訪問日:平成26年3月19日(水)
出 発:地下鉄「谷町四丁目駅」
到 着:JR大阪環状線「大阪城公園駅」
大阪の観光地と言えば何と言っても「大阪城」だろう。1583年、太閤秀吉により築城されたというが、その後、幾度にもわたって戦乱、天災、戦災に見舞われ、歴史的価値や美しさにあっては「姫路城」や「松本城」など諸城に遅れをとるかも知れない。しかし、都会のど真ん中にあるという立地条件と江戸城(皇居)と異なり、大部分が公園として開放されている広大さは、どこの城にも負けないだろう。1日かけて隣接する「大阪歴史博物館」「難波宮史跡公園」と合わせて「大阪城」を歩く。
地下鉄「谷町四丁目駅」。谷町線と中央線が交わる。付近は、大阪の「行政の中心地」であり、府庁、警察本部などのほか中央官庁の出先機関などが並ぶ。午前9時50分、2番出口をスタート。
市立東中学校、家庭裁判所、NHK大阪放送局を過ぎ、5分ほどで「大阪歴史博物館」前に着く。かつて大阪城本丸内にあった大阪市立博物館が移転、平成13年、馬場町交差の南東角にあった「NHK大阪放送局」とともに新たにオープンした。7階から10階が常設展示場。開館時間は午前9時30分から午後5時まで、入館料は大人600円だが大阪城天守閣との共通入館券(900円)を購入する。火曜日休館。
エレベーターで10階まで上がる。10階は「古代」フロアーで難波宮に関する資料や埋蔵発掘物などが展示されている。
また、「後期難波宮大極殿」の一部が実物大で復元されており、当時の宮廷儀礼が再現されている。
スクリーンに映し出された「大化の改新」の映像の後、ブラインドが上がりガラス窓越しに地上57mからの難波宮跡が望めるよう趣向が凝らされている。
エスカレーターで9階へ。ここは「中世近世」のフロアーで「石山本願寺」の寺内町として栄えた時代から「天下の台所」と謳われた大坂の町などが紹介されている。
大坂の町家も模型で再現されている。
8階は「歴史を掘る」というフロアーになっており、模擬遺跡発掘や発掘土器の復元体験などができる。
7階は「近代現代」のフロアー。「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた大正から昭和初期にかけた活気溢れ、また、モダンな大阪の街が再現されている。
6階以下は特別展示場や会議室になっているので、1階までエスカレーターで下りる。そして1階フロアーの床下に発掘されたままの状態で眠る「難波長柄豊碕宮」の遺構などがガラス越しに見学できる。
隣接するNHKでは、放映中の連続ドラマ「ごちそうさん」のコーナーが設けられていた。
また、博物館周辺は古墳時代(5世紀頃)の高床式倉庫16棟の遺構が発見された「法円坂遺跡」であり、博物館南側には当時の姿で倉庫1棟が復元されている。
四角く色分けされているところが倉庫が並んでいた場所。柱跡にコンクリート柱が並ぶ。
次ぎに向かうのは中央大通りと上町筋を挟んで広がる「難波宮史跡公園」。難波宮は「日本書紀」に書かれていながら長らくその場所はわからなかったが、昭和28年、宮殿の鴟尾が発掘されて以来全容が明らかになり、ここが645年、孝徳天皇の難波遷都により造営された「難波長柄豊碕宮」と考えられる「前期難波宮」と聖武天皇が平城京の副都として造営したといわれる「後期難波宮」とが重なる複合遺跡であることが判明した。
公園北端に復元されているのは「後期難波宮大極殿跡」。
ここで華やかな宮廷儀式が行われたのだと思うと何か感慨深いものが。
大極殿跡の西側にある鉄製の藤棚のような建物は「前期難波宮八角殿跡」。
植え込みや植樹なども発掘された回廊などの遺跡に沿って植えられている。
その後「朱雀門跡」なども発見され約9万㎡が国の史跡に指定されているが、大部分は広大な芝生であり建造物や展示物はないので、これより難波宮史跡公園を後にして「大阪城公園」へと向かう。
「大阪城」。本願寺第8世、蓮如上人(1415~1499)がこの地に「大坂石山御坊」(後の石山本願寺)を建立したが、その後、天正8(1580)、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い、いわゆる「一向一揆」「石山合戦」などと呼ばれる戦乱により焼失した(大坂本願寺御影堂の模型)。
