Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

クルちゃん ー 百鬼園先生

2012-03-04 21:28:10 | ねこちゃん
ノラや (中公文庫)
内田百﨤
中央公論新社

 ノラちゃんは帰って来ない、どこでどうしてるものやら、百鬼園先生は彼を思うたび泣いてばかりいる。「ノラや」の後半はそれがえんえんとつづく。いなくなったのが麹町だから半蔵門から皇居に入り込み正五位を与えられ女官たちに可愛がられた、という可能性もなくはない!?

ノラちゃん失踪の数ヶ月後、子猫が迷い込む。これがクルちゃん。尻尾があれだからジャパニーズ・ボブテイルか。布団にまで潜り込むこの猫も短い一生だがほんとうに可愛がられた。剛胆なようで実に繊細な百鬼園先生、毎晩猫を相手に晩酌しては、なにやらお話しをしているようだ。・・・

うちのたすけは、またガンの手術が要る様だなあ、人でいえばアラカンぐらいの歳。たすけ大丈夫だ。人の話を聞いてぜーんぶわかっているのだ、また病院かあと言ったら、水色のキャリーケージに鼻をつけて、そのあとぷいっと横を向いた・・・(もう切れず、とか・・・あと3ヶ月・・・あら、またきたの。ずっとひざの上にいなさい。2012.3.17)
   

>>>>>>> 以下、「ノラや 内田百﨤 中公文庫 昭和57年3月 1195-690179-4622」収録の『猫の耳の秋風』より、引用 

「クルや。クルや。猫や。お前か。猫か。猫だね。猫だらう。間違ひないね。猫ではないか。違ふか。狸か。むじなか。まみか。あなぐまか。そんな顔して、何を考へてる。これこれ、お膳の上を見るんぢやないよ。見たつてそれはジュンサイだ。酢がかかつてゐるよ。こつちは七味とんがらし。猫の食べる物ではない。猫には向かない。向いたつてここではやらないからおんなしだが、そもそもお前はたしなみが足りない様だ。その低い貧弱な鼻を動かして、そら、鼻が少しづつ動いてゐるぢやないか。よくそんなぺちやんこな鼻が動かせるものだね。小さな穴を片方づつ、ひろげたりつぼめたりするのか。成る程さうすれば穴のまはりが伸縮して、鼻が動いてゐる様な効果を現はす。それによつてお前はお膳の上の物に興味があると云ふ事を示す。それがいかんのだ。お前はお行儀が悪い。ノラはそんな事をしなかつた。第一、お膳のそばへは来なかつた。お前はノラが帰つて来なくなつてから、うちの中へ上がり込んで、お前の思つた通り勝手に振る舞つてゐる。お前はお前でそれは構はないけれど、ノラが今に帰つて来たら、仲よくするんだよ。喧嘩なぞしたら承知しないから。それまではさうやつて威張つてゐなさい。しかしそんなところでお膳の端からいつ迄もジュンサイのお皿を眺めてゐないで、お銚子のお代わりぐらゐには起つたらどうだ。もうこつちは空いてゐるんだ。猫の手も借りたいと云ふのは今だぜ。クルや」
ニヤア
「猫の様な声をするな」
ニヤア
「さては矢つ張り猫だな」
ニヤア
「猫にしても男のくせにニヤアスウ云ふのではない」
ニヤア

「何だ。何を云つてゐるのだ。お前の云ふ事は言語不明晰でよく解らん」
秋になつてから、家内が病気して入院した。後に残りし猫と私は、よそのをばさんや奥さんやお母ちやんが入り代りやつて来て家の事をしてくれるお陰で日日の明け暮れを過ごしてゐるが、病院の事は心配だし、身辺は淋しい。入院当日の夜は猫が私の寝床に這入つて来て、一晩ぢゆうかじりついて離れなかつた。幸ひに経過が良く、退院の日を待つばかりになつてからは、猫を相手に一盞を傾けるお酒の味もよくなつた。


