Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

大江戸ビジネス社会 ー 呉光生

2014-08-24 18:00:00 | 大和のひと/明治・幕末
大江戸ビジネス社会 (小学館文庫)
クリエーター情報なし
小学館

つい最近、四十数年ぶりに昔のクラスメート百足光生さんにFBのネットで出会った。だんだんと何をしているか・いたかが分かってきて、彼はかなりの書物をモノしていることを知った。まず手に入った「大江戸ビジネス社会」は、<< 目からウロコです。もっと、早くに読んでいればよかったと思いました。(64歳・男性)>>というような感じかな。もっとも、これはもう絶版らしく残念。日本中で今の世の中、いい仕事を大事にしてくれず、不真面目になっているね。

 それではあまりにもったいないので、これを機にもう少しこの辺りの世界に踏み込んでみようと思った。来年からは江戸五輪までの間サンキンコータイで江戸詰めするのもいいかなあ・・・

ではここではホンの一部だけだが著者、呉 光生さんの案内で、江戸のビジネス状況の視察をしてみよう。脈絡なく拾ったようで、生かじり気味なので、この世界の名人石川英輔さんが書かれた「解説」もつけておこう。次なるは、おいしそうな「江戸の食文化」だな。

<<< (以下、「大江戸ビジネス社会」小学館文庫 呉 光生著 より引用、・・・部は中略)

(第2章 大江戸の生活産業 より)

◆ブランドとしての大店

 二〇〇三年春、東京・両国の江戸東京博物館に、ある絵巻物が里帰りして公開され、訪れた人々を驚嘆させた。ドイツのベルリン東洋美術館に収蔵されていた「熈代勝覧」である。

 江戸の町並みを窺わせる絵図は、寛永期(1624~44)の「江戸名所図屏風」「江戸図屏風」が知られているが、「熈代勝覧」は江戸が最も繁栄した文化年間(1804~18)のものであり、しかも日本橋から今川橋までの、江戸のメインストリートを克明に描いたものである。
 絵師は不明であるものの、写実的な筆致は、建ち並ぶ店々や1690人に及ぶ人物を克明に再現している。

 この「熈代勝覧」の中程に描かれているのが三井越後屋である。駿河町の交差点に面し、本店と向店が向かい合って、店の前には人々が蝟集している。もちろん三井越後屋躍進の原動力となった商法「現銀無掛直(値)」の看板も見えている。
 三井越後屋といえば現在の三越デパートの前身としてよく知られている。

 江戸には他にも大伝馬町の下村大丸、日本橋通一丁目の大村白木屋、下谷広小路の伊藤松坂屋など後にデパートへと発展した大規模な店舗があった。

 これらは総じて「大店」と呼ばれたが、すべて呉服屋である。呉服屋は、絹織物専門の小売店と問屋を兼ねた商売である。対して木綿物は太物と呼ばれた。これらの大店は、錦絵や名所案内などによく描かれている。つまり、江戸の呉服屋は現在のデパートと同様に、人々の憧憬を集める「ブランド」だったのである。
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◆コンビニが路地に来る

 江戸の朝は早い。江戸の時刻は不定時法で、昼夜をそれぞれを六等分して、一時や一刻などとした。つまり、朝は常に夜明けの少し前とともに始まり、夜は日没の少し後とともに始まることになる。時代小説などには「明六つ」を「午前六時」などと描いてある場合が多いが、明六つと午前六時が一致するのは、春分の大分前の「雨水」と秋分の後の「霜降」の頃だけである。とにかく、夜明けの三十五分ほど前には、明六つの鐘が鳴って朝が始まるのだ。

 町々の木戸が開いて、人々は活動を始める。女たちは竃に火を熾して、朝餉の準備を始める。そこに夜明け前から準備をしていた豆腐屋や納豆売が売り声をあげながら商売を開始する。
 彼らは天秤棒で担げるだけの商材を持って、縄張りの町内を巡る。追いかけるように、日本橋の市場や神田の市場で魚や野菜を仕入れた男たちが、やはり天秤棒を担いで登場する。醤油売も塩売も嘗物と呼ばれる金山寺味噌売も次々と長屋の入り口までやって来る。

