Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

ラデツキー行進曲

2008-01-01 23:48:50 | 音楽・芸術・文学

新年おめでとうございます。

ウィーン Wienからはじめますか、ウィーン・フィル Wiener Philharmoniker のニューイヤーコンサート Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmoniker 
今年は、ジョルジョ・プレートル Georges Prêtre 指揮、ウィーンでサッカーのFIFAヨーロッパ選手権もあるとかで、ボールやらイエロー・レッドカードまで飛び出して面白い遊びごころ。オーストリアは、サッカーもはてな?むかしも軍隊のカッコは勇ましそうだったが、実戦となるとそんなに...行進曲だけはいかにも軽快。

ダタダン・ダタダン・ダタダンダンダン...ラデツキー行進曲 Radetzkymarchは、親父の方・ヨハン・シュトラウス1世 Johann Baptist Strauss の作曲した行進曲。これやらない年あったがどうも最後盛りあがんない。

「青き美しきドナウ」の息子ヨハン・シュトラウス2世、彼からなら曾祖父ミヒャエルはハンガリー出身のユダヤ人でキリスト教に改宗し、ドイツ名のシュトラウスを名乗った。この曾祖父はユダヤ人出自を隠し、祖父はせっかく始めた居酒屋が倒産、ドナウ川に身を投げた。

十九世紀初頭、酒場や料理店で演奏する無数の楽士がいた。リンツ Linzの楽士たちは三拍子の曲、田舎風の素朴なワルツを弾いていた。ヨハンは奉公先の製本屋を飛び出して、流しの楽士をするかたわらワルツの作曲も始め自分の楽団を作って独立、宮廷舞踏会の音楽監督までになった。息子が音楽家になるのはヨハンは反対で無理やり工科学校に入れる。それでも息子は密かに音楽を志し、そんな息子を母が援護した。ヨハンは父と同様自らの楽団を作ってデヴュー、ヴァイオリン片手に指揮を取る新しいスタイルで大成功、次々と新作のワルツを繰り出し、父のライバルになり、最後には父を超えた。

さて、父シュトラウスのほう1846年宮廷舞踏会指揮者になった。シュトラウス親子はそれぞれ市民連隊の軍楽隊長として行進曲を指揮、そこに三月革命勃発、新たに結成された国民軍で父は革命に協力、あとで息子も政治的計算をしながら加わる。しかし父が革命から離れていく、彼は、市民・ブルジョア側だったのだ。


ワルツ一家にすまぬがラデツキー行進曲にもどれば、これは1848年の作。この年5月にラデツキー Joseph Radetzky von Radetz将軍がサルディニア軍のイタリア戦に勝利している。しかし父ヨハンがこの行進曲で讃えたのはこの年の活躍ではなく、1813年にナポレオンを破ったライプチッヒ会戦 Battle of Leipzigでのラデツキーである。8月に初演したが、革命派からは裏切り者呼ばわりをされた。....父ヨハン、翌年1849年、愛人宅で亡くなった。




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画像; Wikipedia Johann Strauss (padre)
本文の内容は以下を参照、一部引用によります。 
「ハプスブルク文化紀行 倉田稔 NHKブックス ISBN4-14-091058-5」
ハプスブルク文化紀行 (NHKブックス)クリエーター情報なし日本放送出版協会

コメント (2)
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