「こらクルツ、お前は夕方もつと早く帰つて来なければいかん。心配するぢやないか。高歩きをしてゐる内に雨が降り出して道がわからなくなり、ノラの様に家へ戻れなくなつたらどうするのだ。一体お前は毎日出歩いてどこをほつついてゐるのだ。身体に虱菜の実を食つつけて来るところを見ると、番町学校の前の空き地の草原を馳け廻ついてゐるのか、あすこにはよく死んだ猫が捨ててあるから、あんな所をうろつくのはよしなさい。こつちの禁客寺のお庭の方から屏の下をくぐつて向うへ行くと、靴屋には権兵衛猫がゐるよ。権兵衛はノラとは大の仲好しだつたが、お前とは仲が悪い様だね。顔を合はせたらその儘には済まされない喧嘩相手なのだらう。お前がひどい怪我をして帰つて来る時はいつも権兵衛と取つ組み合つて、ふんづもぐれつやつて来るのだらう。いつぞやお前の口のまはりに何だか黒い物がついてゐると思つたら猫の毛のかたまりだつた。権兵衛は藤猫だから、その毛を食い千切つて、むしり取つてきたのだ。どつちが強いのか知らないが、喧嘩をするなら負けるな。しかし喧嘩には勝つてもお前が怪我をして帰るのは困る。成る可くそつちの方へ行かない方がいいよ。わかつたかい。わからないのか。わかつたのでも、わからないのでもないか。そんな所らしいな。仕様がないな。こん畜生」

入院中の手伝ひに来てくれるをばさんの家にも猫がゐるさうで、その話しに、猫に畜生と云ふと、何とも云へないいやな顔をしますよと云つた。クルツがいやな顔をした様ではないが、こつちの話しは聞いてゐるらしい。片方の耳の喇叭を少しづつ働かして、人の顔を見てゐる。内側に毛の生えた喇叭の耳は、今では一匹前に大きくなつて、ぴんと撥ねてゐるが、ノラが出て行つた後へ間もなく這入り込んで来た当初のクルツの耳は、小さくて貧弱で、親指の一節ぐらゐしかなかつた。篦で額の上を二タ所ぴつぴつと撥ねた跡が耳になつてゐると云ふ感じであつた。つまり彼はまだ一匹前に育つてゐなかつたので、大体ノラよりは七八ヶ月後から生まれたのだらうと思はれる。

ノラは隣家の縁の下で生まれたのだらう。少し大きくなつてから、隣との境の屏の上で親猫と日向ぼつこをしたり、じやれついたりしてゐるのをよく見掛けたが、その内に私の家で可愛がり出したのを見届けて、親猫はそれではこの子の事はよろしくお願ひ申しますと挨拶した様に私共に思はせて、どこかへ行つてしまつた。そのノラが去年の3月27日に出て行つたきり、こんなに長く帰つて来なければ、挨拶を受けた親猫にも申し訳がない様な気がする。
クルツは、クルツと云ふ名は、ノラの尻尾は封筒ぐらゐの長さがあつたのだが、クルツのは、短かく、おまけに小さなお椀の蓋の様に円くて平つたい。短かいから独逸語でクルツと名づけた。呼びいい様にクルとも云ふ。尻尾は長短著しく違ふけれど、前から見た毛並みや顔の感じはノラそつくりである。ノラの事を気に掛けてくれてゐるよその人は、クルツがゐるのを見て、おやノラちやんが帰りましたかと云ふ。私自身がノラの失踪の当初、屏を伝つてこつちへ来るクルツを見て、何度ノラが帰つて来たと思つたかわからない。




ノラの素性は大体わかつてゐるが、その後へ這入つて来たクルツは丸でわからない。私の家にかうして落ちつく迄、どこで育つたのか、どう云ふ家の飼ひ猫だつたのか、見当もつかない。野良猫で育つたのではない事は手許に飼つて見てすぐわかる。どこかの飼ひ猫が何かのはずみで自分の家に帰る道を失ひ、私の所に落ちついてしまつたのだらう。さうするとノラもどこかで同じ様な境遇になつてゐるに違ひないと、つい又そつちの方を思ひ出す。

クルツはくたびれたと見えて、お膳のわきで大変大袈裟な伸びをした。それから欠伸をした。
「これこれ、クルや。お前、それは即ち失礼と云ふものだぜ。こちらはまだお膳の上が峠を越さないのだ。そら、木戸の音がした。そうら、そら、お待ち遠様と云つた。全くお待ち遠様で、大概四五十分、どうかすれば一時間待たされる。お前なぞ待つてゐられるかい。をばさんがここへ運んで来るのを、お前も行つて手伝ひなさい。泰然として動こうとしないね。その癖、鼻をひくひくさせ出したぢやないか。いいにほひがするかい。蒲焼だよ、鰻だよ。うまいんだぜ。後で、あつちで、お前の皿で少し戴くか。お行儀をよくすればやつてもいいが、猫に蒲焼と云ふ語呂はあまり聞き慣れない様だな。クルや、蒲焼は高いのだよ。高いからうまいのだ。おさつやいわしも高ければもつとうまいだらう。安いからおろそかにされるのだ。もつと高くなつて、高くて食べられない程高くなれば、食べたらきつとうまいだらうと想像する事が出来る。わかつたかい。わからないかい。どつちにしてもおんなじ事だね。一体お前はさうやつて、伸びをした後もまたぢつと座つてゐて、矢つ張りお膳のおつき合ひをしてゐるのか。ここを離れるのが淋しいのか」


