだろう。図書館は書物の集積から織りなされた膨大な言葉の殿堂であり、いわば図書館そのものが、一冊の巨大な書物。そして収蔵される一冊いっさつの書物はそれぞれ、この世界をそのまま写しとろうとする巨大な書物の一頁をなしている。ではキリヒト、図書館もまた一冊の書物であるとすれば、その図書館の書物の性質をそっくり受け継ぐだろうことは理解できるね?したがってまた図書館が言葉の性質をそっくり受け継いでいることも理解できよう。言葉が互いに結びつきあい、階層を成して単位を大きくしていく、そのまっすぐ延長線上に図書館があり、世界の全体すらもまた同じ線上にある。無論この巨大な書物はどの頁を最初に取りあげてもよく、どの頁を読まなくて差し支えない。開くべき最初の頁、辿り着くべき最後の頁がどこにあるかも判らない。読み進むべき方向も明らかではない。にもかかわらず任意にいかなる頁を繙いても、そこには一条の不可逆の線が刻まれているだろう。
縦に続くものもあれば横に続くものもある。左から右に並べられる言葉があり、右から左へくりひろげられる言葉があり、中には一行ごとに進む向きを変え「黎耕」する言葉もある。それなのにありとある言葉がただ一つの規則のみは遵守している。そこには必ず順序を持ち、前後の列を保つ、後戻りすることのない一本の線を成した言葉が刻まれているということ。図書館が一冊の書物である限り、図書館は言葉が享受する様々な力をひとしく持ちあわせるし、言葉が出て縛られるありとある桎梏をひとしく課せられている。なかんずく図書館の中の図書館と世界に謳われ、自らもまたそう嘯くこの「高い塔」が、言葉がそのものから立ちあがり、書物そのものから織りなされてある以上、その基本的な性質を曲げず受け継ぐのは理の当然だろう?
故に、キリヒト、この図書館がまた一冊の書物である以上、順路は一方向にして不可逆、それに何の不思議があろう?
。。。。。
しばしば勘違いされていることだが、手話というものは本来「声の代替物」ではない。つまり一般には、ある国語がまずあって、それを声で表すことも、手話で表わすことも出来ると誤解されがちなのであるが、これは手話の本質を突いてはいない。手話はそれ自体で独立した一つの言語なのであり、既存の音声言語に依存する代替的表現手段などではない。キリヒトもかつては、ここを誤解していた。手話は何かの、たとえば声の代理を果たすものだと何となく理解していたのだった。
当たり前のことだが通常の音声言語は発声を前提とする。だから発声を前提とした構造化があって規則がある。手話という全く前提を異にする表現手段を。いつまでもこの音声言語の鋳型に無理に嵌めこんで、あたら矯めてしまうのは不合理なことで、植木鉢に魚を育てようとするような話である。
手話は手指の動作ばかりではなく首の振り、眉や頰や口角や顎の様子、表情から視線すらをも動員して、空間的・多面的に展開される、音声言語とはまた別個の言語であって、手話ならではの文法規則や文の構造化要素の多くが、こうした全身的な挙措の総体として織りなされている。
もともと聴覚や発声に障害を持つ者は家ごとに、それぞれ独自の「家庭内手話」とでもいうべきものをほとんど自発的に発達させるが、これがある程度の規模と歴史をもつ社会集団の中で自然、擦り合わされ、調整され、長い彫琢と練磨を経て、自分たちの要請に特化した一つの言語を結実させてきたのであった。
イラムやマツリカの手話には、必ずしも音声言語にそのまま対応しない、独自の秩序、独自の構成原理のようなものがあり、それが彼女らの手話の表現力と発話速度を支えている。実際キリヒトは、ただ指を鳴らしただけ、ただ人を指差しただけに見えるしぐさで、マツリカがいかに雄弁に、傲然と命令を下すかを見てきた。
もっともキリヒトもすぐに気付いたが、ひとくちに手話は別個の言語をなしているといっても、特にマツリカの手話は、いわば幾つもの層が重ね合わせられており、その内実は単純ではなかった。全てが純粋な手話の論理に従って組み立てられているわけではない。
