Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

初手 将棋の子/大崎善生

2019-03-27 18:49:23 | 音楽・芸術・文学

  

 まだまだ寒いし、生活習慣(病?)がマズイせいで血糖値がオカシイ。などとツマンナイことばかりでコタツに潜り込んで観るはAbemaTV将棋チャンネル。ある日ムスメが現れPC画面をちらり、ボーッとしてんじゃねえよ~という感じで、文庫本をよこした。それが、「将棋の子」。数日して次が飛んできて「しょったんの奇跡」。なぜにムスメが、こんな将棋の世界の本、こういう世界を見ているかはイマイチ判然としないが、まあ、いいのではないかい。どれも読んでいなかったし、どれもすばらしかったからだ。こうなると気になっていた「聖の青春」も一気読み、これは逆にムスメに貸してやった。エネルギーが多少湧いてきたので、初手から三手目まで三作をメモしておくことにした。連日、半ボラお仕事も年度末、総会準備で綱渡りの日々、こんなことやってていいのか、1分将棋みたいな今週であった。。。よんじゅうびょう、ごじゅうびょう、いちっ、にい、さん、しい、、まあ、いそがしいほど、冴えってものは出てくるのだ。。。

 藤井聡太クンが現れ「将棋世界」表紙を飾っているのを見て、何十年ぶりかで毎月買っていた。この新人、むむ、これは、何十年に一人の逸材だ。こちとら今さらリアルにヘボ将棋をやる気も起きないから、もっぱら図上演習というか研究と鑑賞。棋譜をならべても時間ばかりかかって途中図とも合わず、どっか抜けたかな!?で、将棋盤はただのサイドテーブルに。今の時代の環境ならPCのヴァーチャル画面の方が。。。だいたい猫パンチが飛んで来たら盤面はぐちゃぐちゃ、それこそ「矢倉は終わった~」

 将棋の世界というのは、実業ではなく虚業の世界(?)なので、ときに将棋そのものよりその周辺も楽しめるものだ。大好きだった米長さんいなくなって寂しいが(そういえば今の僕の歳で亡くなられたのだ)、最近は若くて元気なのがいっぱい出てきて何より。対局中バナナとフィナンシェのテンコ盛りの永瀬、努力家とか皆がいうが、あれじゃあ血糖値ダイジョーブかね?
 そのむかし子供の頃、雨が降ると菅野さんちの食堂で皆で「待った」ばっかしの将棋あそびしてたっけ。将棋指しになるという一手もあったのかなあ???いやいや、棋士なんか、運も含め本当にほんの一握りの人しか成れないものなんやろ。将棋で感想戦というのがあるが、あれはやだね。人生の感想戦なんかも、みんなやりたいもんかね?!

******************

<<以下  「将棋の子」 大崎善生 講談社文庫  より引用>>

。。。

時計は午前一時を指していた。
成田は明日午前6時には起きてご飯と納豆をかきこみ、叩きとして走り回る一日が待っている。私は東京へ帰らなければならない。
別れる時間が確実に近づいていた。
「将棋界のこと知っているの?」と私は聞いた。
「いや、まったく何も知らない」と成田は答えた。
「いまの名人は?」
「いや、知らない。こっち、雑誌も新聞も見ないから」
「丸山忠久」と私は言った。
「丸山?そんなのいたっけ」
「奨励会、いっしょだったはずだよ」
「ああ、じゃあおとなしい子だったんだ。名前はなんとなく覚えている。そう言われてみれば」
「羽生さんが七冠王になったのは?」
「それは知っている。テレビでもやっていたもん。こっちが栗山に戻ったころかなあ」
「驚いた?」
「そりゃ、驚いたさ。だって、こっち奨励会でやってたころは、羽生君まだ子供だったもん。可愛い子だった。あの子が七冠を全部とるとはすごいよねえ」
「羽生善治はすごい」と私は言った。
「うん。ハブゼンはすごい」と成田は言った。
それはずいぶんと久しぶりに聞く奨励会時代の羽生のニックネームだった。羽生が頂点へぐいぐいと駆け上がっていくにつれてそう呼ぶものはだれもいなくなっていった。しかし、成田の時計はそこで、その時代のまま止まっているのである。
「奨励会時代の対羽生戦は、何勝何敗?」と私は聞いた。
「0勝4敗」と成田は間髪を入れずにそう答えた。
「全然勝てなかったの、子供に」
「ああ、こっち一回も勝てなかった」と言って成田は嬉しそうに笑った。
「羽生善治、好きか?」と私は聞いた。
「好きだよ」と成田は言った。
「一回も勝てなくても」
「ああ、こっちの、なんていうか誇りだ」
「誇り?」
「そう、一回も勝てなくたってハブゼンはこっちの人生の誇りだよ」と成田は顔を輝かせた。
「明日早いんだろ?」と私は言った。
「うん、いつも通りだよ」と成田は答えた。
「じゃあ、そろそろ帰らなきゃな」
「うん」
「悪かったな遅くまで」と私が言うと成田は引き止めるように言った。
「こっち、奨励会時代からずっと持っているものがあるんだ。見る?」
「なんだ?」と私が聞くと成田はニコニコしながら財布を取り出し、その中から一枚のカードのようなものを大切そうに抜き取った。
「なんだと思う?」と成田は言う。
なんだろうなと私は考えた。母の写真はもう一枚も持っていないと言っていた。佐知子との写真だろうか。あるいは、どこかの道場の棋力認定証、または指導棋士の証明証。私はそれをつぎつぎに言ってみたけれど、成田はことごとく首を振った。
「いいでしょう、これ」と言って成田はテーブルの上にそれをもったいつけながら置いた。
森昌子のブロマイドだった。
「はは」それを見て私は思わず吹き出してしまった。決して美人とは言えない森昌子が、パンダのような化粧をして演歌を熱唱している写真だった。彼女の人のよさと心の純粋さと、歌を信じる心の強さのようなものがそこには映しだされていた。
「いいでしょう、森昌子」と成田は言った。
「ああ、いいね。確かにいい写真だ」
「駒とこれ。それだけさ。こっちに残ったものは。この二つだけは肌身離さずもって歩いているんだ、こっち」
その成田の言葉を聞きながら、私は思った。では自分はいったい何を大切にして、なにを肌身離さず持ち歩いているというのだろうか。どんなに苦しいときにも、少しだけでも成田の心を一瞬解放してくれた、一組の駒と一枚の写真。それにまさる宝物を私は何一つ持っていない。 

 棋士になっても不幸になっていく人間を私は千駄ヶ谷にいて何人も見てきた。どんな名声や勝利を勝ち得ても、人を信じることも優しくすることもできない棋士もいた。ただ生活のためにわずか150人の競争にあけくれ、人を追い落とすことだけに長けていく棋士もいた。そういう人間たちを私はすぐそばでそしてこの目ではっきりと見てきた。もちろんそうではない棋士も大勢いる。しかし、確実にそうである棋士がいることもまた事実である。
 将棋に利ばかりを追い求め、自分が将棋に施された優しさに気づこうともしない棋士と比べて、ここにいる成田は何と幸せなのだろうと私は思う。

 奨励会という制度が棋士になり勝つことによって金を得、生活権を得るための、ただそれだけものだとしたら、それだけのための競争だとしたら何というむなしいものだろうか。
将棋は厳しくはない。
本当は優しいものなのである。
もちろん制度は厳しくて、そして競争は激しい。しかし、結局のところ将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない。
それを教えるための、そのことを知るための奨励会であってほしいと私は願う。

 店内に「蛍の光」が流れ始めていた。ウエイトレスたちは客がいなくなったテーブルをきれいに拭き清めていた。
「またしばらく会えないな」と私は言った。
「そうかあ」と成田は寂しそうにつぶやき、そして続けた。
「大崎さん、こっち時々大崎さんに電話してもいいかなあ」
「そりゃいいよ」
「でも、こっち長距離電話かけるお金ないんだよね。だから、本当に時々さ」
「コレクトコールにすればいい」
「何それ?」
「まあ、いいから。俺のところに電話をかけたくなったら公衆電話に十円玉入れて、それから106と押す。そうすればお金はかからないから」
「本当?106だね」
「ああ、本当。ちゃんと覚えておけよ」
店内の明かりが急に明るくなった。
「負けるなよ」と私は成田に言った。
「ああ、こっち負けないよ」
「英二。すこしでいいから、目線を上げろよ」
「目線?」
「そう、名人を目指せとは言わないけれど、すこしは上を向かなきゃ。英二だって昔は夢を目指して頑張っていたんだろ。それが君の誇りなんだから。僕なんかが逆立ちしたって立てない場所に立っていたんだから」
「奨励会のこと?」
「ああ、そうだ」
「逆立ちしたって立てない場所?」
「ああ、英二はそこにいた。それは事実なんだから」
「わかった」
「何もしてやれないけど、東京に友達がいる」
「友達?」
「そう。英二がそう言ったじゃないか」
「大崎さんのことかい」
そういう成田の目に涙がにじんでいた。
「だったら、こっち電話かけてもいいでしょ」と手で涙をぬぐいながら成田は言った。
「いいよ」
たとえ夢にいつかたどりつく場所があったとしても、きっとそれはここではないと私は思った。そんなはずはないと。
「寂しくなったら、電話するよ」
「ああ」
「コレクトコールだったね」
「そう、106だ」

ファミリーレストランを出ると、外は季節外れの雪が降っていた。空を見上げると、暗黒の闇の中から魔法のようにふわふわと白い雪が次々と舞い降りてくる。
「まいった、まいった」と成田は言った。
「明日も寒いなあ」と続けた成田の言葉が空気の中で白く煙った。
厳しい寒さの日に、戸を叩き続けると最初は激痛が手のひらから腕の中を走り抜ける。それを繰り返しているうちにやがて自分の手の感覚がなくなり、戸を叩くたびに、もしかしたら氷のように自分の拳は粉々に砕けてしまうのではないかという恐怖に襲われると成田は言っていた。
手袋をとると手が真っ赤に腫れ上がり、フーフーと息を吹きかけて、ひたすら痛みが通り過ぎるのを待つのだと。
「明日も大変だね」と私は言った。
「でも、寒さなんか平気だ」
「そうか」
「ああ、寒さなんか馴れてしまえば平気だよ」
自分に言い聞かせるように成田はそう強がった。
札幌に降る5月の雪のなかで私はタクシーを拾い、乗りこんだ。
「じゃあ、またな」と私は言った。
「うん、大崎さんいろいろとありがとう」と成田は言った。
タクシーが発車し、後ろを振り返るとしんしんと降り続ける雪のなかで成田はいつまでも手を振っている。まるで糸にあやつられた人形のように規則正く手を振り続けている。
 暗闇と白い雪、街灯の光と車のブレーキランプの赤や信号の青、サーチライトのようなさまざまな色に照らされて成田は直立不動で立ちつくしている。
「早く帰れよ」と私は口のなかでつぶやき、そして振り返るのをやめて、おそるおそるタクシーのルームミラーをのぞく。
成田は小さくなって、でも笑いながら手を振っている。
 私はその姿を見ているうちに涙が溢れてどうしようもなくなった。次々と新しい涙が溢れ、そして声を出して泣き出してしまった。
 あそこに、将棋の子が立っている。
 そして懸命に手を振っている。
 ミラーのなかに将棋の子がいる。
 将棋を愛し将棋を信じ、そして今も将棋に何かを与え続けられそのことに感謝している、40歳の元奨励会会員が立っている。
 雪になかにいる成田はニコニコと笑い、暖かいタクシーのなかで私は泣いている。
 まったくどういうことなんだろう。
「早く帰れ」と私はもう一度口のなかでつぶやいた。
「早く帰って布団にくるまって寝ろ」
 涙でゆがんだ景色のなかで、成田はだんだんと豆粒のように小さくなっていく。それでも、機械のように手を振っている。
 その姿は何重もの雪と光の洪水の中にまぎれ、やがてあとかたもなくその深みへと、ネオンの底へと完全に埋没していったのだった。 

 <エピローグ>

北海道からの旅を終え、その半年後の平成13年1月31日に私は日本将棋連盟を退職した。
わずか半年の間にさまざまな出来事が起きた。そのなかのいくつかは、将棋界のバランスがどこかで、しかも確実に崩れていくような出来事だった。
 瀬川晶司という三段で奨励会を退会した青年が、銀河戦という公式棋戦で7連勝という快挙をなしとげた。アマチュアがプロを相手に7人ごぼう抜きしてみせたのだ。。。。

 ******************

 

 うーん、こうなると、次は「しょったん」だね。瀬川さんは昨年の天童の人間将棋の解説で見たよ。現地では「しょったん」がこんど映画になるとの話題が出てたが、こちらは、ほ〜〜お、と思っただけ、ナニも知らなかったのでメンゴ。夢はあきらめずにね、そうすればいいことがあるんだ。藤井クンのあの連勝中に突入した順位戦初戦が、瀬川さんだったもんね〜、いい将棋でしたよ、いい出会いでしたね。瀬川さん、昨期竜王戦では敗者復活で勝ち上がって見事昇級してました、フッカツが得意なんだ、えらいね!!