手を出して撫でてやらうとすると、頭を少し下げてその手に擦りつける様にする。手の平に当たつた片方の耳の端が割れてゐて、割れた儘になほつて毛が生えてゐる。いつぞやの藤猫権兵衛との出会ひの時、権兵衛に裂かれた疵痕である。その時の喧嘩ではクルツの方が分がよかつた様で、戦場がうちの庭だつた所為もあつたのだらう、門の内側のあたりで大変な声がしてゐると思つたら、お勝手口の前を権兵衛が矢の様に走り抜けた。すぐその後からクルツが追つ掛け、追ひついて石炭箱の上で又取つ組み合ひを始めたらしい。その声と物音でいつもの通り家内がお勝手から馳け降り、物干の三叉の棒でクルツの味方をした。
背中のあたりを叩かれた権兵衛が逃げて行つた後、クルツは家内に抱かれて、ふうふう云ひながら廊下の自分の座布団の上に帰つて来た。全身方方に傷をして血だらけである。家内がリヴノール液で疵口を洗つて消毒し、その後へクロロマイセチン軟膏を塗つた。クルツはおとなしく手当を受けて、済んだらそこへ寝たが、今迄にも怪我をして帰つた事は何度もあるけれど、今日はその程度が大分ひどいらしく、見てゐてもこちらが息苦しくなる程猫の呼吸が早い。ほつておいていいか知らと心配になつて来た。特に額の真向の骨に達する傷が気に掛かる。

初夏の夕方の暗くなりかけた時間であつたが、獣医に診て貰ふ必要があると判断した。心当たりを問ひ合わせ、さう遠くない所にある犬猫診療所へ電話をかけて往診を頼んだ。処置を受ける都合からも、費用の点からも連れて行つた方がいいにきまつてゐるが、全身傷だらけの猫を家の外に連れ出すのは、そんな事に馴れないから今の場合どうしたらいいかわからない。

ところが、ふだん猫のお医者を煩はすなどと云ふ事は考へた事もないので、丸で事情がわからなかつたが、矢つ張り忙しい時は忙しいらしく、当のお医者さんはこれからすぐに出掛けて三鷹へ往診し、そこから鎌倉へ廻らなければならない。お宅へ伺ふのは早くて11時、もつと遅くなるかも知れないと云ふことであつた。夜11時を過ぎてからの猫医の往診は困る。なぜ困るかと云ふに、その時間になれば肝心の私がお酒が廻つてゐて、こちらから頼んで来て貰つた人に会ふ資格なぞなくなつてゐる。又クルツの為に毎晩のその順序を変へたり省略したりしなければならぬ程、事態が切迫してゐるとも思へない。それでは今晩は一晩様子を見て、明日の工合で再めてお願ひしませうと云ふのでその晩来診を乞ふ事は止めた。

幸ひにクルツは一晩で大分らくになつたらしく、翌日はもうその必要もないくらゐ元気になつたから、猫のお医者がうちへ来ると云ふ事件は沙汰止みとなつた。
私の懇意な家が大森にあつて、私の主治医がまたそこの主治医でもある。その家には猫がゐる。或る日主治医の博士が往診されると、その後から猫の主治医が来て、人間のお医者と猫のお医者が鉢合はせをした。
人間担当の主治医の博士は大きな診察鞄を提げ、京浜線の混み合ふ電車の吊り皮にぶら下がつてやつて来る。猫担当の主治医は田園調布の辺りの遠い所から、自動車で、看護婦を連れて乗り込んで来る。世は逆さまと成りにけりの感がない事もない。しかしそんな事を気にしても、それは猫の知つた事ではない。