 こうした天秤棒と笊や籠に商材を積んだ担い売の商人を「振売」という。この商売、一人ひとりをみれば、単品を扱うが、こうも集団で次々やって来てくれれば、長屋のおかみさんにとって、これほど便利なものはない。いってみれば、現代のコンビニが向こうから来てくれるのだ。

 もちろん彼らがやってくるのは朝だけではない。昼には、子ども目当ての飴屋も来るし、娘たちを狙って小間物屋も来る。本を担いだ貸本屋も来る。夜は夜で、お店者の腹ふさぎに夜泣き蕎麦屋もやって来る。とりあえず日用に供する必需品は、振売という出張販売で、大体が間に合ってしまうことになるのだ。これをコンビニと言わずに何と言おう。
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◆ファーストフードの王様は蕎麦屋

 現代でファーストフード店といえば、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどアメリカ直輸入の店がまず思い浮かぶ。さらには、牛丼の吉野家や松屋があるが、これも牛肉が日本人になじまれるようになってからのもので、歴史は浅い。ラーメン屋、カレー屋にしても同じようなものである。辛うじて長い歴史をもつものを思い起こせば、立ち食い蕎麦屋ということになるだろうか。

 実は江戸時代にもファーストフード店はあった。なにしろ江戸は当時世界最大の都会であり、しかも圧倒的な男性社会である。手軽な食事の需要が多かったのは当たり前の話なのだ。
 もちろん、その代表選手は蕎麦屋である。通称「二八そば」と言われ、庶民にはおおいに好まれた。二八そばの語源の有力な説に「二×八=一六」という値段由来説がある。この値段からして庶民の味方だったことは疑えない事実だ。

 しかも、落語の「時そば」でお馴染みの一六文が、延享元年(1744)から万延元年(1860)まで一〇〇年以上続いていたというから驚きだ。江戸時代にも当然物価は上昇を続けており、その意味では、戦後の鶏卵に匹敵するほどの「物価の優等生」ぶりである。その万延元年の調査では、江戸府内の蕎麦屋は実に三七六三に及んだという。
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 座敷や小あがりを持つ店構えの蕎麦屋もあったが、圧倒的に多いのは屋台の蕎麦屋である。その蕎麦屋の屋台には「風鈴」がつきものだった。最近ではあまり聞かれなくなったが、ラーメン屋のチャルメラのように、風鈴の音が聞こえれば近くに蕎麦屋の屋台がやって来たことがわかる仕組みで、冬の夜の静寂に響く風鈴は、すきっ腹を抱えた職人や、お店奉公の若者にはなんとも蠱惑的な音色だったに違いない。
 実は、この風鈴が「親ばかチャンリン、蕎麦屋の風鈴」という噺し言葉を生み出したのだが、いまだ健在な「親ばか」に比べると「風鈴」の方は、すっかり廃れてしまったようだ。
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◆いつの間にか高級化した寿司と天ぷら

 現代では、すっかり高級料理に化けてしまったが、江戸時代には屋台で売られ、庶民の人気を集めたファーストフードが、寿司と天ぷらである。
 「すし」の漢字は「鮓・鮨・寿司」と三つもある。それだけ長い歴史があり、その意味するものも変化してきた。古くは米飯を発酵材料とした「馴れ鮨」とよばれるもので、鮒・鮎などの魚の漬け物とでもいうべき保存食品だった。現在でも一部の人が熱烈に好む琵琶湖名産の鮒を材料とした鮒鮨がこれである。鮨は長い歴史のなかで様々な変化をみせる。

 この鮨がさらに大きな変化を見せるのが元禄期(1688~1704)だ。酢を用いることで熟成を早める工夫がなされた。そこから生まれたのが「押し鮨」で、関西では普通に寿司といえば、これを指す。また、一個ずつ熊笹の葉で巻き、軽く重石をかけた「笹巻鮨」も考案された。
 関東で主流の「握り寿司」は、笹巻鮨一個を元に工夫されたもので、文政年間のことと言われている。笹巻鮨は大きめだったために二つに切って客に出された。これが現在の握り寿司が二貫で出てくる所以だという。


 寿司種は、『守貞謾稿』によると、鶏卵焼・車海老・海老そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮などが代表的なものだった。同書には寿司の絵が載っており、白魚の絵を見ると「中結・干瓢」とあり、また「刺身およびこはだ等には飯の上肉の下に山葵を入る」との注釈もある。

