放送大学は教養学部のみの単科大学です。ところで「教養学部」って何でしょうか?
日本の大学には多くの学部・学科があります。「法学部」「経済学部」「商学部」「文学部」「理工学部」「農学部」「医学部」「薬学部」「外国語学部」「体育学部」………。今では「情報〇〇学部」「国際〇〇学部」「福祉〇〇学部」などなど。これらの学部・学科で専門的な学問を学ぶのですが、その前段として1、2年生(大阪では1、2回生)の2年間で一般的な教養を身に付けます。しかしその一般教養課程でもないようです。
日本では東京大学と国際基督教大学に教養学部があるようですが、一体何なんでしょうか?英語では「リベラルアーツ(Liberal Arts)」と訳されるようです。それをまた日本語に訳せば「自由学芸」。かつて教員を養成する「教育大学」を「学芸大学」と呼びましたが「教育学部」や教員養成系でもないようです。つまりは専門教養の前段という扱いではなく、ひとつの教養いわゆる国や経済発展のため職業人や職業的専門知識を養成・修得することを目的とするのではない純粋な教養を身に付けるための学問のようです。すでに職を得ていた私にとっては「就職」や「学歴」を目的としないので、ちょうど良い学問でした。
私が入学した当時の放送大学には教養学部の下に「生活科学」「産業社会」「人文自然」の3つのコースがあり、それぞれに2つずつ合わせて6つの専攻がありました。私は「生活科学」コースの「発達と教育」を専攻しました。動物としての人間は誰もが平等に「成長」しますが、いかに「発達」するかは人それぞれであり、その糧となるものが「教育」。教育の重要性を追求する学問だったと思います。
このコースを専攻した理由は「教育」「学校」というものに興味があったからです。そのきっかけとなったのは「米百俵」という映画でした。小泉純一郎元総理が所信表明演説で引用したことから有名になった映画です。大雑把な内容は河井継之助率いる長岡藩が北越戦争に敗れ窮地に陥った際、盟藩から米百俵の支援を得たものの、時の藩大参事であった小林虎三郎が「目先の困難を凌ぐためではなく、将来の人材を育成する」という考えからその米を元に藩校を設立。当初、飢えに苦しむ藩士らからは反発を受けましたが、次第に藩士たちも教育の重要性を認識し「学校じゃ。学校じゃ。学校を作るのじゃ」と奔走する。「教育が人を作り、人が国を作る」そんな話でした。今の政治家にも通ずることですね。 つづく
日本の大学には多くの学部・学科があります。「法学部」「経済学部」「商学部」「文学部」「理工学部」「農学部」「医学部」「薬学部」「外国語学部」「体育学部」………。今では「情報〇〇学部」「国際〇〇学部」「福祉〇〇学部」などなど。これらの学部・学科で専門的な学問を学ぶのですが、その前段として1、2年生(大阪では1、2回生)の2年間で一般的な教養を身に付けます。しかしその一般教養課程でもないようです。
日本では東京大学と国際基督教大学に教養学部があるようですが、一体何なんでしょうか?英語では「リベラルアーツ(Liberal Arts)」と訳されるようです。それをまた日本語に訳せば「自由学芸」。かつて教員を養成する「教育大学」を「学芸大学」と呼びましたが「教育学部」や教員養成系でもないようです。つまりは専門教養の前段という扱いではなく、ひとつの教養いわゆる国や経済発展のため職業人や職業的専門知識を養成・修得することを目的とするのではない純粋な教養を身に付けるための学問のようです。すでに職を得ていた私にとっては「就職」や「学歴」を目的としないので、ちょうど良い学問でした。
私が入学した当時の放送大学には教養学部の下に「生活科学」「産業社会」「人文自然」の3つのコースがあり、それぞれに2つずつ合わせて6つの専攻がありました。私は「生活科学」コースの「発達と教育」を専攻しました。動物としての人間は誰もが平等に「成長」しますが、いかに「発達」するかは人それぞれであり、その糧となるものが「教育」。教育の重要性を追求する学問だったと思います。
このコースを専攻した理由は「教育」「学校」というものに興味があったからです。そのきっかけとなったのは「米百俵」という映画でした。小泉純一郎元総理が所信表明演説で引用したことから有名になった映画です。大雑把な内容は河井継之助率いる長岡藩が北越戦争に敗れ窮地に陥った際、盟藩から米百俵の支援を得たものの、時の藩大参事であった小林虎三郎が「目先の困難を凌ぐためではなく、将来の人材を育成する」という考えからその米を元に藩校を設立。当初、飢えに苦しむ藩士らからは反発を受けましたが、次第に藩士たちも教育の重要性を認識し「学校じゃ。学校じゃ。学校を作るのじゃ」と奔走する。「教育が人を作り、人が国を作る」そんな話でした。今の政治家にも通ずることですね。 つづく