猫は何も知らないかと思ふ。しかしどうもさうではないらしい節もある。知らないのでなく、知つた事ではないと云ふ起ち場で澄ましてゐるのではないか。知る事は知り、しかもその記憶がある程度持続する例を実際に見た。ついこなひだ、手伝ひに来てゐるよそのをばさんと、そこへ来合はせた若い者が、あぢの干物を焼いて二人で小昼飯を食べてゐた。ちやぶ台の下でクルツが知らん顔をして香箱を造つてゐる。そこへ遅く目をさました私が出て行つて、自分で廊下の雨戸を開けたが、いつも勝手を知らぬお手伝いが雨戸の戸袋の始末にへまばかりやつてゐるのを、御飯中だが一寸起つてここへ来て、ここの所の壷の工合を見ておきなさいと云つた。お膳の前を離れて廊下へ出て来た二人に、ここをかうすれば簡単に開くのだと教へて、それですぐに済んだが、その間にちやぶ台の脚の所にゐた猫が這ひ出し、だれもゐなくなつたお膳の上のあぢに手を出さうとした所を二人に見つかつて、こらと叱られた。クルツは悉く恐縮してすぐに手を引いたさうだが、をばさんがおなかが空いてゐるのだらうと同情して、別の猫の場所に猫の御飯をこしらへて与へた。猫の御飯もあぢである。猫の小あぢは薄味に煮てある。クルツは自分だけ別にそれを食べ終り、うまかつたと見えて口のへりを舐め舐め今度は私のゐる方の部屋に来て、暖炉の前に座り込んだ。

さつきのちやぶ台のあぢの干物からは大分時間が経つてゐる。その間に自分の御飯も食べさして貰つたから、猫のおなかの工合は干物の焼いたのに手を出さうとした時よりは違つてゐる。又その干物事件も手を出さうとした所を叱られた、未遂に終つたのだから私の方ではもう忘れてゐた。
暖炉の所でクルツはらくに身体を伸ばさうとしてゐる。一眠りするつもりらしい。
「御飯を食べて来たのか、クルや」と云ひながら手を伸ばして背中を撫でてやらうとすると、私の手がまだ彼に触れない前に、ただ私の手がそつちへ動いたのを見ただけでクルツはどきんとしたらしく、全身を縮めてぴくんと跳び上がりさうな格好をした。
余程こはかつた様で、そのぎよつとした様子はさつきの干物の一件が彼の記憶にまだありありと残つてゐるのを示す様であつた。それを見て、クルは利口だと思つた。

ノラは利口な猫であつたが、クルも劣らず利口である。
「クルや、お前は利口だね。猫と雖も利口な方がいいよ。人間には利口でないのがゐるんだよ。知つてるかい。知らないかい。どつちでもいいね。利口だと思つてゐて、利口でないのもゐるしね。これ、なぜ人の顔を見る。そんな目をして、人をしけじけと見るものではない。何を考へてゐるのだ。お前の表情は昼でも晩でも、いつ見ても曖昧だ。もつと、はつきりしろ」
ニャア
「ニャアと云つたな。小さな声で。何だ。何だと云ふのだ。わからんぢやないか。これクルや、こつちはもう空いたんだよ。をばさんにもう一本つけて貰つて来な。心配するな。そろそろもうお仕舞だ。しかしその後が、それからあとが長いのだよ。その間が楽しみなのだ。わからんかい。おや、雨が降つて来た。雨の音がするだらう。耳を動かしたな。聞こえるだらう。トタン屋根の音だよ。クルや、雨が降ると淋しいね。病院にも雨が降つて行くだらう。クルや、お前は病院と云ふものを知らないね。長い廊下があつて、白い著物を著た人が歩いてゐるのだよ。行つて見るか。連れてつてやらうか。しかし途中が駄目だな」

少し頭を下げて、眠たさうな様子である。
「クルや、お前は今夜は随分おとなしいね。話しを聞いてゐるのか、おつき合ひをしてゐるのか。淋しいのか。考へて見ればお前には身寄りと云ふものがないね。お父つちやんおつかさんはどうしたのだ。ゐるかゐないかわからんのだらう。兄弟もゐたのだらう。みんなと別れ別れになつて、うちへ這入つて来て、人間の中に混じつて、人間ばかりをたよりにしてゐる。さう思ふと可哀想だね。猫は寂しがり屋だと云ふが、それは尤もなわけだ。お前は外から帰つて来ると、いつだつて大袈裟な声をして。ニャアニヤア家の者を呼び立てるぢやないか。門からお勝手口へ廻つた時も、庭から廊下の外へ帰つて来た時も、ニャアニヤア云ふから出て見ると、口を尖んがらかして、あれはわめき立ててゐるのだね、ただ今、帰りました、帰つて来たぢやないか、開けてよ早く、と云つてゐるのだらう。手伝ひのよその人が迎へに出ると、軒下の小石の上などに腹ん這ひになつて、小石にしがみついて、抱かさらない様に意地を張るだらう。我儘が過ぎるし、よその人の親切に対しても失礼でもある。かう云ふ非常な時は少しは遠慮するものだよ。どうだ、わかつたか。あれ、あんなに雨の音がし出した。あしたも雨が降つてゐたら、外へは出られないのだよ。いいかい、クルや、わかつたかい」