 寿司は屋台での商売が主で、値段も四文とか八文がほとんどだが、中には高級な店も出現した。これが天保の改革の際に、二〇〇人以上の鮨職人が手鎖になった理由でもあった。
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(第3章 大江戸のサービス産業 より)

◆俗な存在としての出版業

 芥川龍之介に「戯作三昧」という短編がある。
 老境に入った曲亭馬琴が、人気沸騰中の「八犬伝」を書き継いでいる際の心境にふれたもので、創作者の心のありようが、芥川自身の心境の変化を投影させながら描かれている。いわば「聖」なる創作に携わる者が、世俗の評判や俗事といかに対峙していくか、そのくびきから解放されたときの創作者の心境がいかに澄み切ったものであるかを「戯作者の厳かな魂」とまで言い切る形で表現されている。

  その「聖」なるものに対する俗の俗として登場するのが、版元の主人・和泉屋市兵衛である。彼は、朝湯から帰った馬琴を待ちかまえており、「八犬伝」に次いで人気を得ている「金瓶梅」の原稿の催促に来ている。しかも、当時話題になった義賊、鼠小僧次郎太夫を登場させてほしいと馬琴に頼むのだ。
 常に世間の話題を意識し、企画に反映させていく姿勢は、現代の編集者と変わるものではない。芥川は、それを世間の塵にまみれた俗人の浅はかで、狡猾な知恵であるかのように描く。
 しかし、和泉屋は版元・問屋・小売店を兼ねているわけで、出版界の中心にいる人物ならば、この程度の知恵は当たり前ではないかとも読める。

 さて、その和泉屋市兵衛だが、もちろん実在の人物で、芝神明前に店を構えていた地本問屋である。江戸後期の出版界は、蔦屋、須原屋など日本橋を中心にしたグループと、芝を拠点にするグループが二大勢力であり、現代の東京の「一ツ橋」と「音羽」を思わせる。和泉屋はその一方の有力書店というわけだ。主な著者としては、山東京伝、曲亭馬琴、柳亭種彦、十返舎一九、式亭三馬など錚々たるメンバーを擁している。しかし、当時流行しつつあった料理本には全く手を出していなかった。

 江戸時代の出版界でも、現代同様、営利が目的だから、売れるための努力は惜しまない。作家を育てたり、人気の作家を引き抜いたりするのも当然である。
 しかし、独自の企画で特色を打ち出すことも重要なことだった。和泉屋の場合、文化・文政期(1804~30)のヒット企画に「浮絵」と「おもちゃ絵」がある。前者は浮世絵に西洋画法の遠近法を採り入れて、より立体感のあるもので人気となった。後者は、切り抜いて遊べるようにした子ども向けのもので、これも相当売れたらしいが、ものの性質上残存数が少ない。

◆和泉屋畢生の大企画

  しかし、和泉屋の名を後世に残したのは、それまで出版界とは無縁と思われていた業種を巻き込んでのタイアップ企画だった。
 その最たるものが、文政五年(1822)に刊行された『江戸流行料理通』である。これは、当時最も人気のあった高級料理屋である山谷の八百善とのタイアップで、八百善の料理献立を四季に分類して掲載し、料理法や心得についても言及したものである。

 八百善の主人・栗山善四郎は料理人としての力量に加えて、三味線など多趣味な人で、文人たちとの交流も幅広いものだった。有名な大田南畝の作として流布した狂歌には「詩は詩書は米庵に狂歌おれ芸者小万に料理八百善」と詠われたほどである。
 八百善については、同時代の種々の本に登場する。まず、弘化四年(1847)序の三升屋二三治の『貴賤上下考』には「浅草山谷新鳥越に名を響かせたる八百屋善四郎は、寺々の仕出しの料理をして、始めて膳椀を持出し、その上しちりん迄持ち行しより、江戸中のはやりものとはなれり、その上下直なれば、評判よく、はやり始めたりといふ、此の善四郎母は橋場町水野平八方に奉公して、その頃善四郎幼年にて、水野の小僧を勤しを、予もかすかに覚ゆ、水野は母なる人の里方にてありしかば、つぶさにしりぬ、人の運命はかく願ハしけれ」となかなかの評判だ。
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  ともあれ、八百善は高級で、文人墨客のサロン的な位置にあったことが企画の原点にあり、『料理通』は世に問われたことになる。たしかに中心になる内容は善四郎による献立集である。しかし、酒井抱一の挿し絵が巻頭を飾り、大田南畝と亀田鵬斎の序文や谷文晁の蔬菜図と大窪詩仏の五言絶句などに彩られ、鍬形斎の山谷付近と八百善の図まで添えられているのである。