<<以下 「 泣き虫 しょったんの奇跡」瀬川晶司 講談社文庫 より引用>>

。。。。

 応援の手紙やマスコミの取材は、ますます増える一方だった。将棋の調子も、明らかに落ちていた。奨励会を退会したあと、僕がいちばん大切にしてきた将棋を楽しむ気持ちが消え、年齢制限におびえていたあの頃のような覇気のなさが顔を出しはじめていた。
 これで僕がもし第二局に敗れ、第三局も当然のように一蹴され、立ち直れないまま第四局も負けて一勝もできずに挑戦失敗という結果に終わったら、いったいどうなるだろう。自分の人生がかかっているというプレッシャー以上に、その恐怖が大きかった。しかもいまのままでは、その可能性はかぎりなく高いのだ。
 やっぱり僕には、プロになることなど無理だったのだろうか。 

 試験将棋第一局から一週間ほど経ったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 その瞬間、僕は声をあげそうになった。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰を切ったようにこみ上げてくるのを感じた。嗚咽でのどが震え、文面が涙で見えなくなる。それを拭っては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった、すべては、このひとのおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも。ここまでいろいろなことがあったけれどもなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻ろう。僕は、僕でいいのだから。
 心の中にできた固い岩をすべて溶かしきるまで、僕は泣きつづけた。


「では、行ってきます」
 八月十三日。部屋のいちばん目立つところに貼ったドラえもんの葉書にそう挨拶して、僕は試験将棋第二局を戦うために大阪に出発した。
 翌十四日、神吉宏充六段を破って試験将棋初勝利をあげた僕が、その後の記者会見で、万感の思いを込めてこう答えた。
「いままでの人生で、いちばんうれしい勝利です」

。。。。 >>>

 

( 「大崎善生 解説 」より)
 奨励会退会後の奨励会会員たちのその後の人生は、本当にさまざまだ。小学生時代から文字通り将棋に明け暮れ、それだけを人生の目標にしてきた彼らが、ある日突然にその自分という人格を形成していたはずの骨格をはがされ、すべての価値観を測っていたメジャーをはずされてしまう。
 。。。。
 二十歳前後の社会的な経験もほとんどない彼らが、いきなり身ぐるみはがされて真冬の路上に放り投げられ、そして決断を迫られる。自分の今までの人生とはなんだったのか、将棋とはなんだったのか。それに挫折した自分はこれから何を指針にして生きていけばいいのか。第一、どこに行って何をすればいいのか。どこに行けるのか。
 本書を読んでいると私の目からはクールでスマートに見えた瀬川さんも、やはり同じような苦しみの中で、タールの海を泳いでいた時期があったのだといまさらながらに気づかせられる。考えてみれば当たり前のことで、誰もが簡単に自分の存在価値を捨てられないように、奨励会員がクールに将棋と訣別などできるわけがないのである。
 身を切り裂くような思いで将棋に対して線を引いたはずの瀬川さんの人生が、やがて微妙な航跡を辿りはじめる。対プロ7連勝や八段や九段への勝利をはじめとして、常識では考えられないような成績を次々と残していくのだ。
 プロをものともしないアマ。
 目の前で起こる実現不可能だったはずの奇跡。
 それを次々とおこしていく瀬川という青年。
 アマチュアはそんな夢のようなスターの出現に胸を熱くして声援を送り、瀬川さんはそれ以上の活躍で応えてみせた。訣別したはずのプロ将棋、線引きが済んだはずの将棋そのものが、まるで陽炎のようにゆらめきながら再び自分の人生に近づいてくることに、果たして彼は喜びと恐怖のそのどちらを感じていたことだろうか。
 世間は動き始めた。
 瀬川さんの意思とは違うところで。彼をこのまま放置することはプロ棋士の存在理由さえも揺るがしかねない。そんなところまできてしまっていたのである。そしてついに提示される、あまりにも大胆で未曾有の決着の仕方。
 それが棋界史に輝くプロ編入試験だ。
。。。
 瀬川さんの人生のみならず将棋の歴史を大きく変えることになった奨励会退会者による編入試験は、施行方法に賛否両論を抱えながらも、大きな世間の注目を浴びながらスタートした。将棋が社会全体から注目されるという意味で羽生善治七冠誕生以来の大ニュースだった。七冠の完全制覇が奇跡の達成を目の当たりにしたいという意味で注目されたとすれば、瀬川さんの編入試験は一度は挫折を味わった経験のある日本中の多くの人間たちから共感を持って注目されることになった。

夢を追う姿。
決して諦めない姿。
それも一度は挫折した夢に再びかじりつくように追う姿。現実的には見られそうでいて滅多に見ることのできない、そのありのままの姿が公開の場にさらされ、一歩一歩もがきながらも瀬川さんは手足をばたつかせ続けた。
そしてついにくる熱狂の日。
タールの海を渡りきった彼を待ち受けていたのは、二度と戻ることのできなかったはずの夢の場所。
プロの四段だったのだ。

。。。。
平成十七年十一月六日深夜。
わたしの携帯が鳴った。ディスプレイを見ると瀬川晶司とある。
。。。。


 **************************

 「将棋世界」の編集長を十年やった大崎善生のデビュー作「聖の青春」が2016年に映画化され、「村山聖は18年ぶりに戻ってきた」という。映像はともかく、話題になるのはいいことだ。日本将棋連盟HPの最近の将棋コラムに、「将棋界の師弟関係の魅力に迫る」という記事がある。2017年に引退された森信雄七段の最初のお弟子さんが村山聖。いまや森一門は西の大所帯、山崎隆之、糸谷哲郎、増田裕司、安用寺孝功、片上大輔、澤田真吾、大石直嗣、千田翔太、竹内雄悟、室谷由紀、山口絵美菜、石本さくら。

<<以下、青色字「聖の青春 (角川文庫) - 大崎 善生」より引用 >>

 <<プロローグより>>
 。。。
 平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。
 村山聖、29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。
 村山は幼くしてネフローゼを患いその宿命ともいえる疾患とともに成長し、熾烈で純粋な人生をまっとうした。彼の29年は病気との闘いの29年間でもあった。
 村山は多くの愛に支えられて生きた。
 肉親の愛、友人の愛、そして師匠の愛。

 もうひとつ、村山をささえたものがあったとすればそれは将棋だった。
将棋は病院のベッドで生活する少年にとって、限りなく広がる空であった。
少年は大きな夢を思い描き、青空を自由にそして闊達に飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年はありとあらゆる 努力をし全精力を傾け、類まれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。
 夢がかなう、もう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と淘汰を勝ち抜き、村山は名人への扉の前に立っていた。
 しかし、どんな障害も乗り越えてきた村山に、さらに大きな試練が待ち受ける。
 進行性膀胱癌。

。。。。。。。 

 平成元年の冬、将棋界を揺るがす大事件が起こった。将棋界の最高棋戦、竜王戦で羽生善治が島朗竜王を下し、わずか19歳で将棋界の頂点に立ったのである。
 東京グランドホテルの対局室、ぐるりと取り囲んだ報道陣が間断なく浴びせるフラッシュの光の中で「地位の重さについていけるかどうか心配です」と羽生はかすれた声を振りしぼるように語った。部屋はニュースター誕生の興奮と4勝3敗1持将棋という白熱の大接戦の余韻がさめやらなかった。
 天才棋士出現の報は将棋界をつき破るように日本中を駆け巡り、羽生善治の名は一夜にして広く世間に轟きわたることとなったのである。

 そんな同世代棋士の活躍を横目に見ながら、村山の棋士生活は伏在する体調面の問題との戦いであった。健康状態がすぐれないときは黒星がたまっていく。そしてその黒星がまた体に悪影響をあたえるというどうしようもない悪循環の中でのたうちまわるような日々がつづくのだった。
 体調が戻ればみるみるうちに勝ちはじめる。勝てば体も楽になる、10連勝くらいは何度も記録している。しかし、好不調の波が大きく、なかなか1年間安定した状態でいることはむずかしい。したがって順位戦のリーグでは毎年本命といわれながら、C級1組に3年間足止めを食うことになる。
 その間、結局村山は前田アパートと将棋会館と師匠のマンションのトライアングルの中を行き来する生活パターンをひたすら繰りかえした。羽生がどんなに強くても自分にできることはそう多くはないというのもまた厳然とした事実なのであった。
 そう。村山にできること。それはいままでの反復しかない。毎日将棋会館にいき棋譜を徹底的に調べ上げる。そして、奨励会員をつかまえ、10秒将棋の特訓をする。深夜部屋に戻り、詰将棋を朝まで解く。将棋に勝とうが負けようが村山は、がむしゃらに同じ勉強法を繰りかえし、またそれを信じるしかなかったのである。

 このころ、村山は東京の棋士ともつきあいをはじめた。森雞二、野本虎次、滝誠一郎、先崎学ら、みな麻雀のつきあいである。対局で東京に出てくると必ず麻雀に誘われるようになっていた。
 勝つことに無我夢中で、そのことに全身全霊を傾けているような村山と卓を囲むことが、将棋界でもなうての麻雀の強豪たちに新鮮に映ったのである。まるで真剣勝負のように牌を自摸り投げ捨てる。勝ち負けに徹底的にこだわる村山の麻雀はあっと言う間に東京でも評判になった。
 ある日は早朝の病院での注射の予約を無視して、卓を囲みつづけた。その日の終電で帰るつもりが、翌日の終電になってしまうようなことがしょちゅうだった。もちろん、そんなことが体によくないのは百も承知だったが、しかし限界ぎりぎりまで村山は遊んだ。まるで、夏の光がそう長くはつづかないことを知りつくしている北国の動物たちのように。
 C級1組に停滞した3年間、それは村山にとってある意味では幸せな日々だったといえるのかもしれない。

 そんな村山を森は許していた。深酒をしても、麻雀で徹夜をしても森は決して怒らなかった。それによってしか得ることのできないものがあることを森は知っていたし、そしてそれがどんなに無駄に見えたとしても決してそうではないことも知っていた。少年時代から入院と対局を繰りかえしてきた村山が、それ以外の人生の広がりを模索することはむしろ、ごく自然なことのように森には思えていたのである。
 そんな月日を送りながら、村山は22歳の秋を迎えていた。 

 11月2日、大山康晴十五世名人を準決勝で破った村山は天王戦の決勝に進出した。
体調は最悪だった。そんな中で村山は全棋士参加棋戦の決勝戦まで勝ち進んだのである。
決勝の相手は谷川浩司。幼い日から、夢にまで見た相手との檜舞台である。しかし、村山の気持ちは一向に高ぶらない、どうにも体調が悪すぎるのである。
 天王戦の決勝は静岡県の伊豆が対局場である。立会人がつき、ファンを集めての大盤解説会がおこなわれるなど、タイトル戦同様の規模の一大イベントである。
 その決勝の前々日、村山はある決心をした。
 不戦敗である。前田アパートから、階段を下りて外に出るだけで精いっぱいという状態だった。高熱は少しも容赦してくれない。そんな自分が静岡までいって対局ができるわけがない。
そんなことをしたら取りかえしのつかないことになる、という恐怖心が村山をわしづかみにして離さなかった。
 その旨を村山は大阪の手合係に打診した。そして、その話は森へと伝わった。
 森の判断は速かった。即座に前田アパートにいき、村山に告げた。
「もし、指せなかったら、引退するしかない、それでもええんやな」
汗ばんだ額に手を当ててみるとかわいそうなくらいに熱い。しかし、森は心を鬼にして言った。
「何度か不戦敗しているが、今回はちょっと意味が違う。新聞社の人たちが何ヶ月もかけて対局場を設営して、立会人を依頼して、そしてこの決勝戦のために1年間棋士たちの棋譜を新聞に掲載してきたんや。それを、全部むだにしてしまうということなんやぞ」
 村山は何も言わずに悲しそうな目を虚空に投げかけていた。

「ファンやスポンサーのために棋士は全力で将棋を指す、それが宿命であり責任なんや。もし、それが果たせないのなら残念だけど引退するしかない。それで、ええんやな」
村山は、はいともいいえとも言わなかった。その代わりに高熱で苦しいのか、時々うめき声をあげるのである。
大淀ハイツに戻った森の気持ちはすぐれなかった。村山の体が棋士として無理なのかと思うことが一番つらかった。手には汗ばんだ村山の額の温もりが残っている。その温もりは何も語らない村山の悲しみや悔しさを代弁しているように森には思えた。
 明日、将棋連盟に不戦敗と弟子の引退を申し出ようと陰鬱な気持ちで考えていた。

 そのとき、部屋の電話が鳴った。村山からだった。
「僕、引退しなければいけないんですか」
「ああ、冴えんけどしょうがないなあ」
「僕、静岡に行きます」
村山は電話口で声を振りしぼるように言った。声が涙ぐんでいた。
「将棋を指します。だから、僕を引退させないでください」という声が震えていた。
「そうか。じゃあ、明日一緒に静岡にいこう」
「森先生も行ってくれるんですか?」
「一人じゃむりやろう」
「ありがとうございます」という小さな村山の声で電話は切れた。

 森は大急ぎで、明日の稽古の代役を後輩の棋士に頼み込み、急遽静岡行きを決めた。
二人は新幹線で三島まで行き、そこからタクシーで伊豆に向かった。村山はぐったりと座席にもたれたまま、殆んど口も利かなかった。森は煙草を吸いながらタクシーの中からただ深い暗闇を見つめていた。村山の状態を見ていると、とてもじゃないが、あす対局に臨めるようには思えなかった。このまま対局させれば、本当にこの子は死んでしまうかもしれない。不戦敗の判断は側にいて自分がくだすしかないそれがたとえ棋士村山の終わりを意味することになったとしても。

 寄り添うように二人は伊豆のホテルにたどりついた。
森は村山の額に濡れタオルをあて、一晩中それを交換した。40度近い熱に、替えたばかりの濡れタオルがあっという間に湯気を立てはじめる。何度も何度も同じ作業をくりかえしながら、やがて森は諦めの気持ちを抱きはじめていた。東の空がうっすらと白んでいた。森はいつしかうとうとと村山の傍らでまどろんでいた。はっとわれにかえり、額に手を当ててタオルを替え、またうとうとする。 

 そんな二人に奇跡が起こった。
森は何度目かのまどろみからわれにかえった。部屋はもう完全に明るくなっていた。目をやるとうんうんうなりながら寝ていたはずの村山の目がパッチリとひらいているではないか。森は慌てて村山の額に手を当てた。するとどうだろう、村山の熱が嘘のように引いているではないか。
「大丈夫か」と森が聞くと「はい」と村山は力強く答えた。
「よかったなあ。これで、まだ将棋が指せるなあ」
「はい」
そして、村山は対局に臨んだ。将棋は谷川の攻めが冴えわたり村山のボロ負けに終わった。しかし、村山はなんとか棋士の責任を全うすることができた。勝ち負け以上にそのことが森と村山に与えた喜びは計りしれないものがあった。

。。。

************************

(大崎さんに謝辞)

大崎善生さん、いいお仕事をしてくれました。そして彼は、夢だった小説を書く。。。うーん、なかなかいいね、ハルキ・一門かなあ!?。。。。
パイロットフィッシュ
アジアンタムブルー

こちらも、うるうるだなあ。。。

優しい子よ 

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村上春樹の単行本はいいね

2017-07-28 00:43:29 | 音楽・芸術・文学
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
クリエーター情報なし
新潮社

わずか3年前ぐらいなんだなあ、村上春樹さんを読みだしたのは。サリンジャーの「フラニーとズーイ」を読み返していて気づいたんだっけ。そのあとの数か月、単行本コレクションに集中したのだが、オクテにもほどがある、やれやれ。

フラニーとズーイ J.D.サリンジャー/村上春樹訳 -2014.5.5 
ノルウェイの森 ー 村上春樹 ―2014-6-6
「長距離走者の村上春樹」 ―2014-6-30