さう云つて平手でぽんぽんと頭を敲いたら、その拍子に乗つた様な動作でごろりと横にころがり、二本の前足を宙に浮かした中途半端な格好で、鯒の頭の裏の様な白い顎を前に突き出した。いつもする事で、そこを掻けを云つてゐるのがわかつてゐるから、彼が気に入る様に掻いてやつた。しかし必ずしも痒いから掻いてくれと云ふのではないだらう。人に甘えたい時の姿態、猫の気持ちを表はす一つの表情だらうと思ふ。
その儘クルツはちやぶ台の横の空いた座布団の上に寝ころがつて、すつかりくつろいだ顔をしてゐる。
「クルや、お前は猫だから、顔や耳はそれでいいが、足だか手だか知らないけれど、その裏のやはらかさうな豆をこつちに向けると、あんまり猫猫して猫たる事が鼻につく。そつちへ引つ込めて隠しておけ」

二三日前の夜明けの、人間の足首の事を思ひ出した。入院中の留守の家事を手伝つてくれる女連の外に、私自身の身辺を構つてくれる若い者が幾晩か家に泊まつた。私の隣の部屋に寝てゐたが、寝る時は暖かすぎる程暖かくて、夜中から冷え込んだ晩の夜明け近く、私は目をさまして手洗ひに立たうとした。廊下へ出るには彼が寝てゐる隣室の布団の足もとを通る。私が自分の寝床に起きなほつて、そつちの方へ目をやると、彼は夜中に寒くなつて、寝ながら掛布団を無闇に上へ引つ張つたと見えて、足の方は掛布団が切れて敷布団が出てゐる。驚いた事に、その白いシーツの上に足首が一つころがつてゐる。
びつくりして、こはくなつて、そつちへ行く気はしないが、なほよく目を据えて見なほした。間違ひなく足首で、シーツの上に無気味にころがつてゐる。ぢつと見つめたが、まだよく目がさめてはゐない。有り明けにともしてある電気の光も薄暗い。何かを見違へてゐるのだらう。暫らく眺めて、沓下だらうと思つた。沓下を穿いたなり寝て、後でもしやもしやするから脱いで足許へつくねたのだらう。さうだつたのかと思ひ直してもう一度よく見たら、矢つ張り沓下ではない。間違ひなく人間の足首である。
全く気味が悪い。ファウスト伝説に、寝て鼾をかいてゐるファウストを起こさうとして手を引つ張つたら、手が根もとから抜けてしまつた。足を引つ張つたら足が取れたと云ふ話がある。ここに寝てゐる彼が、まさかそんな魔法を使ふ筈もない。クルツがどこかの縁の下から、くはへて帰つたと云ふ事もないだらう。

クルツは夜は外へ出ない。あつちの座敷で寝てゐる。しかしそこにころがつてゐるのは足首に違ひない。どうにも合点が行かない。見たくないけれど、そこばかり見てゐる。

起ち上がって、電気を明るくした。それで私の寝ぼけた目もはつきりした。矢つ張り本物の足であつた。ただ、離れてころがつてゐるのではなく、彼につながつてゐた。彼は沓下を脱いで、ずぼん下は穿いたなりで寝てゐる。その足が引つ張り上げた掛布団の裾から出てゐた。ずぼん下が洗濯屋から帰つたばかりなのか、新らしいのか、真白である。シーツは下ろしたての新品である。白いシーツの上に白いずぼん下が乗つてゐて、こちらの目がよくさめない所へ電気がぼんやりしてゐるから、シーツでずぼん下は帳消しになり、沓下を脱いだ裸の足首だけが目に入つて、無気味な勘違ひをした。
足首の一件はクルの知つた事ではない。縁の下からくはへて来たかと押し詰めて考へたわけでもない。悪く思ふな。ただその足の裏の豆が気になつて、足首を思ひ出したばかりだ。