  さらに出版を知らせる引札(チラシ)のコピーは柳亭種彦という豪華な陣立てで、宣伝費も惜しまなかったところが、和泉屋の自信だったのだろう。この引札の末尾は「二汁五菜の長いもあれば、一寸小皿に向椀。会席仕たての短いも、あるは八百屋の胸のうち。一度聞て見る時は、芋の煮たも白人でも、忽ち変じて料理通。やって見る気に奈良団扇。七厘の下ばたばたと、この書の徳をあふがざらめや」と名調子で結ばれている。
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 ちなみに、出版界では、ベストセラーが出れば、同工異曲、下世話に言えば「二匹目のドジョウ」がいることは通例だが、このときもドジョウはいた。
 天保七年(1826)に刊行されたのが、漬物問屋『小田原屋』の主人をフィーチャーした『四季漬物塩嘉言』である。現在でもお馴染みの沢庵漬けや糠味噌漬け、守口漬けなど六十四種類の漬け物の製法を記した漬け物の総合的な専門書である。梅干しに紫蘇を用いて赤くすることは、この本が刊行されて普及したという説があるほど、多くに人に親しまれる本になった。
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(第4章 大江戸のレジャー産業 より)

 ◆一日千両のビッグビジネス

 「朝千両昼千両に夜千両」という川柳がある。
江戸では、朝昼晩に一〇〇〇両ずつが動くビジネスがあるという意味で、朝は魚河岸、夜は吉原、そして昼に一〇〇〇両動くのが芝居興行ということになる。
 江戸は急増の新興都市であり、家康の入部以来、急速な都市づくりが行われ、寛永年間(1624~44)には一定の都市構造を作り上げていた。しかし、明暦三年(1657)の「振袖火事」は、江戸の大半を焼き尽くし、江戸城の天守閣まで焼いてしまった。以後の江戸は、また新たな相貌をまとったことになる。

  大火以前の家光治世下の江戸の繁栄ぶりを伝える史料は数少ない。その一つが江戸名所図屏風(出光美術館蔵)であるが、すでにこの屏風に芝居小屋の風景が描かれている。
 しかもそこには、中央に人形浄瑠璃を演ずる小屋があり、その両隣には若衆歌舞伎の小屋があり、さらに軽業の小屋、湯女のいる風呂屋も繁盛している。いわば一代娯楽ゾーンが出現していることになる。
 これは、新興都市江戸が、同時に極端な男性社会であり、この種の娯楽の提供が不可欠だったことを示すものだろう。・・・

◆本当に「千両役者」はいたのか 

 江戸の人々に支持され続けた歌舞伎だが、見物するのは一日がかりの一大行事になる。なにせ開演は明六つ(午前六時)、舞台がはねるのは暮七ツ半。お天道様が上がる頃に始まり、沈む少し前まで芝居が続く。
したがって、見物客は食事を確保しなければならない。その面倒をみるのが芝居茶屋と呼ばれる商売で、そこから「幕の内弁当」が生まれてきた。

 さて、この観劇の値段だが、もちろん座席の条件によって違ってくる。天保四年(1833)刊の『三葉草』という本には、「桟敷」が三五匁、「高土間」が三〇匁、「平土間」が二五匁とある。「匁」は銀の単位で、六〇匁で一両だから、結構高いものだったことになる。
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 今度は役者の報酬に目を移してみよう。
 現代はショービジネスの世界でも、人気の高いアーティストのコンサートであれば、入場者は多くなる。歌舞伎の世界でも、人気役者を確保することが座元の大事な仕事だった。その競争は激しいものであり、赤字を出して休業する小屋が何度も出たほどである。

 こうした背景をもとに、役者の給金は上昇する傾向にあった。安永七年(1778)に中村仲蔵が森田座で受け取った一年分の給金は、まさに一〇〇〇両だった。この給金は特殊な事例ではなかったと思われるが、一方で、役者は人気商売であり、「千両役者」という言葉に象徴されるように、自分の給金を過分に広め、その名を高めることがあったとする説もある。
 座頭や立女形が、一〇〇〇両の給金を得ると「千両振舞」という大がかりな振る舞いがあったことも知られている。 