そして、織田信長から天下覇権を引き継いだ豊臣秀吉が天正11(1583)年、その跡地に「大坂城」を築城。そのため「太閤さんのお城」とも呼ばれている。しかし、慶長20(1615)年、「大坂夏の陣」で落城。大坂は江戸幕府直轄地(天領)となり、寛永6(1629)年、二代目将軍徳川秀忠により二代目「大坂城」が完成、そのため現在の大阪城の遺構は秀吉ではなく徳川家により再建されたものである。その二代目天守閣も寛文6(1666)年の落雷により焼失、それ以来、天守は再建されなかった。
その後、幕末の慶應4(1868)年、京・二条城を追われ大坂城に居城した最後の将軍、徳川慶喜が「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ江戸に逃れたことから、大坂城は新政府軍に明け渡された。この戦乱により多くの建造物が失われている。
そして明治に入り大坂は「大阪」と改められた。その頃から城郭東部に近代陸軍の兵器工場である「大阪砲兵工廠」が建設され、城内も要塞化された。
しかし、昭和に入り当時の大阪市長、関一(せき はじめ)が天守再建と大阪城公園整備事業を提唱、昭和6年、市民らの寄付により三代目天守閣が完成し、大阪城公園が開園された。
そして、第二次世界大戦末期、軍事施設であったことから、砲兵工廠とともに集中的に爆撃を受け、天守閣は損壊を免れたものの多くの建造物が焼失してしまった。しかし、戦後、占領軍の接収を経て、内濠と外濠に囲まれた約73万㎡が特別史跡公園として、その東部に広がる砲兵工廠跡が森林公園として合わせて約107万㎡が「大阪城公園」として整備され現在に至る。
大阪城へのアプローチは地下鉄「谷町四丁目駅」を起点とする「大手門」。JR及び地下鉄「森ノ宮駅」から森林公園を経て「玉造口」。JR「大阪城公園駅」から大阪城ホールを経て「青屋門」から入る3つのコースが一般的である。今日は、最初に「大阪歴史博物館」「難波宮史跡公園」を訪れたので、すぐ近くの「大手門」から入城する。しかし、時間は午前11時40分、大手門近くにある「レストハウス」でまず昼食を。
谷町筋まで出れば多くの飲食店があるが、大阪城公園内では、以前、天守閣前に団体観光客向けの食堂兼お土産屋さんが2軒あった。しかし、「特別史跡として景観上ふさわしくない」という理由で閉鎖され、現在では、このレストハウスが唯一の飲食施設だ。軽食であればいくつか売店がある。「玉子丼」(580円)を注文。
食事を終えいよいよ城内へ。しかし、大手門へは向かわず、まず外堀をぐるりと一周しよう。外堀は四隅にある「大手門」「玉造口」「青屋門」「京橋口」でそれぞれ「南外堀」「東外堀」「北外堀」「西外堀」に4分されている。大手門から玉造口までを「南外堀」という。最初に「南外堀」に沿って歩く。
堀の西端には「生國魂神社御旅所跡」が立つ。かつてこの辺りまで生國魂神社の社域であったらしい。
堀の向こうには「七番櫓」跡。ここから大手門へ向かう敵兵に目を光らせていた。
堀の西端に立って東方向を望む。南外堀の石垣はギザギザ状に刻まれており、角には一番から七番まで7つの櫓が建てられていた。これにより石垣を上る敵兵は、正面と側面から攻撃を受けることになる。現存するのは、六番櫓と一番櫓のみ。見えているのは「六番櫓」。7つの櫓が並ぶ姿は壮観だっただろう。
東へ少し進むと右側に「教育塔」という大きな塔が見える。これは何らかの教育発祥の地というのではなく、昭和9(1934)年の室戸台風で亡くなった教職員や児童の慰霊塔である。
教育塔を少し過ぎたところから南外堀越しに石垣を望むと、ちょうど六番櫓の左にぽっかりと穴が見える。真田幸村が城外への抜け穴として掘ったという「真田の抜け穴」などと呼ばれているが、実際は明治に入って陸軍が掘ったと言われる。しかし、内部は崩壊しており用途は不明だ。
拡大してみると1つの石が抜け落ちているのではなく、下2つの石が加工されていることから、人工的に造られたものには間違いないだろう。