RE:カンガルー通信―2014-7-22

そして今年だ、「騎士団長殺し」が出た。先を争って買うほどでもなしと思って藤沢周平さんの文庫本に浸っていたが、氣分転換にすこしくコンテンポラリーなのもいいかと手に取れば、そう、とてもよかったぜ。こんどの「僕」は美大は出たけど、ってひとだよ。おいおいムスメよ、これなかなかおもしろいよ。。。ふ~ん、まただれか消えるんでしょ、またパスタ作ってて。出だし、絵の描き方から、なんか、ちょっと違うんだなあ、などと言ってなげだしてる気配。。。

そんなことはともかく、ボクのブログメモにある村上春樹さんの単行本は手元にほとんどそろった。こんなことは多少の意思やらがあって、しかも継続していないと出来にくいのだな。オリジナルの単行本というものは装幀もふくめて楽しめるわけだし、なにより字も大きくてゆったりした感じがいい。最近もこんなのをゲットした。騎士団長は別として、’ THE SCRAP 'が、若々しくてバカバカしくてナマだから、おもろかった。でももう、細かい中身は忘れてしまった。

’ THE SCRAP '  懐かしの一九八〇年代(1987)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく(1996)
バースデイ・ストーリーズ(2002)
はじめての文学 村上春樹(2006)
走ることについて語る時に僕の語ること。(2007)
ラオスにいったい何があるというんですか?(2015)
職業としての小説家(2015)
村上さんのところ(2015)
騎士団長殺し(2017)

「騎士団長」をきっかけに、中長編小説もろもろ読み直していた。どんどん読めるのでつぎからつぎへときりがなくなってくる。小説としての物語の展開やディーテイルは覚えていないから、またまた新鮮であって、おおそうだったとだんだん思い出すが、つつぎを忘れているので何度読んでもドキドキしていいね。もろもろ、どんどん、だんだん、またまた、ドキドキだ、やれやれ。。。

書かれた時期が、さかのぼったり行ったり来たりの作品、手当たり次第の再読順はこうなった。騎士団長殺し ⇒ ダンスダンスダンス ⇒ 羊をめぐる冒険 ⇒ 1973年のピンボール ⇒ 風の歌を聴け ⇒ 国境の南、太陽の西 ⇒ ノルウェイの森 
いわゆる「一人称もの」というのかな。語り手の「僕」は、学生に始まり、翻訳請負、フリーのライター、文筆業とか、広告代理店やバーの経営、そして今度は食べるための肖像画家だったりと。それぞれの「僕」がどこか似ているようでもあり、だけど違うヒトなのではあろうが、それでも皆「女のいすぎる男たち」なんだから、まあいいぜよ。いずれ「僕」も悩み多くてタイヘンだろうけど、若いんだし、いろいろ悩んでいろいろ励んでくれたまえ。

こちとらのボクはハルキくんとほぼ同学年であるからして、このわれらの時代と雰囲気もなんとなく共有できるが、かれもそろそろ古希だぜ、ようやるぜ、こういうのは「同時代小説」というのかな。こちとらのボクはといえば、フルタイムで半ボラお仕事しつつ、セパ交流戦始めこれはと思う選手はテレビでみな見ていたこの7月、楽天アマちゃんのサヨナラやだめ押しやら、だれかから一発が出そうな予感はみなあたるようになってきた。これは想定外だったヤクルト10点差をひっくりかえした翌日(則本10勝もあって、ついニッカンスポーツまで買ってしまった)の今夜も東京音頭だったようだ(あれっ、もうまた日付がかわってしまった)。それゆえハルキくんへのお祝いをかねて、いま何してるとFBからシツコク急かされるそのお答えを一週間もかけてここに記すわけだが、変わった出来事っと言えば、我が庭でアブラセミが5匹も孵ったことぐらい。さても、支離滅裂なわが生存実態とその文体、いまだ、テイをなさず。いっそのこと、もろともどこかへ消えてしまった方がいいのかいな。。。

 むうちゃんは、どう思うの?(そこは蕎麦のコネ鉢で、ネコ鉢じゃないんだけど。。。)

    (おまけ・追記)夏はアナゴの夜釣り、手作りのアナゴ針外しはペンキの成り行きで「ノルウェイの森」ヴァージョンになった。ビール瓶サイズが釣れてもダイジョーブ!?

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劇場、またよし

2017-03-18 23:16:33 | 音楽・芸術・文学
新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社

又吉くん、これまた、いいね! マッタン、しぬなよ〜
ヒョーロンは、やだから、これでやめようか、、、、
でもな、それじゃ、あんまりだなあ、、、、
きみのパフォーマンスは、ぜんぜんみたことない、メンゴ、、、、
でもな、お笑いゲーニンが芥川賞候補というときから、目にはしてたぜよ、

2月終わりごろのNHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を観て、これはこれは、と思った、
それでね、いまごろになって、火花、二百何十万人目かで読んでね、えらい感心したやん、
それからや、東京百景、第2図書係補佐、そして、劇場、、、カキフライやら新・四字熟語はまだ来いへん、、、

吉祥寺、三鷹・下連雀、シモキタ、井の頭線、渋谷、、、
うーん、きみの生まれた頃か、、、、井の頭公園、かき揚げ丼のうまいとこあってさ、
吉祥寺じゃ、仙台味噌や、塩鮭のいいものがあったなあ、、、なんだこれは、僕の青春後期は、、、
でもね、あのあたりのあのころ、、、時間が戻せたらなあ、、、、
マッタンの住んでた三鷹台のアパートは、偶然にも太宰の旧居跡だったというではないか、、、
不思議なことだ、、、 

受賞後二作目となると、たいへんだったね、よかったよ、とってもよかった、
さいごは、なみだがでたよ、こんなことは、めったにないんだ、
火花、二百枚、劇場、三百枚だって、ぼく、千枚読んだぜ、二回づつだから、

そうそう、古井由吉さんの「杳子・妻隠」探してもないんだ、
捨てたんだなあ何百冊のなか、去年か、、、古本頼もうとしたら7千円もするんだ!、アホや、ぼくは、、、、
古井さん、まだ死んでないよ、ね、、、、

 
むうちゃんもブログの写真も、いつのまにか、デカっ!!
 
10日前、ニコタマ、取られちゃったか、、、おわびにチュールチュール、、、こっちは小さくね、、、ごめんね、、
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さよならタスケ、むうチャンおはよう

2016-12-11 12:19:19 | ねこちゃん

むうちゃんおはよう、居たか、こたつのなかだ。7月14日生まれ、もうすぐ5カ月、去年夏急に死んじゃったハクチャンの生まれ変わりかなあ、似てるからかママが衝動買いしたんだな、それが9月15日、ちょうど生後2カ月だったわけだ。猫は6カ月で人間での12歳相当になるらしい、あっという間だ。スコティッシュなんとかだが、猫はやっぱり耳はピンと立ってた方がいい。

タスケはがんばったよ、ぼうこうがん手術の後で5年半も生きたんだから。。。もう、ちょんちょんして起こしてくんないからパパはまた朝寝坊にもどってしまった、もうすぐひと月たつか、むうちゃんもお別れをしたけど、わかんなかっただろ。。。タスケはね、ちゃんとお返事をしてお話ができたよ、利口なねこだった、全然噛まなかったよ、そうだ比べてはいかんな。むうが来た前の日にはタスケはNHKにでたんだ。タスケちゃん、抱っこして一緒にみたよね。「おれねこ」を再放送するってNHKから連絡きたぜ、12月13日は火曜日のNHKーEテレ「0655」、もうどーでもいいけど。

タスケは、おねえちゃんが東京から戻ってくるのを待ってそれから半年も生きてくれた。おしっこ痛かったよなあ、この数年はずっーとママと病院通い、さいごは流動食で持ち直したり、がんばったね。でもな、ひともねこも死すべき存在。。。タスケ、ありがと、むうちゃんと同じ大きさの子猫、拾ってあれから18年経ったんだ。。。可愛がってくれてたおねえちゃんは、今日は臨時の市バスを走らせに(?!)行ったぜ、あいつも、おととい夕方のNHKにでてきた。津波にさらわれて人もいなくなってしまった深沼海水浴場近辺に、いつかバスがやって来るようにと偽バス停をそっと置いたりしてたが、なんと今日だけ本物を走らせてくれるという。偽ー記念乗車券とイベント用のバス停プラカードも作ったりしてたが、どうも満員らしいぜ。また、どっかのテレビでやってくれるだろ、オヤジの出る幕ではないから、こっちはカレイ釣りに行こと思ったけど、寒そうだからやめた、こんじょ無し。それで、むうちゃんと、こたつむり、してるわけだ。(とはいえ、夜の7時のNHKニュースにムスメが現れて、ご両親はあわてて録画した、シャイなのであまり言わない、明日12月19日朝にも「おはよう日本」で7時ごろから流れるみたい、とは言った。2016/12/18追記)

 さっき、パパ居なかっただろ、お散歩わんちゃんをまた一匹撮ってきたんだ、これでも、NHKのタスケやおねえちゃんには及ばぬが自分のとこのコミチャンにはそっと出れるんだ。ハロウィーン番組なんか、こどもたちが60人も来てくれて、おもしろかったよ。今流している学芸会の映像もいいな、猫のメークや衣装、シッポまでたいしたもんだ。こどもたち、みんな一生懸命、真剣、これからも仲良くして素直に伸びてくれよ。。。むうちゃん、も、だよ。。。タスケは、もういないんだ。。。。。どこにいったの?また、うちにおいでよ。。。。。。

 

     

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対岸に相槌 ー 佐竹真紀子 展  

2016-05-03 19:50:11 | 音楽・芸術・文学

 

 

佐竹 真紀子 展ー対岸に相槌ーSARP 仙台アーティストランプレイス 

 この若手アーティストは、東北大震災以降何かを思ったらしくテーマをここに収斂させている。もっとハッピーな油絵を描いてもらいたいのだが、それは誰でもやるでしょ、こういうことは私がしなくちゃ、と一蹴されている。であるから余計な口出しはせず、チチハハ共々少しは手助けをしてインスタレーションの映像のなかで共演者の名をもらった。それにしても、これはいったいなんなのか、町が消えた喪失感か、ひとを喪っての鎮魂なのか、過去から未来への時間の停止なのか。。。心を同じくするアーティストたちには、「今、何ができるだろうか」という思いがあっていろんな取り組みもあるようだ。-震災後をみつめる-岡部昌生- 

 

<<あの町の行方>>

    

     

 

<<この町から問いかけて>>映像

 

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鳴かぬなら・・・再考

2015-02-05 05:00:17 | ねこちゃん

藤沢周平に明智光秀を描いた「逆軍の旗」という小説がある。「鳴かぬなら・・・」のお三方と肩を並べるまでに至らなかったのは、うーむ、やっぱ陰影がありすぎたのかなあ・・・
「鳴かぬよう しとめたつもりが ホトトギス ー 光秀」かな、などと脇道にそれてしまった。
肥後平戸藩の藩主だった松浦静山が、江戸時代後期天保のころ隠居しごとで残したタイヘンな随筆集「甲子夜話」のなかに、もともとのホトトギス(!?)が居るという。なんとも見事な、よみびとしらず・・・
>>>レファレンス協同データベースより
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、

 なかぬなら殺してしまへ時鳥    織田右府
 鳴かずともなかして見せふ杜鵑   豊太閤
 なかぬなら鳴まで待よ郭公     大権現様
<<<
おお、そうだと思いつくままに猫ちゃん相手につづけてみた。

鳴かぬなら サイを投げよう ホトトギス  ー ユリウスカエサル
鳴かぬとは ナニおまえもか ホトトギス  ー ユリウスカエサル
鳴かぬなら 代わりがあるの ホトトギス  ー クレオパトラ
鳴かずとも よりをもどして ホトトギス  ー アントニオ
鳴かぬなら 血と汗涙で ホトトギス   ー チャーチル
鳴かぬなら そこがヒントだ ホトトギス  ー エジソン
鳴かぬなら 青くなればあ ホトトギス  ー ノーベル
鳴かぬなら 抵抗せぬこと ホトトギス  ー ガンジー
鳴かぬなら お代はあとで ホトトギス  ー ロスチャイルド
鳴かぬなら あたしがやるわ ホトトギス  ー ヒラリークリントン
鳴かぬなら お菓子を食べて ホトトギス  ー マリーアントワネット
鳴かぬなら 三度も頼むよ ホトトギス  ー 劉備玄徳
鳴かぬなら もうこれでよか ホトトギス  ー 西郷隆盛
鳴かぬなら とべばいいのだ ホトトギス  ー 吉田松陰
鳴かぬなら 別のも欲しい ホトトギス  ー 田沼意次
鳴かぬなら さっさと返上 ホトトギス  ー 徳川慶喜
鳴かぬなら 俺ではないぜよ ホトトギス  ー 正岡子規
鳴かぬから 胃が痛むんだ ホトトギス  ー 夏目漱石
鳴かぬなら やってみせての ホトトギス  ー 山本五十六
鳴かぬなら それでもよしだ ホトトギス  ー 吉田 茂
鳴かぬなら 麦飯を食え ホトトギス  ー 池田勇人
鳴かぬなら どげんかせんと ホトトギス  ー そのまんま東国原
鳴かぬなら おばかさんよねぇ~ ホトトギス  ー 細川たかし
鳴かぬなら それでもいいの ホトトギス  ー テレサテン
鳴かぬなら こまっちゃうなぁ~ ホトトギス  ー 山本リンダ
鳴かぬけど やっぱ好っきゃねん ホトトギス ー たかじん
鳴かぬなら イェイイェイエ ホトトギス  ー AKB48

だんだんおかしくなってきた・・・おや?すばらしく素直なのをネット上でみっけた。
鳴かぬなら わけを教えて ホトトギス ー さすが、教えてGoo-だったかのう?