「おやおや、寝た儘で、脚の先だけで伸びをしたな。器用な真似が出来るものだね。指の間を随分ひろげたぢやないか。もうそろそろおつき合ひに飽きて来たと云ふのだらう。ところがこつちは、さつきから急にいい心持ちだぜ。猫が退屈して、こちらは廻つて来て、食ひ違ひだね、クルや。もう一ぺん起きてお出で。起きて来て、お前も何か食べさして貰へ。をばさんの所へ行つて、ニャと云ひなさい。くれるよ。お前の好きな物は、常食の小あぢの外に、出前の洋食屋が持つて来るコロツケのわきづけのヴインナソーセーヂ、あの揚げた味がお前は好きなのだね。猫は練り物が好きだと云ふ。お前もその例に洩れない様だ。しかしソーセーヂは今晩はないよ。取らないんだもの、ないよ。それから銀紙に包んだ三角なチーズ、あれも好きだね。矢張り練り物だからな。洗濯シャボンを齧る様で面白くもないが、猫の好む所へ容喙する事はない。あれはあつた筈だ。あつちへ行つて貰ひなさい。おやおや、起きて来たね。矢張り人の云ふ事がわかるのかい。しかし、起きた途端に、それ、またその小さな鼻をひくひくさせる。お膳の上をそんなに見てはいかん。あつ、さうか、忘れてたよ。忘れて食べてしまつた。お前に蒲焼を少し残してやる筈だつた。あぶらでずるずるしてゐるから、つい咽喉へ辷り込んだのだ。御免よ、クルや、チーズで我慢しな」

ノラも大体クルツと同じ様な物が好きだつたが、特にいつも取り寄せる握り鮨の中の玉子焼には目がなかつた。家で焼く玉子焼と違ふところは、魚河岸から買つて来る魚のエキスの汁で玉子がといてあるのださうで、猫の口にも別の味がしたのだらう。ノラが帰つて来なくなつてから、ノラがその玉子焼をあんなに喜んでゐたのを思ひ出すのがいやで、鮨屋に何のかかはりもないのに、それ以来鮨を取り寄せるのを止めた。勿論外の店から取る様な事はしなかつた。今度家内が退院して帰つたら、それを機会に、またノラがゐた時の鮨を取らうかと思ふ。但し、玉子焼は抜かせる。そんな事を指図すれば向うでは取り合はせに都合が悪いかも知れないが、先ずさう云ふ事でもともと贔屓の鮨を再び家へ入れる事にしよう。取らなかつた期間は一年八ヶ月である。その間にその店のご主人は他界し、ノラのゐる時、家へ届けて来たノラの馴染みの兄さんが今はお店で握つてゐるのだと云ふ。

クルツもその玉子焼を貰げばよろこぶに違ひない。しかしノラがゐないのに、それをクルツにやる気にはなれない。ノラが帰つて来たら、さうしたら一緒に与へてどちらもよろこばせよう。それ迄玉子焼はお預けにする。
家内の入院と云ふ事件の為に、もう一つ区切りをつけた事がある。ノラの失踪後、熊本在住の未知のひとから教はつた猫が帰つて来るおまじなひを続けて、毎晩お灸を据えて、その数が五百三十五になつたのが入院の前晩である。ノラを待つ気持ちに変りはないが、それを続けてゐられない事情が起こつたのだから止むを得ない。五百三十五回で一先づ打ち切つた。
そんな事をこのクルツはみんな知つてゐるのか、丸で知らないのかわからない。起きなほつてもとの通りお膳のそばに座り、人の顔を見てゐる。お酒がいい工合に廻つたところで、ついノラの事を思ひ出したから、困る。目の裏が熱い。

「ねえ、クルや、困るねえ。よさうねえ。そうら、あんなに雨が降つてゐる。段段ひどくなつて来た。雨が降るのも困るねえ。音がするからいけない。クルや、お前か」
膝の上に抱き上げたら、その儘自分ですわりをよくして落ちついた。辷らない様に片手で支へてやつてゐると、次第に膝が温かくなり、それを感じた拍子についクルの上へ涙が落ちた。
「クルや、何でもないんだよ。そらもうお酒もお仕舞だ。お仕舞にしようね。それで、そもそもお前は猫である。膝の上なる猫はお前か。お前が猫でクルでお前で、まみでむじなで狸ではなかつたか」

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