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雪のひとひら (新潮文庫) |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |
近年には珍しいほど雪が降って庭はいまだに雪の山。冬季五輪のソチはそんなにも雪だらけにはみえないなあ。スノボ/パラレルの竹内さんの大回転の写真の一枚がすばらしい。両手をバランスしての突っ込み、ダイナミックなターンの一瞬。雪か、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」、雪の一生、それとも女の一生・・・訳者の矢川澄子さんのあとがきもすばらしいので、わすれないようにしておこう。こんなことをしていたら、ぼくの生まれた頃の父のことも知ってくれていた、妻のほう今野のおじさんの訃報がはいってきた。元茶畑も会社も大先輩お世話になった、二月という月はなんともいかんな。午前中は淵ちゃん先生に診てもらったが、どう調子は?まあまあ、ということにした。う~ん、H−A1C悪くなったね、ずっと風邪ぬけなくって・・(まあ2ヶ月前の測定だから、まあ、いいか、食べ過ぎ?メランコリー?)、コマとどっか暖かいとこに行ったの?あれもダイエットさせないと、アハハ、この前カガはいいなあ、おくさまが・・・って言ってたよ・・・
<<<< 「雪のひとひら ポール・ギャリコ/矢川澄子訳 新潮文庫」より引用 ・・・・・・:中略
雪のひとひらは、ある寒い冬の日、地上を何マイルも離れたはるかな空の高みで生まれました。
灰色の雲が、凍てつくような風に追われて陸地の上を流れていきました。その雲の只中で、このむすめのいのちは芽生えたのでした。
すべては立てつづけに起ったことでした。はじめはただ、もくもくとしたその雲が、山々の頂をただようているばかりでした。それから雪がふりはじめました。そして、つい一秒まえまでは何物もなかったところを、いま、雪のひとひらとその大勢の兄弟姉妹たちが空からおちつつある、ということになったのです。
まあ、おちる、おちる、おちる!ゆりかごにでものったように、やさしく風にゆられ、右ヘ左へ、ひらひらと羽のようにふきながされながら、雪のひとひらは、いつのまにか、いままでついぞ見も知らぬ世界にうかびでていました。
じぶんはいったいいつ生まれたのか、またどのようにして生まれたのか、雪のひとひらには見当もつきませんでした。あたかも、ふかい眠りからさめたときの感じにそっくりでした。ついいましがたまでどこにも存在しなかったこの身、それがいま、こうしてくるくる、するする、すいすい、ずんずん、ひたすら下へ下へとくだってゆくところなのです・・・・
雪のひとひらはひとりごちしました。「わたしって、いまはここにいる。けれどいったい、もとはどこにいたのだろう。そして、どんなすがたをしていたのだろう。どこからきて、どこへ行くつもりなのだろう。このわたしと、あたりいちめんのおびただしい兄弟姉妹たちをつくったのは、はたして何者だろう。そしてまた、なぜそんなことをしたのだろう?」
問いかけてもこたえはありませんでした。空では、風がふいても音はしませんし、空そのものが静かなところなのです。地上でさえ、雪がふりはじめるときは、しんとしています。
あたりを見まわすと、目のとどくかぎりはいちめんに、幾百幾千ともしれぬ雪たちが、おなじようにして舞いおりてゆくところでした。この雪たちもやはり、だまったままでした。
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いかなる理由あって、この身は生まれ、地上に送られ、よろこびかつ悲しみ、ある時は幸いを、ある時は憂いを味わったりしたのか。最後にはこうして涯しないわだつみの水面から太陽のもとへと引き上げられて、無に帰すべきものを?
まことに、神秘のほどはいままでにもまして測り知られず、空しさも大きく思われるのでした。そうです、こうして死すべくして生まれ、無に還るべくして長らえるにすぎないとすれば、感覚とは、正義とは、また美とは、はたして何ほどの意味をもつのか?
そのひとは何者か。この身に起ったことどもを、あらかじめそのように起るべく計らったそのひとは?何ゆえにそのように仕組んだのか。この身を唯一無ニのかがやかしい結晶体に仕上げ、空からふうわりと送り出したのは、ただにそのひとの気紛れにすぎなかったのか。それとも、こうしたことすべての裏には、彼女には測り知れない何らかの目的がひそんでいるとでもいうのか?