午前3時ごろに目覚めてもう眠れず、今からまた寝たらヤバイ。FBのみなさんからのヒントですこし追加しこちらにもアップ、松浦ご隠居のをたどって再考したけど、やっぱ、ただのコビベ備忘録におわった。

(さすが子規は、ちゃんとご自分でこれを残しているようですなあ。。。「鳴かぬなら鳴かぬと鳴けよ鵑」ー 愛媛新聞ONLINE より2005.6.4追記)

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藤沢周平と江戸を歩く ー 高橋敏夫/呉光生

2014-12-31 23:27:10 | 音楽・芸術・文学
藤沢周平と江戸を歩く
クリエーター情報なし
光文社

 藤沢周平「橋ものがたり」の解説は井上ひさしさんであった。この解説文の日付は昭和55年4月となっているから、用心棒日月抄、孤剣、立花登シリーズなど、その後繰り出されてくる藤沢作品をまだ目にされていない頃のものだと思われる。だが遅文堂さんについ寄り道させてしまう時代物の面白さだ。「橋ものがたり」では、人の出会いと別れの「橋」への着眼がみごと。

>>>>・・・さて、藤沢周平の小説は、ごぞんじのように大別して五つのジャンルにわけることができます。まず、『一茶』「檻車墨河を渡る』のような史伝もの、第二に直木賞受賞作『暗殺の年輪』のような御家騒動もの、第三が『鱗雲』のような下級武士の恋を描いた青春もの、そして第四が職人人情もの、第五が市井人情もの、おおざっぱですが、とりあえず以上の五つに分けた上で、故植草甚一氏風にいえば「雨の静かに降る日は、藤沢周平の職人人情もの、市井人情ものが一番ぴったりだ」ということになりましょうか。・・・ 「橋ものがたり 」の解説 井上ひさし
<<<<<

大晦日のきょうは雨模様、ニューヨークに行かずともあちこちのジャズクラブや路地裏にまで通じていた植草甚一さんを見習って、日暮れ竹河岸などの「市井人情もの」で、土地勘もない江戸下町あたりをさまよっていた。御用納め翌日、お向かいのご主人が亡くなった。定年直前、律儀な方だった.・・・こういうことばかりだったようなこの年・・・

この年も命ありけり除夜の鐘 紅白もなんだしなあ、あと数時間でことしも終わりだ。百足くんにお世話になって、サインまでいただいた本だから、なんとか年内に(!)書いとこう、間に合うか・・・

「藤沢周平と江戸を歩く」、この本は高橋敏夫先生と企画を持ちかけた呉(百足)光生先生の共著である。高橋先生の前書きにある藤沢さんの言葉によれば、江戸を書くのは、
>>>なぜ江戸時代を小説にするのかと自問しつつ、藤沢周平は書く。「庶民が歴史の表面に生き生きとして登場して来て、それ以前の、いわば支配者の歴史に、新たに被支配者の歴史が公然と加わってくる面白さのためかも知れない」(時雨のあと」のあとがき」<<< ということだ。

生涯で三百を越える作品という藤沢周平、たいへんな数だがいずれとも甲乙付け難い、こうなるとあなたはどれが好きかというところかもしれぬ。この三ヶ月ずっと藤沢さんを読んでいておおよそ8割までいったか。全集は重すぎるので第一巻だけでやめてしまったが文庫本でも60冊となると壮観だ。神谷玄次郎クンのがまだ届かないので今日は三屋清左衛門残日録を、もうボクもそろそろだからなあ・・・
藤沢さんの小説では、地図だけではなく脇道にそれることになる。道草でもなかろうが、今時はインタネットで見ることが出来る。たとえば浮世絵のサイトーアダチ版画。 北斎、広重、歌麿、写楽、国芳、清長、春信・・・一枚ずつ丹念に見てゆくと実にすばらしいものだ。

藤沢周平さんの作品群を場所で分けると北国の小藩ふくむ海坂藩ものと江戸ものとなる。今日のテーマ本は「藤沢周平と江戸を歩く」だから舞台は大江戸だ。高橋先生の藤沢作品の読みとその舞台の街をたどるのは百足氏。小説を読み流すにあたっていちいち地図をたどって読むのももどかしいしテンポと雰囲気優先に地理不案内のまま速読、あとでゆっくり再訪しようと思った。でも本所深川、両国吾妻橋、仙台堀などチンプンカンプンもなんなので、百足氏の真似をして「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社刊)にて、ホホウこの辺りなのかとやっていたが、登場人物たちにはすぐにマカレてしまった。いまの東京の街を足で丹念にたどって時空を超えて藤沢周平を味わうのもなかなかホネのようだ。まあ、ライター氏は足が百もあるのだからいいのだろうが・・・!?

この本で取り上げてくれた藤沢作品を、目次から辿ってあげておこう。さすがにこれだなという作品ばかり、だけど一度読んだぐらいじゃ、とても江戸を歩けぬよ・・・

1.広重『名所江戸百景』に人の哀歓を読む<市井もの1>
  『日暮れ竹河岸』『飛鳥山』『猿若町月あかり』『桐畑に雨のふる日』
2.絵師たちの江戸<浮世絵絵師他>
  『溟い海』『旅の誘い』『喜多川歌麿女絵双紙』『天保悪党伝』
3.探索のまなざし<捕物>
  『霧の果て 神谷玄次郎捕物控』『愛憎の檻 獄医立花登手控え』『消えた女 彫師伊之助捕物覚』『ささやく河 彫師伊之助捕物覚』
4.出会いと別れと再会と<市井もの2>
  『暁のひかり』『橋ものがたり』の「吹く風は秋」『おつぎ』『海鳴り』
5.もめごとを求めて<浪人もの>
  『用心棒日月抄』『孤剣 用心棒日月抄』『凶刃 用心棒日月抄』『よろずや平四郎活人剣』
6.一瞬の決着にいたるながい彷徨<武家もの>
  『回天の門』『刺客 用心棒日月抄』『漆の実のみのる国』『市塵』

青江又八郎、神名平四郎、彫師伊之助、おこうさん、立花登、牧文四郎・・・みんな、よかったね、いまどうしてますか・・・
・・・藤沢さんの小説にはいい人ばかり、ときに小悪党もいる、
でも・・・いちばんのワルでありんすお武家がた

 =====

おおっと、このままじゃ周平との江戸探訪にならんだろう・・・ちょっとだけ、その雰囲気を書写してみた。藤沢周平さんの言葉で「いちばん忘れがたい小説」という「溟い海」を、百足氏の足と筆で散歩してみよう。(元旦に追記)

<<<< 「藤沢周平と江戸を歩く」 P60「溟い海」を歩く より引用、写真略。

老境に近づいた北斎は、広重という新しい才能の出現におびえ、嫉妬し、広重を暴力的に襲い、「腕の一本もへし折る」ことを企てる。深夜の上野、新黒門町の路地にならず者とともに待ち伏せを続ける。
 新黒門町は、切絵図によれば、上野広小路が、御成街道に入ると急に狭くなる突き当たりにある。現在でいえば、上野松坂屋の南館の近くで、中央通りが緩やかにカーブする辺りということになる。
 広重は、版元である錦樹堂伊勢屋利兵衛のところで接待をうけているはずだ。上野広小路には書籍商が何軒もあったことが知られているが、『江戸買物獨案内』という本によると、新黒門町に伊勢屋利兵衛が実在する。ただし、「諸国銘茶肆」である。

 広重襲撃を諦めた北斎は、ならず者たちにいたぶられた身体で本所原庭町に向かって歩き出す。その道筋は小説では示されていない。そこで、途中に北斎自身のお墓がある誓教寺を経由する道を選ぼう。
 まず、上野駅方向へ向かう。現代の「広小路」は、老若男女で溢れるようだ。一本右に入れば「アメ横」もある。駅前に蜘蛛の足のように歩道橋が走る。これを昇って浅草通りに降りる。すぐ左手に台東区役所が見える。ここはかつて広徳寺という禅宗のお寺だった。「おそれ入谷の鬼子母神」に続いて「びっくり下谷の広徳寺」なる地口があったほど有名なお寺だった。区役所のはずれに小さな公園があり、そこに広徳寺が区の依頼で移転した経緯を記した碑が残されている。禅宗のお寺らしく七言絶句が刻まれてもいる。

 浅草通りに戻ると下谷神社だ。決して広くない境内だが、見るべきものはある。この神社は稲荷社で、明治になってから現在の場所に移転した。元の稲荷社の境内では「咄の会」が催された。これが現在の寄席の始まりとされる。境内の隅にある塚にも目を向けたい。小ぶりの塚だが、明らかに溶岩を積んだもので、富士塚の名残と思われる。
 浅草通りに戻り、浅草方向へ。稲荷町交差点近辺は、仏具屋さんの街だ。そのなかに仏師のお店やすだれの専門店が紛れ込む。そんなお店のウインドウ・ショッピングも楽しい。
 松が谷一丁目の交差点を右折して、道路を一本渡った左手に誓教寺がある。本堂の左手に北斎の胸像があり、その手前には生誕二百年の記念碑が建つ。富士山をかたどったしゃれたデザインだ。墓地は、庫裡の脇を抜けたところにある。「画狂老人卍墓」と刻された墓石の脇には、辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」も刻まれているが、見るのはちょっと難しい。

 浅草通りにもどって、さらに浅草方向に歩く。菊屋橋の交差点を左折すると、かっぱ橋道具街に入る。あらゆる道具が売られていることで知られる。お店ののれん、看板、値段表、厨房の道具、皿や茶碗、伝票類等々。ずらりと並ぶ店々は、壮観であり、楽しい。
 なかでも食品サンプルのお店は必見。魚の切り身、寿司、青物、ジョッキになみなみと注がれたビール、ケーキもあればパンもある。どれも本物そっくりで、食欲をそそられる。おみやげにはお寿司やケーキの携帯ストラップがお勧めだ。
 この通りの適当な交差点を右折すれば、浅草寺界隈に出る。この周辺の楽しみ方は人それぞれだろう。昼間から営業している居酒屋もあれば、骨董品の店もある。天然温泉の銭湯で疲れを取ることもできる。奥山のかつての猥雑さには及ばないかもしれないが、その雰囲気を味わうことはできる。

 ともかく浅草寺と浅草神社にお参りしたら、本堂裏手の駐車場の一角へ。戯作者・山東京伝の机塚もお参りしておこう。
 いよいよ大川端に向かう。吾妻橋の向こうにはアサヒビールの本社ビルが見える。
 橋を渡ったら、二股に分かれた道を右に。二本目の道を右に行くと霊光寺というお寺がある。この裏側が、北斎が暮らした原庭町ということになる。
 向島まで足を伸ばし、すみだ郷土文化資料館に行くと、北斎縁の展示をみることができる。

<<<<

切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))クリエーター情報なし人文社 

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江戸の食文化【和食の発展とその背景】ー 原田信男編

2014-09-06 19:23:25 | 音楽・芸術・文学
江戸の食文化: 和食の発展とその背景 (江戸文化歴史検定)
クリエーター情報なし
小学館

百足光生さんの「大江戸ビジネス社会」で、大江戸の社会の活況を勉強させていただいたので、次なるは百足さんもライターの「江戸の食文化」を眺めていた。2013年12月に、「和食」がユネスコの世界無形文化遺産に登録された。われわれの祖先は、この島国で何をどう食べて、どう生きてきたのか、今の時代につながる食生活、食文化というものは、江戸時代にその原点があり、ある部分ではほぼ完成をみているようだ。減塩も気になる、アレルギー要因も、世界中の食べ物と料理も多く入ってきたこの現代、「おもてなし」はともかく、わが財産の一つは和食。

そもそも「大江戸」とはなんだろう。江戸時代、江戸城築城以来大きく拡大していった江戸の町の広がりと繁栄を示す雅語だという。では、「江戸」の地名で呼ばれる地域とは、いまの丸の内から半径20キロぐらいという。「...一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲...寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入...延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管・・・この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められ...文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。・・・Wiki-江戸

徳川時代は、江戸時代だ。「江戸の食文化」は、大江戸のみならず、ひろくこの時代全般にもふれる。人にとって一番大切なのは何かと思うに、愛とか品性とか言う前に、やはり食べなきゃしょうがない。どうせ食べるには、おいしく食べねばならない。であるから、図版、写真とともに、その背景まで描いた、ビジュアルな楽しめる本となるわけだ。「江戸歴史検定」とやらは、まだチャレンジの域にはほど遠いけど、いずれ知識や食文化というものでも捉え方はちゃんとしたほうがよかろう。

江戸食文化紀行 | 歌舞伎座 (松下幸子千葉大学名誉教授 監修・著)というサイトもある。食べ物のある錦絵はほとんど使ったという「芝居と食べ物」、「江戸の美味探訪」300回連載もので、タイヘンな内容と情報量の画面だ。

こちらの本「江戸の食文化【和食の発展とその背景】」は、錦絵や図表なども含めてじっくり見るために虫眼鏡を片手にしても面白い。だからこの本はぜひ手元に置かないといけない。一部だけ引用させていただくと、当然のことながら江戸料理レシピ本ではないから、それを生み出した社会、文化、時代背景というお話となる。

<<<< 以下、「江戸の食文化【和食の発展とその背景】原田信男=編 小学館」 より

「旅の目的にもなったおいしい料理」

寺社めぐりと旅の楽しみがセットに

 江戸時代初期には、五街道を中心に、宿場や一里塚など陸上輸送路の整備が進められた。これらの街道は、幕府の公用と諸大名の参勤交代のために整備されたが、社会が安定してくると、それ以外の商用や物見遊山の旅にも大いに役立った。
 農民の旅は、基本的には幕府や武家権力にとって好ましいものではなかったが、五穀豊穣・村内安全などの祈願という名目がまさった。

 これを助長したのが中世から活動していた御師の存在である。御師は、伊勢神宮・熊野三山・出羽三山・相模大山・富士山・信州善光寺・越中立山・加賀白山・高野山などから全国をめぐり各地に自分が属する社寺参拝のため集団「講」を組織していった。御師は元来、下級の神官で、各地の講を巡回して暦などの土産物を配布し、参詣の際の案内や宿の世話をした。

 そのなかで、江戸時代にもっとも活発に活動したのが伊勢神宮の御師で、18世紀前半には外宮500家(軒)、内宮240家にも達していた。
 講では、くじ引きなどで毎年代表して参宮する人々を選び、伊勢を目指した。その数は、平常年で30~40万人ともいわれている。伊勢山田奉行の幕府への報告によると、お陰参りが流行した享保3年(1718)には、正月から4月の間に42万7500人が参詣したという。参宮が農閑期のこの時期に集中するが、それでも少なく見積もっても年間約50万人という数字は驚異的である。

旅ならではの「ハレ」の饗宴

 伊勢参宮の際の食事は、庶民にとってはたいへん豪華なものだった。文政5年(1822)に金井忠兵衛という人が書き残した「伊勢参宮 並 大社拝礼記行」によれば、「菓子、雑煮、吸い物、肴」に続き、硯蓋には「鮑・鯛・九年母・海老芋・昆布・蒲鉾」が、大鉢には「大鯛」、ここから本膳・二の膳が出され、平には「鮑・青菜・凍み豆腐」、皿には「焼き肴」といった具合である。農村や町場でも地方の人々のふだんの食事からは想像もできない、「ハレ」の饗宴である。

  この料理については、井原西鶴が「西鶴織留」に書いているが、一度に2000~3000人分の調理をするのに台所の働き手は20人ほど。飯は籠に米を入れて熱湯につける「湯取り法」で、焼魚も大きな籠に20枚ほど入れて大釜でゆであげ、長板に並べて片面だけ鏝で焼き目をつけるというものだった。大量の客をさばく便法だったのだろう。

