Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

仙台七夕の青空

2006-08-05 12:32:24 | なんでもあり・ファミリー

福島にいたころ幼稚園夏休み。8月の暑い日の午後、仙台のばあちゃんからハガキがきた。
「あしたから仙台七夕・遊びにおいで...」と読んでくれたのが、母の間違いだった。直ぐ行きたいと母の膝の上で僕は大泣きを続け近所の人たちが何事かと縁側の向こうにぞろぞろと集まってきた。

弟が3才、一番下は6ヶ月の乳飲み子、クルマなんかない時代だったから身軽に動けるわけもなく、母は困り果てたのだろう、開け放した縁側からしばらく見物されるままにしていた。

しかし、母は、二人の手を引き赤んぼうを背負い、仕事場の父に連絡でもとり慌ただしく汽車に乗ったのだろう。急行でも1時間以上の時代だった。仙台に近づくころは夕闇もせまり、すれ違う展望車の赤いテールランプが遠ざかっていく。
仙台市電も降り宮城野原・気象台の坂と踏切を越えて、テニスコート向いのばあちゃんの明りがついている玄関を叩いたころは、もう外は真っ暗だった。引き戸を開けたばあちゃんのびっくりした顔。
そのあとの記憶はない。疲れてすぐ寝てしまったのだろう。

翌日、一番町藤崎のあたりでアイスクリームを食べた。あのころの七夕は飾りもまばら、アーケードの屋根などなかったから、見上げた空が真っ青で大きかった。あの日は快晴だった。

母はこのあと二度と七夕を見ることはなく、これが実家への最後の里帰りとなった。秋はボクの受験勉強補講?で幼稚園付き添いの記憶あるが、その後寝たり起きたり翌年5月のはじめ卒園式にも小学校入学式にも出られず、癌で31才の短い人生を終えた。
きょうがあの日から51年、若き母もたいへんだったろうけど、あれでよかったじゃないかと思った。
...こんなことばっか、あたまに浮かぶとよくない。封印してしまおう。

鳴海屋紙店のサイトで、七夕の由来や、和紙の飾りのつくりかたでも見たほうがいいね。ヤっヤっ、今は、インターネットでの竹飾り特注フォームまであるんだ!
鳴海屋さんでの七夕飾りつくりは仙台の女子大生のアルバイトだったよ。わが愛妻も、その昔やっていたっけ、...粘土教室のお弟子さんたちが書いた短冊が黒竹に...
どれどれ、なに書いてあるか...[XXちゃんと□□になれますように xx マル秘]だって、はぁ~~小学生。

伊達政宗の歌、元和4年(1618)。この頃から、七夕やっていたのか。
「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」
「七夕は としに一たひあふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」

   

 (街中の第一幼稚園には福島交通のバスで越境通園。入園最初の日には、斜め向かいにあった父の電話局の前で乗せてくれる手はずが内気のため寄らず、とぼとぼ歩いて帰った。大きな犬が道をふさいでいて、こわごわよけ、途中で出あった第六幼稚園の近所の悪たれにお前はどこに通ってると脅され、やっとたどり着けば、このときも家の前は仙台のばあちゃんも含め人だかりであった。おお、えらいねとほめられるのかと思ったら、「ばかな子ねえ・・・」と小さく母の声がした。秋ごろまでは、ピンピンしてたと思うのだがなあ...バス停の前の店でアイスもお菓子もいつでももらって来ていいよと言われていたが、これも内気ゆえ母の配慮に応えず...可愛げのない子だ。みな普段着の集合写真にボクはきりっとした半ズボンのスーツに革靴を履いている...母が作った真新しい長ズボンをはいた日はウンチを漏らして帰ったのであった...付属小も落ちるし、期待に添えないことばっかで、ごめんね、今日は盆の入り。— 2010.8 追記/思い出した)



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仙台市観光情報
フォトギャラリー「仙台日和」

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コメント (6)
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