 さすがに幕府も無関心では居られなかったと見えて、寛政の改革時には、尾上菊五郎の五〇〇両を上限に、役者の給金を抑制しようとしたが、プロ野球選手の年俸同様、彼らが高給を得ることは、むしろ庶民の夢であっただろう。
 その夢を助長したのが、役者の大首絵などの浮世絵であり、歌舞伎は常に風俗をリードするファッションのリーダでもあったのである。

<<<<<(「大江戸ビジネス社会」 解説 石川英輔 より)

歴史から学ばない

 最近の実状は知らないが、私の受けた歴史教育によると、江戸時代の日本は暗黒時代だった。士農工商の身分がある斬り捨て御免の封建時代。日本列島は災害続き飢饉続きで、重い年貢に苦しむ百姓は一揆、米価高に苦しむ都市住民は打ち壊しばかりやっていたといわんばかりの教え方だった。
 実際の江戸時代は、徳川幕府という中央政府が二六五年という長い期間にわたって日本を平和に統治し続けた歴史上珍しい時代なのである。普通の常識で考えれば、人口の八〇パーセントを占める百姓たちが搾取されっぱなしで一揆ばかり起こしている社会が二六五年間も平穏に続くはずはないのに、なぜこんな歴史教育がおこなわれたのか。

 歴史上のことを調べていてもっともわかりにくいのが「人口の大部分を占めるごく普通の庶民」の暮らしぶりだ。現代人が毎日繰り返している日常的なことをいちいち記録しないのと同様に、昔の人もごく普通のことを書き残さなかったからである。記録に残るのは特異な社会現象つまり普通でないことが主で、普通に人が普通にやっている普通の生活、つまり圧倒的多数の行動は後世に伝わりにくい、あるいはまったく伝わらないのだ。

 報道するのが目的のテレビニュースでは、この傾向がもっとはっきりしていて、取材するのは、事件、事故、災害などの日常的でないことが大部分だ。「日本中の新幹線は今日すべて正常に運行しました」などという当たり前のことは間違っても報道しないのはご存知じの通りだ。もし、現代のNHK「全国のニュース」を毎日録画して何年分かためておき、それを二百年後の歴史家に見せれば、何というだろうか。
 無差別殺人、大地震、台風、石油高騰、年金記録の消滅についての生々しい放送ばかり続くのを視聴すれば、二十一世紀初頭の日本を暗黒時代だと断定するに違いない。ところが、現代に住む日本人の大部分は、殺人事件、大地震、台風の被害者ではなく、こういうニュースを他人事として聞いているのである。

 江戸時代のこともこれと同じで、先祖がわざわざ記録に残したのは、特別な事件、災害、珍しい行事などが中心だ。飢饉、一揆、打ち毀しなどはめったにない大事件だったからこそ記録に残るので、大部分の人は現代に住む子孫同様に平穏な暮らしをしていたはずだ。だから、江戸時代は二六五年も延々と続いたと考えるのが妥当だと思う。

 ところが、歴史学者は古文書に書いてあることしか研究対象としない傾向が強いため、記録の多い飢饉や一揆などの異常事態には熱心でも、文献にない普通の生活は教えない。もちろん、江戸時代の驚異的な長所、たとえば、外国へ進出も侵略もせず、植民地も作らず、東アジア諸国間の友好を重んじ、食料自給率一〇〇パーセント以上を維持し、生態系を見事に保全し、資源を徹底的に循環利用し、エネルギー効率が信じがたいほど高かったということは無視する。こういう長所は昔の人にとって当たり前すぎて誰もわざわざ記録しなかったので、もっともらしい古文書が残っていないからだ。

 結果として学校の歴史教育は、ただの「暗記もの」になってしまった。
 だが、二六五年も続いた江戸時代には、特異現象だけをみていたのではけっして見えない合理的な構造があったはずと考えるのが大人の常識というものだろう。その合理性の大きな部分を占めるのが商工業運営の方法だった。