 こうした「情報』は旅行者によって記録され、それぞれの講に持ち帰られて、さらに参宮への憧れを強めていく。それが講に属さない人々までに広がり、村に無断で伊勢神宮を目指す抜け参りのような個人の旅行につながっていった。
 宗教的行為としての旅は、一種の精進だったが、その禁欲からの解放も旅には付きものだった。その意味では、宿場に性を売りものにした飯盛り女(食売女)がいたのは当然だったといえよう。

 いずれにしても旅は日常からの脱出であり、非日常の世界に待っているのは、ふだんとは違う食の世界である。食への願望は、宗教的意味合いよりも強い場合さえあったと考えられる。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになったように、江戸時代後期には庶民の旅に対する憧れも強まる。それにつれて宗教的行為以外の旅も増え、商人や庶民の泊まる旅籠は一汁二菜の夕飯と朝食がセットされ、昼食は付かない現在の旅館の形式が成立していった。一方、下級の「木賃宿」は素泊まりが基本で、燃料代を払い、食料は持ち込みで自分で炊事するのが原則だった。

 また、甲州道中など江戸近郊の街道沿いには、現在のドライブインのように、料理屋や酒楼が立ち並んだという。
【浮世絵画像集】中山道広重美術館「雨の中津川」など展示、9/29まで。

>>>>> 

トップ画像:浮世絵ー太田記念美術館

 

 

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大江戸ビジネス社会 ー 呉光生

2014-08-24 18:00:00 | 大和のひと/明治・幕末
大江戸ビジネス社会 (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館

つい最近、四十数年ぶりに昔のクラスメート百足光生さんにFBのネットで出会った。だんだんと何をしているか・いたかが分かってきて、彼はかなりの書物をモノしていることを知った。まず手に入った「大江戸ビジネス社会」は、<< 目からウロコです。もっと、早くに読んでいればよかったと思いました。(64歳・男性)>>というような感じかな。もっとも、これはもう絶版らしく残念。日本中で今の世の中、いい仕事を大事にしてくれず、不真面目になっているね。

 それではあまりにもったいないので、これを機にもう少しこの辺りの世界に踏み込んでみようと思った。来年からは江戸五輪までの間サンキンコータイで江戸詰めするのもいいかなあ・・・

ではここではホンの一部だけだが著者、呉 光生さんの案内で、江戸のビジネス状況の視察をしてみよう。脈絡なく拾ったようで、生かじり気味なので、この世界の名人石川英輔さんが書かれた「解説」もつけておこう。次なるは、おいしそうな「江戸の食文化」だな。

<<< (以下、「大江戸ビジネス社会」小学館文庫 呉 光生著 より引用、・・・部は中略)

(第2章 大江戸の生活産業 より)

◆ブランドとしての大店

 二〇〇三年春、東京・両国の江戸東京博物館に、ある絵巻物が里帰りして公開され、訪れた人々を驚嘆させた。ドイツのベルリン東洋美術館に収蔵されていた「熈代勝覧」である。

 江戸の町並みを窺わせる絵図は、寛永期(1624~44)の「江戸名所図屏風」「江戸図屏風」が知られているが、「熈代勝覧」は江戸が最も繁栄した文化年間(1804~18)のものであり、しかも日本橋から今川橋までの、江戸のメインストリートを克明に描いたものである。
 絵師は不明であるものの、写実的な筆致は、建ち並ぶ店々や1690人に及ぶ人物を克明に再現している。

 この「熈代勝覧」の中程に描かれているのが三井越後屋である。駿河町の交差点に面し、本店と向店が向かい合って、店の前には人々が蝟集している。もちろん三井越後屋躍進の原動力となった商法「現銀無掛直(値)」の看板も見えている。
 三井越後屋といえば現在の三越デパートの前身としてよく知られている。

 江戸には他にも大伝馬町の下村大丸、日本橋通一丁目の大村白木屋、下谷広小路の伊藤松坂屋など後にデパートへと発展した大規模な店舗があった。

 これらは総じて「大店」と呼ばれたが、すべて呉服屋である。呉服屋は、絹織物専門の小売店と問屋を兼ねた商売である。対して木綿物は太物と呼ばれた。これらの大店は、錦絵や名所案内などによく描かれている。つまり、江戸の呉服屋は現在のデパートと同様に、人々の憧憬を集める「ブランド」だったのである。
・・・

◆コンビニが路地に来る

 江戸の朝は早い。江戸の時刻は不定時法で、昼夜をそれぞれを六等分して、一時や一刻などとした。つまり、朝は常に夜明けの少し前とともに始まり、夜は日没の少し後とともに始まることになる。時代小説などには「明六つ」を「午前六時」などと描いてある場合が多いが、明六つと午前六時が一致するのは、春分の大分前の「雨水」と秋分の後の「霜降」の頃だけである。とにかく、夜明けの三十五分ほど前には、明六つの鐘が鳴って朝が始まるのだ。

 町々の木戸が開いて、人々は活動を始める。女たちは竃に火を熾して、朝餉の準備を始める。そこに夜明け前から準備をしていた豆腐屋や納豆売が売り声をあげながら商売を開始する。
 彼らは天秤棒で担げるだけの商材を持って、縄張りの町内を巡る。追いかけるように、日本橋の市場や神田の市場で魚や野菜を仕入れた男たちが、やはり天秤棒を担いで登場する。醤油売も塩売も嘗物と呼ばれる金山寺味噌売も次々と長屋の入り口までやって来る。

 こうした天秤棒と笊や籠に商材を積んだ担い売の商人を「振売」という。この商売、一人ひとりをみれば、単品を扱うが、こうも集団で次々やって来てくれれば、長屋のおかみさんにとって、これほど便利なものはない。いってみれば、現代のコンビニが向こうから来てくれるのだ。

 もちろん彼らがやってくるのは朝だけではない。昼には、子ども目当ての飴屋も来るし、娘たちを狙って小間物屋も来る。本を担いだ貸本屋も来る。夜は夜で、お店者の腹ふさぎに夜泣き蕎麦屋もやって来る。とりあえず日用に供する必需品は、振売という出張販売で、大体が間に合ってしまうことになるのだ。これをコンビニと言わずに何と言おう。
・・・

◆ファーストフードの王様は蕎麦屋

 現代でファーストフード店といえば、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどアメリカ直輸入の店がまず思い浮かぶ。さらには、牛丼の吉野家や松屋があるが、これも牛肉が日本人になじまれるようになってからのもので、歴史は浅い。ラーメン屋、カレー屋にしても同じようなものである。辛うじて長い歴史をもつものを思い起こせば、立ち食い蕎麦屋ということになるだろうか。

 実は江戸時代にもファーストフード店はあった。なにしろ江戸は当時世界最大の都会であり、しかも圧倒的な男性社会である。手軽な食事の需要が多かったのは当たり前の話なのだ。
 もちろん、その代表選手は蕎麦屋である。通称「二八そば」と言われ、庶民にはおおいに好まれた。二八そばの語源の有力な説に「二×八=一六」という値段由来説がある。この値段からして庶民の味方だったことは疑えない事実だ。

 しかも、落語の「時そば」でお馴染みの一六文が、延享元年(1744)から万延元年(1860)まで一〇〇年以上続いていたというから驚きだ。江戸時代にも当然物価は上昇を続けており、その意味では、戦後の鶏卵に匹敵するほどの「物価の優等生」ぶりである。その万延元年の調査では、江戸府内の蕎麦屋は実に三七六三に及んだという。
・・・

 座敷や小あがりを持つ店構えの蕎麦屋もあったが、圧倒的に多いのは屋台の蕎麦屋である。その蕎麦屋の屋台には「風鈴」がつきものだった。最近ではあまり聞かれなくなったが、ラーメン屋のチャルメラのように、風鈴の音が聞こえれば近くに蕎麦屋の屋台がやって来たことがわかる仕組みで、冬の夜の静寂に響く風鈴は、すきっ腹を抱えた職人や、お店奉公の若者にはなんとも蠱惑的な音色だったに違いない。
 実は、この風鈴が「親ばかチャンリン、蕎麦屋の風鈴」という噺し言葉を生み出したのだが、いまだ健在な「親ばか」に比べると「風鈴」の方は、すっかり廃れてしまったようだ。
・・・

◆いつの間にか高級化した寿司と天ぷら

 現代では、すっかり高級料理に化けてしまったが、江戸時代には屋台で売られ、庶民の人気を集めたファーストフードが、寿司と天ぷらである。
 「すし」の漢字は「鮓・鮨・寿司」と三つもある。それだけ長い歴史があり、その意味するものも変化してきた。古くは米飯を発酵材料とした「馴れ鮨」とよばれるもので、鮒・鮎などの魚の漬け物とでもいうべき保存食品だった。現在でも一部の人が熱烈に好む琵琶湖名産の鮒を材料とした鮒鮨がこれである。鮨は長い歴史のなかで様々な変化をみせる。

 この鮨がさらに大きな変化を見せるのが元禄期(1688~1704)だ。酢を用いることで熟成を早める工夫がなされた。そこから生まれたのが「押し鮨」で、関西では普通に寿司といえば、これを指す。また、一個ずつ熊笹の葉で巻き、軽く重石をかけた「笹巻鮨」も考案された。
 関東で主流の「握り寿司」は、笹巻鮨一個を元に工夫されたもので、文政年間のことと言われている。笹巻鮨は大きめだったために二つに切って客に出された。これが現在の握り寿司が二貫で出てくる所以だという。


 寿司種は、『守貞謾稿』によると、鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮などが代表的なものだった。同書には寿司の絵が載っており、白魚の絵を見ると「中結・干瓢」とあり、また「刺身およびこはだ等には飯の上肉の下に山葵を入る」との注釈もある。

 寿司は屋台での商売が主で、値段も四文とか八文がほとんどだが、中には高級な店も出現した。これが天保の改革の際に、二〇〇人以上の鮨職人が手鎖になった理由でもあった。
・・・

(第3章 大江戸のサービス産業 より)

◆俗な存在としての出版業

 芥川龍之介に「戯作三昧」という短編がある。
 老境に入った曲亭馬琴が、人気沸騰中の「八犬伝」を書き継いでいる際の心境にふれたもので、創作者の心のありようが、芥川自身の心境の変化を投影させながら描かれている。いわば「聖」なる創作に携わる者が、世俗の評判や俗事といかに対峙していくか、そのくびきから解放されたときの創作者の心境がいかに澄み切ったものであるかを「戯作者の厳かな魂」とまで言い切る形で表現されている。

  その「聖」なるものに対する俗の俗として登場するのが、版元の主人・和泉屋市兵衛である。彼は、朝湯から帰った馬琴を待ちかまえており、「八犬伝」に次いで人気を得ている「金瓶梅」の原稿の催促に来ている。しかも、当時話題になった義賊、鼠小僧次郎太夫を登場させてほしいと馬琴に頼むのだ。
 常に世間の話題を意識し、企画に反映させていく姿勢は、現代の編集者と変わるものではない。芥川は、それを世間の塵にまみれた俗人の浅はかで、狡猾な知恵であるかのように描く。
 しかし、和泉屋は版元・問屋・小売店を兼ねているわけで、出版界の中心にいる人物ならば、この程度の知恵は当たり前ではないかとも読める。

 さて、その和泉屋市兵衛だが、もちろん実在の人物で、芝神明前に店を構えていた地本問屋である。江戸後期の出版界は、蔦屋、須原屋など日本橋を中心にしたグループと、芝を拠点にするグループが二大勢力であり、現代の東京の「一ツ橋」と「音羽」を思わせる。和泉屋はその一方の有力書店というわけだ。主な著者としては、山東京伝、曲亭馬琴、柳亭種彦、十返舎一九、式亭三馬など錚々たるメンバーを擁している。しかし、当時流行しつつあった料理本には全く手を出していなかった。

 江戸時代の出版界でも、現代同様、営利が目的だから、売れるための努力は惜しまない。作家を育てたり、人気の作家を引き抜いたりするのも当然である。
 しかし、独自の企画で特色を打ち出すことも重要なことだった。和泉屋の場合、文化・文政期(1804~30)のヒット企画に「浮絵」と「おもちゃ絵」がある。前者は浮世絵に西洋画法の遠近法を採り入れて、より立体感のあるもので人気となった。後者は、切り抜いて遊べるようにした子ども向けのもので、これも相当売れたらしいが、ものの性質上残存数が少ない。

◆和泉屋畢生の大企画

  しかし、和泉屋の名を後世に残したのは、それまで出版界とは無縁と思われていた業種を巻き込んでのタイアップ企画だった。
 その最たるものが、文政五年(1822)に刊行された『江戸流行料理通』である。これは、当時最も人気のあった高級料理屋である山谷の八百善とのタイアップで、八百善の料理献立を四季に分類して掲載し、料理法や心得についても言及したものである。

 八百善の主人・栗山善四郎は料理人としての力量に加えて、三味線など多趣味な人で、文人たちとの交流も幅広いものだった。有名な大田南畝の作として流布した狂歌には「詩は詩書は米庵に狂歌おれ芸者小万に料理八百善」と詠われたほどである。
 八百善については、同時代の種々の本に登場する。まず、弘化四年(1847)序の三升屋二三治の『貴賤上下考』には「浅草山谷新鳥越に名を響かせたる八百屋善四郎は、寺々の仕出しの料理をして、始めて膳椀を持出し、その上しちりん迄持ち行しより、江戸中のはやりものとはなれり、その上下直なれば、評判よく、はやり始めたりといふ、此の善四郎母は橋場町水野平八方に奉公して、その頃善四郎幼年にて、水野の小僧を勤しを、予もかすかに覚ゆ、水野は母なる人の里方にてありしかば、つぶさにしりぬ、人の運命はかく願ハしけれ」となかなかの評判だ。
・・・

  ともあれ、八百善は高級で、文人墨客のサロン的な位置にあったことが企画の原点にあり、『料理通』は世に問われたことになる。たしかに中心になる内容は善四郎による献立集である。しかし、酒井抱一の挿し絵が巻頭を飾り、大田南畝と亀田鵬斎の序文や谷文晁の蔬菜図と大窪詩仏の五言絶句などに彩られ、鍬形斎の山谷付近と八百善の図まで添えられているのである。

  さらに出版を知らせる引札(チラシ)のコピーは柳亭種彦という豪華な陣立てで、宣伝費も惜しまなかったところが、和泉屋の自信だったのだろう。この引札の末尾は「二汁五菜の長いもあれば、一寸小皿に向椀。会席仕たての短いも、あるは八百屋の胸のうち。一度聞て見る時は、芋の煮たも白人でも、忽ち変じて料理通。やって見る気に奈良団扇。七厘の下ばたばたと、この書の徳をあふがざらめや」と名調子で結ばれている。
・・・