ここは、池を配した公園と芝生広場だった。
最近、芝生広場が駐車場に変わったようだ。
東西に長いこの地域は、陸軍時代、射撃場であったらしい。駐車場前に碑が建つ。
堀が石垣に突き当たると玉造口だ。「一番櫓」の頭がのぞく。しかし、このまま真っ直ぐ先へ進もう。
一段低くなったところは、大阪砲兵工廠跡である。今は植樹され、緑豊かな森林公園となっている。
市立大阪城音楽堂と大阪市音楽団の間を抜ける。
「大噴水」の前に出る。ここは「森ノ宮駅」からの入口である。
噴水の北に広がるのは「市民の森」。
木々の間を抜けていく。
「イチョウ並木」。秋になれば「黄金色」に輝く。
突如現れる広大なグランド。「太陽の広場」と呼ばれ、ナイター設備を備える。ここでは、いろいろな催し物が開催されるが、中でも有名なのは毎年5月に行われる「メーデー」だ。
「太陽の広場」を過ぎると右に本日のゴールである「大阪城公園駅」が見えるので、逆方向(左)に曲がる。正面には「大阪城ホール」。
大阪城ホールは、大阪築城400年を記念して昭和58(1983)年に建設された。周囲の景観を損なわないよう半地下式となっている。16000人収容のスタンドがあり、室内陸上競技や平成15年には「第23回世界柔道選手権大会」が開催された。
大阪城ホール前の「大阪城新橋」で第二寝屋川を渡る。砲兵工廠跡の第二寝屋川と寝屋川に挟まれた三角地帯は、大阪大空襲の後、長らく廃墟として野ざらしになっていたが、昭和50年代に入り高層ビルやホテルが並ぶ「大阪ビジネスパーク(OBP)」として生まれ変わった。
城の北を流れる淀川及び支流(現在の寝屋川・第二寝屋川)は天然の要害として、また、水運・堀への取水に利用された。そして川に向かって砲兵工廠時代に船舶で資材などを搬出入した「大阪砲兵工廠荷揚門」が残されている。「残されている」というより、取り壊す必要がないので「残っている」という感じだ。
「新鴫野橋」で再度、第二寝屋川を渡る。右には「大阪城桃園」。
まだ、ちょっと早いが、桃の花が咲いていた。
「北外堀」に沿って歩く。
「北外堀」越しに望むと立派な台座のような石垣が見える。かつてここには伏見城から移築したという「伏見櫓」という櫓が存在した。そして現存した他の櫓がすべて二層であったが、伏見櫓のみが三層で小さなお城の天守閣ほどの偉容を誇ったという。しかし、幾多の戦乱で生き残った櫓も第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったそうだ。
「北外堀」に沿って進むと、途中、左に大きな石が。実は、これは「石」ではなく「金属」だ。かつて、ここにあった大阪砲兵工廠で兵器の製造過程もしくは研究過程で排出されたものだと言われている。
確かに石ではなく「金属」だ。錆が浮いている。
さらに進むと右に赤煉瓦のレトロな建造物が現れる。「大阪砲兵工廠化学分析所跡」。
大正8(1919)年建築で、先ほどの「荷揚門」とともに現存する砲兵工廠遺構の1つだ。長らく自衛隊の地方連絡部(募集事務所)として使用されていたが、今は空き家である。
その向かいにはフェンスに囲まれているが赤煉瓦の建造物が立つ。これも砲兵工廠の遺構。場所的に「警衛所」のように思われるが、昔の地図によると「便所」だったらしい。
ここから城外に出る。ここは「筋鉄門」と呼ばれていたらしい。かつて砲兵工廠の正門として使用されていたことから赤煉瓦の塀が残る。
大阪歴史博物館のビデオで放映されていた砲兵工廠正門の古い写真に写っている姿は、「警衛所」や「便所」にしては立派な建物に見えるのだが……。内部はともかく、歴史遺産として外観だけでも整備・公開してほしい。後ろには、当時現存していた三層の「伏見櫓」。
石柱に残る「砲兵工廠」の文字。
外周道路を左折するとすぐに「京橋口」が現れる。ここも大阪城内への進入口であるが、裏口にあたるのであまり一般的ではない。
敵の侵入を防ぐため枡形となっている。大阪城は「巨石」で有名だが、正面には城内第2位の巨石「肥後石」がそびえる。また、ここにも多聞櫓があったそうだが、空襲により焼失した。