まず最初の層としては右に強調してきた純粋手話の層がある。これは音声言語の秩序化としばしば全く別個の構造規則を持つ層である。
しかし聾者、唖者は数の上でまさる周囲の音声言語の話者と意思疎通することも避けるわけにはいかないから、音声言語を敷き写し出来る表現手段だって、どうしても必要になる。その極端な方法として、音声を全て手指で「書く」という方法、当該の言語の音を字母に「書く」のと同じように、手指の形と動きに変換する手段が考えられる。いわゆる「指文字」である。指文字は原理的には音声言語の全てを敷き写しにすることが出来る。
だがもちろん指文字はけっして効率的な方法とは言い難い。指文字は発声に比べても手話に比べても、致命的に遅く、著しく誤認が多く、手話本来の表現資産を欠いた極めて不合理にして不便な手段なのである。
それでも指文字がどうしても必要になる場面はある。例えばマツリカがキリヒトの名前を確かめたときのように人や土地の名を発話したい時、あるいはとある「語」そのもの、綴りそのものが話題になっている時には、その「言葉」を書いて見せないわけにはいかなくなる。
またマツリカがこととする文献学や書誌学、はたまた言語や文字の歴史が話題となるなら、事細かに音や文字を指定して話を進めなければならない。とりわけ写本の比較にことが及べば、誤記や綴りの変異がそのまま枢要な着眼点になるのだからことは一層繊細になる。
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用兵と戦地の管理といった実学の粋を学んできたキリンには、古代の埒もない戯言が書かれた文献を再構したり、夢物語と区別も付かない偽の歴史書を発掘したりといった図書館の仕事が、虚しい虚学のように思われてならなかった。例えば架空の生き物を列挙した文献を収集、整理することにどんな意味があるというのだろう?
それなのに高い塔は長らく一ノ谷の軍略の最終拠点と見なされてきているのである。キリンには無駄と思える本を山と集めた図書館が、時に王宮で具体的な戦術の拠りどころとなる理由がさっぱり判らなかった。キリンにとっては、必要な資料はぎりぎりまで絞り込んで、無駄なく漏れなく全ての手筋を眼前に晒したうえで、適切な一手を選ぶというのが最良で効率も良い方法に思われた。図書館はあまりにも不透明で、無秩序で、規模が大きすぎ、限られた時間の中で限られた情報を持って決断しなければならない現実での方針決定に対して有効なものとは思われない。
ところがそれでありながら、自分のお家芸である読みの深さと、情報を絞り込んだところから下す即断の勝負において、実際にキリンは図書館の後塵を拝していた。つまりキリンは図書館に将棋で連敗を続けていたのであった。
ことの起こりはこうである。キリンがカリームのもとに身を寄せるようになって、ひとつ思いがけず有り難かったのは、カリームが一ノ谷との連絡に毎日伝令を一組往来させていたことである。キリンにとってこれが特別意味を持ったのは、一ノ谷の古書店組合の重鎮のひとりと通信で対局を進めていたからであった。すでに西方ではキリンは手合わせをする棋士に事欠いていたのである。
この対局相手の紹介で、キリンは海峡向こうの一ノ谷本土に、未だ顔も見ぬ強敵を何人か知ることになった。カリームは自分の抱えている軍師の一人が、その知略を穏当な形で世間に知らしむるのをむしろ好ましいことだと考え、自ら身元の紹介先を引き受けてキリンの将棋による外交を支援した。実際の用兵と抽象的な知的遊戯ではもちろんことの本質は異なる。それでももっぱら同じ条件で純粋な知力を競うこの遊戯に人がとりわけの関心を持っていたのは、当代でもっとも強い将棋指しと名指しされている一群の一劃に、長らく高い塔の先代タイキが君臨していたという理由があった。それで人は誰も、この策略と知謀をめぐる洗練された遊戯を単なる卓上の手遊び、有閑階級の余技とは考えず、あたかも軍略に長けた者達が脳髄を持って鎬を削る模擬戦のごときものと考えていたのであった。
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