 ちなみに、出版界では、ベストセラーが出れば、同工異曲、下世話に言えば「二匹目のドジョウ」がいることは通例だが、このときもドジョウはいた。
 天保七年(1826)に刊行されたのが、漬物問屋『小田原屋』の主人をフィーチャーした『四季漬物塩嘉言』である。現在でもお馴染みの沢庵漬けや糠味噌漬け、守口漬けなど六十四種類の漬け物の製法を記した漬け物の総合的な専門書である。梅干しに紫蘇を用いて赤くすることは、この本が刊行されて普及したという説があるほど、多くに人に親しまれる本になった。
・・・

(第4章 大江戸のレジャー産業 より)

 ◆一日千両のビッグビジネス

 「朝千両昼千両に夜千両」という川柳がある。
江戸では、朝昼晩に一〇〇〇両ずつが動くビジネスがあるという意味で、朝は魚河岸、夜は吉原、そして昼に一〇〇〇両動くのが芝居興行ということになる。
 江戸は急増の新興都市であり、家康の入部以来、急速な都市づくりが行われ、寛永年間(1624~44)には一定の都市構造を作り上げていた。しかし、明暦三年(1657)の「振袖火事」は、江戸の大半を焼き尽くし、江戸城の天守閣まで焼いてしまった。以後の江戸は、また新たな相貌をまとったことになる。

  大火以前の家光治世下の江戸の繁栄ぶりを伝える史料は数少ない。その一つが江戸名所図屏風(出光美術館蔵)であるが、すでにこの屏風に芝居小屋の風景が描かれている。
 しかもそこには、中央に人形浄瑠璃を演ずる小屋があり、その両隣には若衆歌舞伎の小屋があり、さらに軽業の小屋、湯女のいる風呂屋も繁盛している。いわば一代娯楽ゾーンが出現していることになる。
 これは、新興都市江戸が、同時に極端な男性社会であり、この種の娯楽の提供が不可欠だったことを示すものだろう。・・・

◆本当に「千両役者」はいたのか 

 江戸の人々に支持され続けた歌舞伎だが、見物するのは一日がかりの一大行事になる。なにせ開演は明六つ(午前六時)、舞台がはねるのは暮七ツ半。お天道様が上がる頃に始まり、沈む少し前まで芝居が続く。
したがって、見物客は食事を確保しなければならない。その面倒をみるのが芝居茶屋と呼ばれる商売で、そこから「幕の内弁当」が生まれてきた。

 さて、この観劇の値段だが、もちろん座席の条件によって違ってくる。天保四年(1833)刊の『三葉草』という本には、「桟敷」が三五匁、「高土間」が三〇匁、「平土間」が二五匁とある。「匁」は銀の単位で、六〇匁で一両だから、結構高いものだったことになる。
・・・

 今度は役者の報酬に目を移してみよう。
 現代はショービジネスの世界でも、人気の高いアーティストのコンサートであれば、入場者は多くなる。歌舞伎の世界でも、人気役者を確保することが座元の大事な仕事だった。その競争は激しいものであり、赤字を出して休業する小屋が何度も出たほどである。

 こうした背景をもとに、役者の給金は上昇する傾向にあった。安永七年(1778)に中村仲蔵が森田座で受け取った一年分の給金は、まさに一〇〇〇両だった。この給金は特殊な事例ではなかったと思われるが、一方で、役者は人気商売であり、「千両役者」という言葉に象徴されるように、自分の給金を過分に広め、その名を高めることがあったとする説もある。
 座頭や立女形が、一〇〇〇両の給金を得ると「千両振舞」という大がかりな振る舞いがあったことも知られている。 

 さすがに幕府も無関心では居られなかったと見えて、寛政の改革時には、尾上菊五郎の五〇〇両を上限に、役者の給金を抑制しようとしたが、プロ野球選手の年俸同様、彼らが高給を得ることは、むしろ庶民の夢であっただろう。
 その夢を助長したのが、役者の大首絵などの浮世絵であり、歌舞伎は常に風俗をリードするファッションのリーダでもあったのである。

<<<<<(「大江戸ビジネス社会」 解説 石川英輔 より)

歴史から学ばない

 最近の実状は知らないが、私の受けた歴史教育によると、江戸時代の日本は暗黒時代だった。士農工商の身分がある斬り捨て御免の封建時代。日本列島は災害続き飢饉続きで、重い年貢に苦しむ百姓は一揆、米価高に苦しむ都市住民は打ち壊しばかりやっていたといわんばかりの教え方だった。
 実際の江戸時代は、徳川幕府という中央政府が二六五年という長い期間にわたって日本を平和に統治し続けた歴史上珍しい時代なのである。普通の常識で考えれば、人口の八〇パーセントを占める百姓たちが搾取されっぱなしで一揆ばかり起こしている社会が二六五年間も平穏に続くはずはないのに、なぜこんな歴史教育がおこなわれたのか。

 歴史上のことを調べていてもっともわかりにくいのが「人口の大部分を占めるごく普通の庶民」の暮らしぶりだ。現代人が毎日繰り返している日常的なことをいちいち記録しないのと同様に、昔の人もごく普通のことを書き残さなかったからである。記録に残るのは特異な社会現象つまり普通でないことが主で、普通に人が普通にやっている普通の生活、つまり圧倒的多数の行動は後世に伝わりにくい、あるいはまったく伝わらないのだ。

 報道するのが目的のテレビニュースでは、この傾向がもっとはっきりしていて、取材するのは、事件、事故、災害などの日常的でないことが大部分だ。「日本中の新幹線は今日すべて正常に運行しました」などという当たり前のことは間違っても報道しないのはご存知じの通りだ。もし、現代のNHK「全国のニュース」を毎日録画して何年分かためておき、それを二百年後の歴史家に見せれば、何というだろうか。
 無差別殺人、大地震、台風、石油高騰、年金記録の消滅についての生々しい放送ばかり続くのを視聴すれば、二十一世紀初頭の日本を暗黒時代だと断定するに違いない。ところが、現代に住む日本人の大部分は、殺人事件、大地震、台風の被害者ではなく、こういうニュースを他人事として聞いているのである。

 江戸時代のこともこれと同じで、先祖がわざわざ記録に残したのは、特別な事件、災害、珍しい行事などが中心だ。飢饉、一揆、打ち毀しなどはめったにない大事件だったからこそ記録に残るので、大部分の人は現代に住む子孫同様に平穏な暮らしをしていたはずだ。だから、江戸時代は二六五年も延々と続いたと考えるのが妥当だと思う。

 ところが、歴史学者は古文書に書いてあることしか研究対象としない傾向が強いため、記録の多い飢饉や一揆などの異常事態には熱心でも、文献にない普通の生活は教えない。もちろん、江戸時代の驚異的な長所、たとえば、外国へ進出も侵略もせず、植民地も作らず、東アジア諸国間の友好を重んじ、食料自給率一〇〇パーセント以上を維持し、生態系を見事に保全し、資源を徹底的に循環利用し、エネルギー効率が信じがたいほど高かったということは無視する。こういう長所は昔の人にとって当たり前すぎて誰もわざわざ記録しなかったので、もっともらしい古文書が残っていないからだ。

 結果として学校の歴史教育は、ただの「暗記もの」になってしまった。
 だが、二六五年も続いた江戸時代には、特異現象だけをみていたのではけっして見えない合理的な構造があったはずと考えるのが大人の常識というものだろう。その合理性の大きな部分を占めるのが商工業運営の方法だった。

巨大都市江戸の誕生

 本書『大江戸ビジネス社会』は、江戸時代の日本の社会をビジネスという切り口で、時間的な変化を含めて様々な角度から解説した興味深い本だ。いわば、普通の生活の集大成といっていい珍しい本でもある。

 江戸は、かなり特殊な成り立ちの人工都市だった。
 徳川家康がはじめて江戸入りしたのは天正十八年(1590)8月朔(グレゴリオ暦8月30日)だった。その当時の江戸がどの程度の規模の町だったのかはっきりした記録はないが、都市といえるほど大きくなかったことはほぼ間違いないだろう。ところがそれから一三年後の慶長八年(1603)二月一一日(グレゴリオ暦3月13日)に、家康が征夷大将軍の宣下を受けて全国の武家を統率する地位に就くと、江戸は実質的な日本の首都になり、全大名の総力をあげての都市建設が始まった。

 これまで敵味方に分かれて領地を取り合い、殺し合っていた多くの大名が、戦争の無い世の中になって、そのエネルギーを新首都の建設に振り向けたのだから、江戸が建設ブームに沸いたのは当然だった。大名たちが江戸の建設に協力したのは幕府ににらまれないという面ばかり強調されるが、必ずしもそれだけではなかったはずだ。 
 大坂夏の陣までは、莫大な出費だけではなく、いつ殺されるかわからない戦闘という肉体労働を強いられていた大名や上級武士にとって、江戸の建設は日当だけ払って高見の見物や監督をしていれば済む安全な仕事でもあった。新都市の建設の方が経済的にも精神的にもはるかに楽だったからこそ、江戸の建設に本気で協力できたという面も強かったのではないかと思う。

 いすれにせよ、広大な武蔵野の野末に幕府と全大名の財力を集めた大都市がにわかに沸き出したのだ。著者の言葉を借りるなら「江戸はまさしく公共工事によって作り出された計画都市」だったが、江戸の建設は、何よりも武家政権の基盤を強固にするのが第一目的であり、幕府に「人民のため」などという意識がなかったことはいうまでもない。 

 だが、人民のためを表看板に掲げながら結局は人民の不満を買い、一世紀もたたないうちに人民によって倒された社会主義政権と違って、徳川封建政府による江戸建設は、結果として人民にとっても儲けのチャンスだった。このあたりの様子を著者は次のように書いている。

「江戸に行けば仕事にありつけると考えた農民たちも多数いたはずであり、江戸の人口増加は急速に進んだ。その人々に必要な物資、食料はもちろん、住居・衣料さらには娯楽まで、経済波及効果は計り知れない規模とスピードに及んだと考えられる」
 要するにやたらと景気が良くなったのである。それも、ただのバブルではない。「数々のビジネスが花開く江戸の舞台は、こうして造られていった」ばかりか、江戸は、人口、面積とも世界一の巨大都市に発展し、その発展は今も続いている。

 こうして賑やかな建設の槌音とともに始まった江戸は、徳川幕府という中央政府所属の武士だけでなく、全国から集まる武士が入れかわり立ちかわり住む都市になった。武士たちはほとんど生産能力のない消費者集団だから、その需要を満たすために、江戸が空前の大きなビジネス社会に成長したのは当然だった。

普通の暮らしが見える

 本書で扱うビジネスの範囲はかなり広い。

 幕府の公共事業に始まり、運輸、不動産、鉱山、商業、農業、サービス業、出版・広告、人材派遣、レジャー産業、教育、医療、金融、通信とほとんどの業種にわたっている、ビジネスの規模も、大店の商いから天秤棒の商品をつけて売り歩く「振り売り」という商いまで含んでいる。また、大家さんが手弁当で担当していた町の末端行政にもくわしく、身分、職種を超えてきわめて広範囲にわたっているのが大きな特徴だ。

 私の知る限りでは、江戸の商工業についてこれほど広い範囲にわたって立体的に解説した一冊はほかにない。再び著者自身の言葉を借りれば「ビジネスの諸相を出来るだけ具体的に描写しようとしたもので・・・そこに息づく人々の手触りを感じ取れるような表現を心がけたつもりだ」ということになるが、この試みは成功していて、読者は、人口の大部分を占めるごく普通の庶民の暮らしぶりをかなり具体的に感じ取れるはずであり、江戸時代が二六五年も続いた理由も納得されるのではなかろうか。     (いしかわ えいすけ/作家)

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記憶する皮膚 ー 真紀子展

2014-07-27 16:44:31 | 音楽・芸術・文学


八重洲南口、なぜか東京まで来て牛タンたべて、出るとモウ~、モワ~、モア~ 35度?すこしはこぎれいになったようだけど、コンクリートジャングル。
(来週、この辺で楡の会・東京でのクラス会やるはずだな、読売巨人軍社長になっちゃったのもいるぜ)
おやじもいけばいいのに
(こっちは、いなかで、その日は徹夜だよ・・・)
・・・・

急に土曜日がいいと言われた、
2014.7.26(土)東京の若手作家の個展に行ってきた。そうか日曜は休みなのだ。

  

京橋あたり、大通りから少し入ると画廊や美術商のお店があちこちにいっぱいあるんだ、はじめて気づいた。
新しいガラスジャングルのビルでは、ずいぶんと緑を植え込んだり見かけはいい。でも外の熱気には、とてもじゃないけどかなわないな・・・

 

 


佐竹真紀子展 「記憶する皮膚」 
SATAKE Makiko 
"Skin Remembering"
2014.7.21(月・祝)‐8.2(土) 日曜日休廊 10:30-19:00(最終日18:00)

この画廊の佃さんが発掘してくれたようだ。ギャルリー東京ユマニテでのすばらしい、あたたかいご紹介を、

>>>
「画廊からの発言 新世代への視点2014」は、銀座・京橋を中心とした12画廊の共同開催による展覧会で、各画廊が推薦する若手作家の個展を同時期に開催する企画です。ギャルリー東京ユマニテは佐竹真紀子(さたけ・まきこ)を紹介いたします。・・・・

佐竹の作品でまず目を引くのは、その鮮やかな色彩です。画面上の一本の線のなかに、実に多くの色がひしめいています。目を凝らすと、それは描かれた線ではなく、削り取られる事であらわになった色の積層の断面である事に気が付きます。支持体全体にアクリル絵具を一色ずつ層になるように塗り重ね、その色層を削りイメージを描き出すユニークな手法で制作されています。
時に色層は切り込みに沿ってめくれ、皮膚のように生々しく支持体から垂れ下がります。本来見る事のない絵具の裏側があらわになり、色層をまとっている隠された内面への興味をかきたてます。あるいは、今まとっている色を脱ぎ捨て、新しい何かへ変化しようとする姿かもしれません。
宮城県出身の佐竹は、東日本大震災を挟んで過去と現在を行き来するように、自身の記憶と体験をもとに制作しています。それは鮮やかな色彩で、悲しみを覆い隠しているだけなのかもしれません。しかし、目をそらさず向き合い続ける姿勢からは、前に進もうというという意思と、未来への希望が感じられるのです。・・・

<作家コメント>
皮膚は誰もが持ち合わせている境界線である。
本当のことが知りたくて手を伸ばしても、それが目に見えているのか、あるいは内包されているのか、所在はわからない。
ただ指先に残る記憶を頼りに探していく。