巨大都市江戸の誕生

 本書『大江戸ビジネス社会』は、江戸時代の日本の社会をビジネスという切り口で、時間的な変化を含めて様々な角度から解説した興味深い本だ。いわば、普通の生活の集大成といっていい珍しい本でもある。

 江戸は、かなり特殊な成り立ちの人工都市だった。
 徳川家康がはじめて江戸入りしたのは天正十八年(1590)8月朔(グレゴリオ暦8月30日)だった。その当時の江戸がどの程度の規模の町だったのかはっきりした記録はないが、都市といえるほど大きくなかったことはほぼ間違いないだろう。ところがそれから一三年後の慶長八年(1603)二月一一日(グレゴリオ暦3月13日)に、家康が征夷大将軍の宣下を受けて全国の武家を統率する地位に就くと、江戸は実質的な日本の首都になり、全大名の総力をあげての都市建設が始まった。

 これまで敵味方に分かれて領地を取り合い、殺し合っていた多くの大名が、戦争の無い世の中になって、そのエネルギーを新首都の建設に振り向けたのだから、江戸が建設ブームに沸いたのは当然だった。大名たちが江戸の建設に協力したのは幕府ににらまれないという面ばかり強調されるが、必ずしもそれだけではなかったはずだ。 
 大坂夏の陣までは、莫大な出費だけではなく、いつ殺されるかわからない戦闘という肉体労働を強いられていた大名や上級武士にとって、江戸の建設は日当だけ払って高見の見物や監督をしていれば済む安全な仕事でもあった。新都市の建設の方が経済的にも精神的にもはるかに楽だったからこそ、江戸の建設に本気で協力できたという面も強かったのではないかと思う。

 いすれにせよ、広大な武蔵野の野末に幕府と全大名の財力を集めた大都市がにわかに沸き出したのだ。著者の言葉を借りるなら「江戸はまさしく公共工事によって作り出された計画都市」だったが、江戸の建設は、何よりも武家政権の基盤を強固にするのが第一目的であり、幕府に「人民のため」などという意識がなかったことはいうまでもない。 

 だが、人民のためを表看板に掲げながら結局は人民の不満を買い、一世紀もたたないうちに人民によって倒された社会主義政権と違って、徳川封建政府による江戸建設は、結果として人民にとっても儲けのチャンスだった。このあたりの様子を著者は次のように書いている。

「江戸に行けば仕事にありつけると考えた農民たちも多数いたはずであり、江戸の人口増加は急速に進んだ。その人々に必要な物資、食料はもちろん、住居・衣料さらには娯楽まで、経済波及効果は計り知れない規模とスピードに及んだと考えられる」
 要するにやたらと景気が良くなったのである。それも、ただのバブルではない。「数々のビジネスが花開く江戸の舞台は、こうして造られていった」ばかりか、江戸は、人口、面積とも世界一の巨大都市に発展し、その発展は今も続いている。

 こうして賑やかな建設の槌音とともに始まった江戸は、徳川幕府という中央政府所属の武士だけでなく、全国から集まる武士が入れかわり立ちかわり住む都市になった。武士たちはほとんど生産能力のない消費者集団だから、その需要を満たすために、江戸が空前の大きなビジネス社会に成長したのは当然だった。

普通の暮らしが見える

 本書で扱うビジネスの範囲はかなり広い。

 幕府の公共事業に始まり、運輸、不動産、鉱山、商業、農業、サービス業、出版・広告、人材派遣、レジャー産業、教育、医療、金融、通信とほとんどの業種にわたっている、ビジネスの規模も、大店の商いから天秤棒の商品をつけて売り歩く「振り売り」という商いまで含んでいる。また、大家さんが手弁当で担当していた町の末端行政にもくわしく、身分、職種を超えてきわめて広範囲にわたっているのが大きな特徴だ。

 私の知る限りでは、江戸の商工業についてこれほど広い範囲にわたって立体的に解説した一冊はほかにない。再び著者自身の言葉を借りれば「ビジネスの諸相を出来るだけ具体的に描写しようとしたもので・・・そこに息づく人々の手触りを感じ取れるような表現を心がけたつもりだ」ということになるが、この試みは成功していて、読者は、人口の大部分を占めるごく普通の庶民の暮らしぶりをかなり具体的に感じ取れるはずであり、江戸時代が二六五年も続いた理由も納得されるのではなかろうか。     (いしかわ えいすけ/作家)

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