そのひとは、結局のところ、雪のひとひらのことをわすれてしまったのか?ひとたびはそのひとの愛をうけた雪のひとひらでした。記憶はたしかでした。あのように、あらゆる災いからたしかに守られているという、ほのぼのと、こころよく、やさしくもなつかしい感じがあったのでした。とはいえ、そのひとは、たちまち彼女に飽いて突放し、おのれの創造になるこの神秘な世界をあてどもなくさまよわせ、さまざまな憂目に会わせたのではなかったか。
海はいまや眼下に遠ざかりました。白熱の太陽は彼女をしっかりととらえていました。いまでは雪のひとひらのすがたかたちも、長年馴染んできた愛らしい透明なしずくではなくなり、しなび、干上りつつありました。まもなく中空に一抹の蒸気がふわりとただようのみで、すべてが消滅することでしょう。
頭上はるかな高みには、ふわふわした白雲がひとつ浮かんでいました。あれがわたしの行きつくところなのか?雪のひとひらは、自分のいのちのふるさとが雲の中であったことを思い出しました。
とはいえ、臨終のこのときにあたり、雪のひとひらの思い起こしたことは、それだけにはとどまりませんでした。
かすみかけた彼女の目のまえに、いましもその全生涯のできごとがくりひろげられたのです。
まず、雪のひとひらは山の辺にふりつもり、赤い帽子と手袋をした小さな女の子が彼女を橇でひいて通りすぎたのでした。
それから、村の校長先生そっくりの雪だるまの鼻にされ、通りがかりの人々がその雪だるまを見ては、わらって、憂さ晴らしをしてくれました。
それから、春がきて、丘をころがりおりて、森蔭のすみれの眠りを目ざめさせました。
それから、水車めぐりにまきこまれ、粉挽の臼をまわして小麦を粉にし、一人の女に子供や夫のためのパンを焼けるようにもしてやりました。
それから、なつかしいやさしい一しずくの雨と交わり、彼を愛し、彼とともに湖に入り、生涯の至福の日々をそこですごしました。
・・・・
鼓動はすこしずつ、すこしずつ弱まってきました。まもなく雪のひとひらは雪のひとひらであることをやめ、宏大な無言の天空の一部、おぼろげにかすむ秋の雲のひとかけにすぎなくなるはずでした。
けれどもこの終焉のきわに、彼女はいま一度、はるかな昔にはじめて空から舞い降りてきたときに感じとったこととおなじ、あのほのぼのとした、やわらかい、すべてを包み込むようなやさしいものが身のまわりにたちこめるのを感じました。
それは彼女を甘やかな夢にいざない、おそれを鎮め、全身全霊をよろこびでみたしました。
こうしてようやくわかりました。そうです、何者が雪のひとひらをつくり、雪のひとひらを見守り、大小を問わずあらゆるものとおなじに始終雪のひとひらをもいつくしみつづけてくれたのか、その究極の神秘は、ついに彼女には解き明かされぬままに終わるのでした。この期に及んではわざわざ知るまでもありませんでした。なぜなら、誰のしわざにせよ何者のゆえにせよ、まもなく雪のひとひら自身がその何者かの一部に帰するさだめであったのです。
大陽が彼女を頭上の雲の中心にひきずりこむ間際、雪のひとひらの耳にさいごにのこったものは、さながらあたりの天と空いちめんに玲瓏とひびきわたる、なつかしくもやさしいことばでした。ーー 「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」
(了)
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<<<(愛のまなざしのもとにーあとがきに代えてー 矢川澄子(訳者)」より
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美しさといえば、全篇のここかしこにちりばめられた自然描写、情景描写のことごとくが生き生きとした美しさにみちあふれ、主人公雪のひとひらのこころを揺りうごかすとともに、読者であるわたしたちをも深い感動にさそいます。人生最初のあけぼのの壮大なパノラマ、岩走る春のせせらぎの気も狂うばかりのよろこび、湖畔にたわむれる子供たちのはしゃぎ声、その鳶色の脛・・・
とはいえ、作者ギャリコがこの一篇でえがきだそうとしたものは、はたしてそのような美ばかりだったのでしょうか。美の問題にかこつけて、いまひとつだけいわずもがなの私見をつけ加えさせていただくとすれば、この小説の主題はやはり愛のこと、もしくは美と愛との一致するところにあり、その答えは最後の数行に尽くされていると思うのです。
臨終の雪にひとひらの耳に、なつかしくもやさしいことばがきこえてきます。 ーー 「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さあ、ようこそお帰り」
これです。これこそはおそらくこの世でもっとも甘美なささやきではありますまいか。
ことばそのものは、ごくありふれた、あたりまえの挨拶にすぎないかもしれません。暗い夜道を一人とぼとぼと歩いてきたわが子を迎え入れる父母のことば、戦いに疲れ傷ついて戻った夫をまちうける妻のことばとおなじ、いたわりとねぎらいのことばですが、しかしこれはもちろんことばの上だけにとどまる問題ではありません。原文を知りたいかたのために書き記せば、“Well done, Little Snowflake. Come home to me now," ですが、この Well done が心からいわれるためには、相手のなしてきたことにたいする理解、その辛さ、さびしさ、苦しさを読みとるだけのまなざしが当然なくてはなりますまい。
苦労ばかりではありません。よろこびもかなしみも、時には人知れず犯した罪でさえも、誰かに打明けてわかってもらったというそのことによってはるかに心救われたためしも数々あるでしょう。逆からいえば、このWell done の一声をどこかに期待できるかぎり、なかなか絶望などということはありえないのでしょう。
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