<<<<

ボクは目立たないように、( )の中にいることにしよう。

(う~ん、へやぜんたいで、なんか表現してるようだな・・・インスタレーションとかいう)
去年亡くなったおばあちゃんの、なんかかな、手触りというのか・・・あっ、触っちゃだめ・・・
 

マフラーもずいぶんあったでしょ・・・
(そうだ、般若もいいな、あったな・・・お棺の中には般若心経も彫ってある・・・
   

(洋服もなんと彫りもの、初めて見た、なんということだろう!割れたら一巻の終わりだ・・・)

ワンピースは一ヶ月ぐらいかかったかな・・・
(去年ロンドンにも行ってきたトルソー、これいいね、題は「彫りもの」。買い手つけばいいけど、なくなるのももったいないなあ・・・小品はそこそこ売れているみたいだ・・・)
  

 

                

 

ギャラリーの才媛佃さんに「オチャしてきます」とことわって、いったんそとにでた、うわ~、モワ~モワ~
そそくさと、上島珈琲カフェに飛び込んだ。若手作家は、コーヒーよりも、まだこれであった。


特待生受かったよ、ほらケータイへ通知、こんだけもらえる・・・
(えらい、オヤが甲斐性ないからなあ・・・)
兄貴、タスケは元気?
(水晶体入れ直すまで見えないようだけど、友達とどっかいったりしてるよ、ずっと病院よりはいいかもな・・・)
(タスケはたいしたもんだ、真紀子が3年生ぐらいまでもつかと思ってたんだけど・・・と、ネコパンチ画像をみせた、春樹さんに捧げたおまけ画像だ。)

かわいい、たすけちゃん・・・けど、春樹?ふるいわ、海辺のカフカ、スプートニクの恋人・・・あの人のは、さいご彼女みな消えちゃうのよね・・・
(あれれ、オレはいまごろよんでるんだけどな・・・(こいつ高校生で読んでたか・・・))

あの画廊は地下2階でガラケー電波こないの、ワイファイならいいけど・・・
(俺なにやってるかというとLTEだぜ、そうか中途半端か、画像ならもっと大きいのだしな・・)

赤べこ、うちにあったはずよ、さがしといて、秋に会津というか喜多方ですこしだけ展示するのよ。
今だと暑~い暑い、とウルサイからお母さんは、そんとき来ればあ、あなたがたどっちもちゃんとやること考えて来なさい、おつきあい疲れるわ・・・

ちょっと寄ってゆく画廊あるのよ・・・
(これはこれは、作家さんはムスメも初対面だがなんと宮城野高校の先輩であった。とっしょりはカバンもそのへんにおいて座ってたら、あとで、ムスメに叱られた。)
ああいうところは、真剣な場所なの、わかった?あたしのとこでも、ズボン下げて直したりして、ったく、もう!・・・

 

(ということで、あすやることも思いつかないし国分寺行くのも仙台帰るのも同じぐらいだろ、とんぼ返りにする。)
八重洲南の近くの福島県のアンテナショップ、彼女は「八重たん」とかなにかを買った。(作家は消費税の端数は払った)
(今晩は隅田川の花火らしい、もう人ごみはいい・・・築地がいいんけどな、駅のどっかで寿司でも食おうや・・・) 

 

ーーー夜中、帰り着いてからーーー
赤べこ、そんなもの、あったかしら・・・と若手作家の古手の母親。え?、こんど会津で?きいてないわ・・・コメオクレっていうから、野菜と一緒に送っといたけど・・・

(打ち出の小槌背負ったゴテゴテ赤べこしか見つからない・・・、まあ、塗られて彫られてしまうのだろうけど・・・)

 

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Re: カンガルー通信

2014-07-22 23:01:45 | 音楽・芸術・文学

やあ、あまり元気ではないですよ!

長距離走者のことをメモってからひと月、こちらは生産的なことやいろんな事態が良くなることはなにひとつなく・・・むろんやらねばならぬことも多々あり淡々とこなしはするのですが、やれやれ、これが口には出さない口癖になってしまいました。 

そんな梅雨空の日々のなか、おお、これは面白い小説と作家だと、いたく感じ入るところがあったので、村上春樹さんのツンドクの山を切り崩してました。この返信などはまさに雑文でしょうね。

さて、このあいだまでのツンドクの山は、あらかた崩したのに、べつな山ができてしまった。(どんどん増えて・・・あとは翻訳ものかなあ 2014.8.12追記)

1973年のピンボール(1980)
回転木馬のデッド・ヒート(1985)
ダンス・ダンス・ダンス(1988)
遠い太鼓(1990)
雨天炎天(1990)
国境の南、太陽の西(1992)
やがて哀しき外国語(1994)
夜のくもざる(1995)
素晴らしいアレキサンダーと、空飛び猫たち (村上訳)(1997)
アンダーグラウンド(1997)
辺境・近境 & 写真篇ー松村映三plus 春樹(1998)
象の消滅 短篇選集1980-1991」(2005)
意味がなければスイングはない(2005)
The Catcher in the Rye 村上春樹訳(2006)
ニューヨーク発 24の短編コレクション めくらやなぎと眠る女」(2009)
夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2009 (2010)
ねむり イラスト/カット・メンシック(2010)
おおきなかぶ、むずかしいアボガド 村上ラヂオ2(2011)
サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3(2012)
パン屋を襲う イラスト/カット・メンシック(2013)
恋しくて Ten Selected Love Stories 村上春樹編訳(2013)
女のいない男たち(2014) 

こうなると、アソビのない文庫本よりダンゼン単行本がいいね、でもこれじゃ地震来たらまたぐちゃぐちゃだ。短編集、新潮社の米国版逆輸入(?)のペーパーバックもどきの本の作りもいいなあ。それと、カット・メンシックさんのイラスト入りの本も素敵だ。 

短編では、Family affair、とか、A folklore for my generation なんかが印象に残りましたよ。なにかかにかは沈殿するのですが、直前健忘症というのか、あったはずの新鮮な感想はあらかた忘れてしまった、まああとでまた読めばいいや、完走を目指そう。「ノルウェイの森」を書いた頃の海外暮らしのこと、「遠い太鼓」も面白い、これはいまながめてるから書ける。春樹さんは、集中力と目的意識というのか、そうだよなあ、たいしたもんです、40歳を前にしてのあのへんがロングランでのスタートだったのかな・・・手書きで第二稿900枚書き直す、これは精神活動というよりすごい肉体労働だ!敬意を表して「ノルウェイの森」はそのうち単行本に切り替えるので、まあ乱文は許してね。

これは、うちのカンガルーッ子です・・・マタタビなめてソラを飛びます・・・

  

 

============

めくらやなぎと眠る女

クリエーター情報なし
新潮社

 

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991
クリエーター情報なし
新潮社

 

パン屋を襲う
クリエーター情報なし
新潮社
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長距離走者の村上春樹

2014-06-30 22:11:30 | 音楽・芸術・文学
1Q84 BOOK 1
クリエーター情報なし
新潮社

 「ノルウェイの森」から村上春樹さんを読み始めたのがひと月ほどまえのようだ。同年代、同時代のすばらしい書き手、いままで知らなかったのがなんとも不思議だな。で、この6月は、ずっと彼の作品をながめていたが、速読か読み飛ばしか、なにしろ春樹さんの文章は読みやすいので長かろうが短かろうがあっという間だ。でもさいごの50ページ残り厚さ3ミリまで結末がどうなるのか分からない、こんなところにも読者を引っ張る力が現れる。さて、少し長めの小説では、どれが印象に残って、良かったかとなると、

みな、それぞれに・・・、ああ、王族ではないんだからそんなに気をつかわずに言ってごらんなさい・・・やっぱり、わかんないなあ、春樹のワンダーランドというのは・・・年代ごとに深まりもでてくるようだ。双曲線のように複線の物語が交差するでもしないようでもあって、そしてぐるぐると渦巻き始め、スパイラル。いつも、文字の向こうには音楽の旋律とリズムが流れている。

手に取った順はいい加減、長編の作品を年代順にならべてみれば、
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)、これ、チトばかり薄暗いかなあ...
ノルウェイの森(1987)、短編「」が膨らんで・・・初めて読んだものだったから印象深いな、いいね!
ねじまき鳥クロニクル(1994−95)、救いがあったのか、なかったのか、はて・・・
海辺のカフカ(2002)、カフカ君、若くてたいへんだろうけど元気でな・・・
1Q84(2009-2010)、迷宮は抜け出さなくちゃ、ここで、終われよ青豆・・・

短かそうなところでも机の周りにうずたかく50センチ、崩れ落ちないようにしないと・・・
風の歌を聴け(1979)羊をめぐる冒険(1982)めくらやなぎと眠る女(1996)、スプートニクの恋人(1999)、神の子どもたちはみな踊る(2000)、アフターダーク(2004)、東京奇譚集(2007)村上春樹 雑文集(2011)、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(2013)これは「」つけないと句読点がどうにも・・・、NHKラジオでは英語で読む村上春樹(2014)というのもやっているが土日のお昼頃、こんな時間でだれが聴けるのかしら、NHKの集金人は今もいるのかいな?

摩訶不思議な世界を物語る作家の精神状態が6月の梅雨みたいなものかといえばさにあらず、全く正反対の早寝早起き、ボストンマラソンも数回完走というエネルギッシュな生活タイドの上にあるようだ。朝早くおきて真っ昼間に不思議なものがたりをネチネチ書いて午後から頭すっきりランニングに筋トレ、「雑文」を書き、料理を作るというような日々らしい、すばらしい、こうでなくちゃ!長距離走者の孤独も、解放感も共にあって・・・
創作や創造という行為の裏側には、とくにこの作家には、なんとも窺い知れぬものがひそんでいるようだ。長距離走の純文学と異なる側面(不純文学の短距離走!?)は、狐狸庵先生みたいに、村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた(1996)などで、ねこのようにねころんで、画像とともに楽しめる。

ワールドカップのニッポンはどうも世界一流どころとは迫力が違いすぎてヤワすぎた。ひまなので、ワールドワイドに春樹さん翻訳の「グレート・ギャツビー」も読んでしまった。春樹さん若き頃からのお気に入り、でもなんとも切ないお話だなあ。これは男子の物語。映画ではロバート・レッドフォード、最近はレオナルド・ディカプリオらしいが・・・ま、フィッツジェラルド短編集が日焼けして転がっているから、これを機になんとかかたづけないと・・・もうナイトか、春樹さんに、我が家のネコたすけちゃんから、「おやすみなさい」

 

(P.S. ころんころんしている、うずまき猫タスケちゃんに、村上春樹をどう思うと訊いたら、こんな答えが返ってきた。)
>>>

この世に生を受けた時から死すべき存在たる君たち人間、あたえられた短き一生の時間ではあるが、その存在での深層的な心理と行動のありようを、村上春樹は現代という時代の観察を背景に鋭い切り口でかつ持続的に描きつづけてきた。

かれの文学の主題は人間存在と精神活動の探求と洞察であろうが、ときに幽玄な世界へ読者を誘い、しばし困惑のなかに招き寄せ、あるいは読者にその解釈と解決をも問いかける。かくも複雑化し個別に多くの悩みを抱える現代人の孤独な心の奥底に肉薄し、魂の救済がいかにしてなしうるか否かを問いつめる。この作家が数十年の歳月を費やし、初期の作品からゆるぎなく求めつづけているもの、それは、ゆるぎない愛への憧憬と信頼、善へのあくなき希求であって、けっして諦観や絶望や曖昧模糊とした遊戯の世界ではない。ごく身近な人間や多くの人たちへの親密な愛情をもってする豊かな生の実現の期待なのだ。

彼の創出する物語では時間軸上で並列に現れる人物と出来事とを巧みに同期させる表現手法が特徴的である。それが長編の膨大な語数を前にする読者にとって重いテーマを咀嚼しつつも楽しんで一気に読み通す助けにもなる。創造のありようからみれば、旧世代の作家とはその知的好奇心の広がりや行動様式は大きく異なり、精神と時間の集中の必要と世界中をとびまわる生活の中で、長編のいくつかは日本国外の地で書かれてきた。言語プロセッサも活用する超現代的な作家だが、その言語は極東に孤立する日本語ではある。だがこの作家は洗練された隠喩の効果とさらにはシャープな文体によって欧米はじめ多くの言語にも移植しうる氾世界的な創造物にまで昇華させた。作品群はいまや実に数十ヵ国、数十の言語にておそらく数億人規模の読者と共感の獲得という結実をみた。

この作家はこの時代のジャズ、ロックなどポップな音楽やクラシックへの愛おしみを通して、活字を超えた芸術全般の表現と感受性とを文学の世界に陰に陽に埋め込むことにも成功した。読者は彼の文学の森を漂うなかで芳醇な音のながれる世界にも迷い込み、いっそうの余韻を味わうことになろう。

やれやれ! 人間であることもタイヘンそうだニャ~ <<<

 

 

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ノルウェイの森 ー 村上春樹 

2014-06-06 23:37:40 | 音楽・芸術・文学
ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

ワタナベ君への手紙

お手紙がマメだったワタナベ君には、メールもケータイもなかった昔をしのんでお手紙をかいてみたくなりました。面倒なら、読まずに食べてね。

きょう6月6日は、70年前にノルマンジー上陸作戦が行われた日だった、とタイクツテレビがいってました。J.D.サリンジャーは自分ことをほとんどバラさないひとでしたが、あのノルマンジー作戦にも参加していたのでしたね。「再見コンバット!」 
このあいだ、村上春樹さんの訳の「フラニーとズーイ」をよんで、なつかしくなったので、ついでに野崎孝さん訳の「ナインストーリーズ」や、「大工よ、屋根の梁を・・・」なんかを読み返しました。サリンジャーは、最初にシーモアお兄ちゃんの命を絶ってしまったため、遡って説明するのもたいへんみたい。作家というのもご苦労なことだ、しみじみおもうなあ。村上さん訳の「ライ麦・・・」は、あとのお楽しみとして、じつは春樹さんのなにも読んだことがなかったので、お約束のとおり(自分にしかしてないけど)、まずは「ノルウェイの森」にいってきました。いまは「ねじまき鳥」あたりを徘徊している、というか深いカラ井戸の底でじっとしているみたいです。

すこしだけ、ノルウェイの森の近くのお話させてくださいな。ワタナベ君もギッチリ詰まった青春だったのですね。1949年のお生まれとするならば、僕の一つ上です。だからほっとするなあ。後輩ならば、なにかこうライバル心というか、出来のいい人へのやっかみというか、どうにも素直になれないのですが、生まれが少しでも上だと甘えられる気がするんです。でもよく考えればほとんど同級生ですね。全くの同じあの時代と時間をすごした、同じ空気を吸ってそれぞれの風を受けてきたわけで・・・ぼくはいまや実にさびしいボッチのこのごろですが、いまごろになってなんともすばらしい恋物語をきかせていただいて・・・もっとも30年近く前に書いて戴いたんだから、37歳のワタナベ君に向かってこのお手紙(Re:)書いてるのかなあ?・・・

むろん、あれは小説ですからワタナベ君の個人的な体験とは思いません。でも生々しさも感じてつい、ああ彼女は津田塾だななどと要らぬ想像をしてしまうのです。それにすこし濃密すぎて・・・。話飛べば、まったくの無縁な世界のように安田講堂攻防戦をボーっとテレビで観てたとき現れたのが髪の長い少女でした・・・七つの水仙、レモンツリー、パフ、500マイル、花はどこへ行ったの、こげよマイケル、全部おしえてもらった ...八月の光 もずっと借りてたな・・・一浪した同級生はこの年東大は受けられず一橋と東工大はすごい難関だったと聞きました。翌年ボクは東京郊外の学生寮に入ることができ、綿パンにスニーカーにカーディガンが大好きになった、十代の重苦しさは脱ぎ捨てたかったのかもしれません。新宿、紀伊国屋の裏手ですか・・・ジャズ喫茶、パドパウエル、ビルエバンス、マルウォルドロン、ダラーブランド・・・ミニスカートの時代、すらりとした若い足・・・ねえ、この子と?・・・だけど全くのウブで、途切れもなくなったのは、もすこしあとでしょう・・・差し支えがありすぎて・・・みんな、お手紙は焼き捨ててくれましたか?

ボクたちはビートルズ世代、もっともあの春樹さんはビートルズよりジャズのほうのようだけど。ま、ともかく数年前にはテレビを観て記録しましたよ。四人はアイドル? サイドマン - ビートルズに愛された男 あらためて「リボルバー」を思い出しました。ビートルズではなにがいちばん? ヒア・カムズ・ザ・サン、るるるる、と言ったのは、ずっとあとでTちゃん、・・・どうしてることか・・・

ワタナベ君のお話、ノルウェイの森の記憶がなんとも切ないですよね。なにか言ってあげたいけど、どうしようもないよね、ぼっちだもんね、誰でも、Nowhere Man。ラバーソウルのメロディアスなほうがリボルバーより好きだな。ミッシェル、ノーホエアマン、ジュリア、ノルウェイの森、・・そうそう、映画のこともでてくるよね、武蔵野館はどうなったやら・・・卒業、カサブランカ。サウンドオブミュージック・・・手を握っただけでドキドキが伝わってきたMちゃん・・・それにしても「I wonna hold your hand」が日本ではなんで「抱きしめたい」になるんでしょうか?

その少し前18.9歳のめまぐるしい、毎月と季節が今も鮮明にたどれるあの頃、まわりではいろんなひとが命をおとしました。2ヶ月一緒の部屋にいたD君も一年後屋上から飛び降りた、いつまでも19だ。海でおぼれたひとも感電事故でなくなったひともいた・・・そのあと20で東京にやっと出られて、それからもう40年以上もたったんですね、生きてれば、ボクみたいに、その後の面白くもあり、たいして記憶にも残らない、ながいながーい時間を持てたのでしょうに。そして、そのときどき好きだった人とも別れてゆくのでしょうか・・・いつまでたってもわかりません、だれもおしえてくれません。今夜も猫ちゃんのほっぺをなでながら、一緒に寝るのでしょうか。

ワタナベ君の読んでた本はなんだったけ。えーと、フィツジェラルドのグレイトギャツビイ、トルーマン・カポーティ、トーマスマン・・・なんてかいてありますね。「ライ麦」も出てきましたね。ずーっと一生すきなことがあるのはいいんじゃないかなあ・・・素敵だなあ、ボッチだったワタナベ君、今、どうしてますか?ボクは、ヘイジュードなどやりかけましたが、もう3ヶ月もサボって、なんでもやるけどすぐアキル、こりないのですね・・・リブート/再開処理/ねじ巻き が必要かなあ・・・

                      2014・6.6 のり坊

ワタナベ トオル君   机下

  

 

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スズメのパン屋さん

2014-06-01 23:22:10 | ローカルな話題

 

今度のはメロンパンだぜ、最初から出せよな~ チィチィチィ
だよね、さっきのは、食パンの耳だったわね
はさみで切ったみたい、食べにくいよ、ここの奥様のやりかただよ
でもね、イギリス食パンとかいう、ちっとおいしいやつだったわ
「石窯パン工房パンセ」のかな?サービスのコーヒー飲むため、要らぬパン買ってるようだぜ
ま、いいじゃない、それで、お下がりくるんだから 生協のとこの30分フィットネスに通ってるようね
そ、そ、でも隣がパンセなんで、せっかく消費したカロリー以上のパンで、モトのモクアミね、
ま、あのひと、思い込みハゲシイからな・・・ピュアピュアピュア(笑)
自家製カレーの牛肉ゴロゴロカレーパン、あんなの来たらドーする、レーゾーコに余ってるみたい・・フルーツサンドの耳もよ・・・

ねえキミ、ごはんとパンとどっちが好き?
ぼくは、「ばーすでい」のクロワッサンだけど、きみは和食派のようだね
そうね、やっぱ五穀米かな、色がすこし赤っぽいのがいいわ・・・ごはんつぶでも和食の世界遺産なの? 
あれにラジウム卵かけて食ベてたわ、この家、わかんない人たちね・・・
どっちにしろ、残り物には福が!僕らには。ま、いいか、チュンチュン

お~い、今度はイチジクとクルミのパイをもみほぐしたやつだぜ、チィチィチィ
イチジクのとこネチャネチャ食べづらいけど、これって、なかなかイケルわ・・・
僕はいいや、じゃ、イチジクの木から見てるよ
おっと、カメラ撮ってるぜ、みんな近づかないで・・・

へたなカメラマンいなくなったようだな、どれ、ゆっくり食べようか、チィチィチィ
あなたたちは、地面におりちゃだめ、ラティスの上にいなさい
アイ、ママ、チィチィ、ピーチク、パーチク
アーンは? はいッ

犬はあぶなくないの?
あたしたちには興味ないみたい、ドッグフードチョロマカしても彼なんにも云わないのよ、紐もここまで届かないし・・・
あたしは冬の抜け毛ひろって、あかちゃんのふかふかベッドつくったわ・・・
それはよかったね、柴いぬのくせに芝をあらすので、人工芝にされちゃったようだなあ

さあ、顔ぐらいのでかいパン、テイクアウト、お持ち帰りね・・・パタパタパタ、フルパワーだ、それッ
ん? マヨネーズつきのこれ、モスの照り焼きチキンバーガーの残り?、 じゃフライ・スルー、タッチ&ゴー
(んなことあるわけないじゃない・・・、ヒマ人ウォッチャーめ、こっちはイッショケンメイなのよ・・・)

   

 

(ここのジジイ、きまぐれだけど、さいきんは毎朝パンとか、あまったもの小さくちぎっていっぱい撒いてくれるよ、3年経ってジジイもゲンちゃんも、ちょっとフケたわね。。。ブログの写真もすこし大きくなったみたいよ。。。

時々は、チャーハンの残りとか、おとといなんかヒジキ入ったお稲荷さん。それと、ごごみ、しどけ、コシアブラの天ぷらじゃない、やっぱ、春は山菜がいいよね、こっちは天かすみたいだけどね。でも、いつもパンばかりよりいいわ。ピッツア・マリゲリータやグラタン、スクランブルエッグなんかもいいわね、おやつにはバームクーヘンとか、ジジイ覚えといてね。なあに?きょうのこれって柏餅じゃない。それに秋保の「サイチ」のおはぎだわ、ネチネチでも食感がよろしゅうございますわね。ショーミ・キゲン大丈夫かしら?まあ、若い子は気にしすぎよ、何千年と、あたしたち、だいじょーぶだったんだから。ここのおにいちゃん、ジジイが南米チリだったかの何万年前の岩塩を自慢してたら「賞味期限切れじゃん」などと、言い放ったらしいわ。和食(?)系は、口元っていうかクチバシべとべとになっちゃうけど。そうそう、わかい子は店内っていうかお庭でお召しあがりみたいけど、顔ぐらいの大きなパンお持ち帰りのかたもいるわね。きっと、扶養家族が多いんだわさ、タイヘンね。せっかくのお持ち帰り、となりのサッカー場あたりで落としちゃったりしないでね。それより3年も経つと、あたしたち、孫の代に替っちゃったかしら??ヒヨドリさんやセキレイくんは許せるけど、超デカのカラスのやつ、あっちの屋根の上でねらてるの、こわいわ。ジジイ、追っ払ってよね。でも、ジジイ、ゲンちゃん、どっちもあてになんないなあ、ったく、もう。青葉まつりのすずめ踊り見に行くなら、こっちはほんまもん、ピョンピョンならいくらでも見せたげるわよ。 2017.5.19〜26 追記)

  

 

 

 

 

 

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八洲男さんからの手紙

2014-05-30 23:24:25 | なんでもあり・ファミリー

 

今日は母の四十九日のあたり日だが、夭折した父の誕生日なのだ。不思議にもドンピシャとなったわけで、母も彼岸にお着きのころだろうし91歳の誕生日祝いをしてくださいな。母の遺品の「八洲男さんからの手紙」という古ぼけた封筒に数通の手紙やはがきがあった。半世紀まえに書かれたものだから僕が小学生の頃のものだ。こんなことを記録していると、またムスメから叱られそうだが、ICLOUDにこっそり置くよりも供養になるだろう・・・昨日は徹夜で帰ってからちょっと寝たけど、時差ボケ・・・

そのひとつ昭和36年1月31日付の父から母への手紙。37歳だった父は仙台への転勤で前日に着任。妻を亡くし再婚などで異動がままならず現場の課長を5年もやっていたから管理機関の経験をということらしかった。交換網設備の建設の中枢の部署への辞令、東日本縦貫同軸やマイクロウェーブルートの背骨の形成と電話網の自動即時化工事がまさに始まろうとしていた。

引越しは子供の学校の修了を待って3月下旬、1ヶ月半ばかりは大崎八幡神社の近くの笹森にあった単身赴任寮にいた。寮を引払うとき、春休み僕は父に連れられてこの寮に行った。坂道を登ったのがついこの間のような気がする。

父や叔父たちは教育者の父親から徹底的に仕込まれ、みな字が上手だった。走り書きのこの手紙も達筆すぎて読めない(XX)部分があるが、中身は実によくわかる。父の四十九日に入社した僕も在職年数だけは超えたが、とても足元にも及ばぬ人格とキャリアの大先輩だった。健康ありせば、相当に伸びた人だったろう。 腕時計は母からのプレゼントなのか、喜んでるな・・・東北管内や大阪までも出先からはマメに手紙を書いていたようだ。多忙とそれまでの無理もたたったのかこのあと1、2年で体を壊した・・・

読めない字句は、法名録で正徳2年(1712年)没のご先祖まで遡れる父の生家で一緒に育った新田の英子叔母に聞いてみよう。学友が書かれた祖父伉治の碑には、「・・・令息八洲男余ニ文ヲ嘱ス・・・」とある。末っ子だった「やっこちゃん」はかわいがられて親孝行だったようだな。この手紙のときの親父と同じ歳で僕も、父のいた建設、施設の本流の隣でソフトをやって東京へ2度目の転勤、ひと月半でどういうわけか引越し代まで使い果してしまった・・・父上許したまいてよ我は不肖の子なりき・・・

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慌しくご苦労をかけましたが昨三十日予定どおり安着しました 福島駅ではぢいちゃんから聞かれたと思うが非常に沢山の人々の見送りをうけ期せず万歳の声もおこり汽笛がなって動き出すと 名前を呼んでくれるもの ホームの終わりごろまで来てくれるもの やっぱり感激にひたりました

瀬上通過の頃から車内の転勤者同志の挨拶が始まり色々と やはり福島の思い出話に花が咲きアットいう間に仙台着
松井氏始め多数の出迎えをうけ通信局に第一歩

早速通信局長以下関係部挨拶まわり どこもかしこも関わっている人が多いので中々思うように捗らず一たん中止 午後二時食事(天ぷらそば 二五円)直ちに事務引継で五時 新任課長が宿がないので近くの旅館に同宿して暫し今後の方針について打ち合わせ(市内 寮満員、一般旅館七百円)二人でミカン 一〇〇円食う(ウラヤマシイ)(XXに)就寝九時半でした

今朝七時四十五分(セイコーロードマーベル)起床 例のとおり(かみそりきれないのでイタイ)朝食をカッ込んで通信局にかけ込む 時に八時四十分 殆どみんな出勤していた

飛内課長は引越しで今日昨日休暇 安倍君を(XX)して全員出張 課長代理で初めての書類ばかり 四苦八苦(一応マジメに書くとコウダが実はウマクゴマカシテ代理印を捺す いくら逆立ちしたって昨日来たばかりでわかる筈がありませんね)しているうちに晝一、 駅之(XX)送り 帰局食事 ゴ一・三〇(セイコーロードマーベル) 直ちに二月分時間外労働予定全員取りまとめ組合え提出の資料づくり(東北管内出張先の監督え電話してとりまとめ)時にゴ三・〇〇 今日は早いうちにネグラ之落ち着こうと ゴ三・二〇頃(XX)をチョロマカシテドロン

電車で北仙台之、 仙台駅前で市電乗換中に 四郎兄に偶然会う、びっくりした、まだ知らせてないのに。(校長試験に来たとか) 停留所で立話し五分で別れる 仙台も狭いものだネと不思議に思った

北仙台で無事荷物を受取りハイヤー(三五〇円)で寮之、一寸と山沿いに登るところだがもう雪が多く三寸位はあるだらう 宿舎の軒には氷柱が垂れ下って雪国之来たような感じをうけました ト云っても心配ご無用、乗物之の距離は電車もバスも近いところです 早速荷物を開梱、全部無事でした、 寮母に挨拶(砂糖五百匁)寮長に挨拶(菓子折り三百円)、同室者は外泊のようで今晩は独り 寝言もいうんではないかと思いますが一人ですので今晩は気楽ですのでこんな長い手紙を書いて了った

十時半ですので寝みます 疲れないよう気をつけますから何も心配要りません
みんな之 暫く留守を頼みます 取敢ず報告まで

 三十一日 (XX) みんなによろしく

よしこ どの

急いだので乱筆 ご判読願います

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