このまま進むと城内に入ってしまうので外周道路まで戻る。ここから大手門までは「西外堀」と呼ばれる堀に沿って歩く。追手門学院から大手前交差までの約250mは、公園外であり一般道が堀沿いを走る。
大手前交差に交わるところで再度、公園内に戻る。京橋口越しに「OBP」の高層ビル群を望む。
そして堀の向こうには「乾櫓」。元和6(1620)年建造の重要文化財。二層であるが現存する櫓の中で唯一、一層目と二層目が同じ面積の「総二階造り」という構造になっている。
「西外堀」に沿って公園内を歩く。
右には「大阪府庁本館」。昭和元(1926)年建築の重厚な建物である。
しばらく進むと城の正面玄関である「大手門」前の広場に出る。これで大阪城公園の外周を一周したことになる。
右から「大手門」「多聞櫓」「千貫(せんがん)櫓」の順に望む。「大手門」から侵入しようとする敵兵は「千貫櫓」と大手門の右にあった「七番櫓」から矢・銃弾を浴びることになる。
「大手門」。元和6(1620)年建造、落雷で破損したが、嘉永元(1848)年に補修され、重要文化財に指定されている。防衛上、死角を少なくするため屋根の薄い「高麗門」という様式で築かれている。
門をくぐれば、ここも枡形になっており「多聞櫓」が建つ。多聞櫓とは城入口石垣の上に建つ防御施設で、大手門を突破した敵兵はここで多聞櫓からの攻撃にさらされる。大手門枡形のこの多聞櫓が最大で、寛永5(1628)年築。落雷のため嘉永元(1848)年、大手門とともに再建、重要文化財に指定されている。
多聞櫓から続櫓と呼ばれる櫓が続き、その下には城内第4・5・8位の巨石が3つ並ぶ。
壁には弓矢や銃を放つ「狭間」が並ぶ。狭間は、全国の城に見られる防御用設備だ。
「狭間」越しに大阪府警察本部を望む。
そして大阪城の狭間の特徴は、石垣上部を斜めに削り、伏せた姿勢で銃を撃てるよう細工されていることだ。
石垣と壁の境目に小さく開く放出口は、銃撃戦を想定した現在で言う「銃眼」だ。「鉄砲狭間」とも呼ばれる。どこから飛んでくるかわからない銃弾に敵兵たちは恐れおののいただろう。
多聞櫓をくぐった所で進路は、右に直角に曲がる。多聞櫓を突破した兵は、大きく進路変更を余儀なくされる。
多聞櫓をくぐると左に「千貫櫓」が建つ。かつて織田信長が、あまりにも強固な櫓であったため「千貫文の金を払ってでも落としたい」と語ったのが名の由来とか。元和6(1620)年建造の重要文化財である。
城の造りで「本丸」を囲んだ部分を「二の丸」と呼ぶ。大阪城は外堀が4つに区分されていることから二の丸も4つに分けられる。多聞櫓をくぐって少し進んだところに「冠木門」。二の丸のうち本丸と西外堀に挟まれた「西の丸」と呼ばれる部分へ続く。西の丸は「西の丸庭園」として整備され、この部分は有料(大人200円)だ。
徳川期「大坂城代屋敷」が建っていたところで、豊臣期には「ねね(北政所)」もここで暮らしたといわれる。今は広い芝生の公園になっている。
約600本の桜が植えられ、花の季節には多くの人で賑わい観桜ナイターも開かれる(ナイター期間中は350円)。
突き当たりには「高麗門」。現在は、閉ざされているが、京橋口へと抜けることができる。
高麗門の横には「焔硝蔵」。貞享2(1658)年に建造された石造りの「火薬保管庫」だ。何か「精悍」な面構えだな。
その向かいには「大阪迎賓館」。これは平成7(1995)年に開催された「大阪APEC(主要国首脳会議)」の際に京都・二条城の白書院を模して建てられたもので、各国首脳たちがこの前で写真に収まった。今は休憩所として使用されている。
西の丸庭園北西角。この奥には西外堀越しに望んだ「乾櫓」が建つ。こちらから見ると「L字」形に造られていることがわかる。
そして庭園南西角に行くと、先ほど大手門前から望んだ「千貫櫓」の裏に出る。
冠木門から西の丸庭園を後にする。正面には赤煉瓦の塀と門柱が見える。「大阪城公園城内詰所」という表札が掲げられている。かつての「陸軍大阪兵器支廠本部門跡」とも「陸軍大阪衛戌監獄(陸軍刑務所)門跡」とも言われる。やはり軍施設であったため、詳しい資料が残っていないのだろうか。
そして「太鼓櫓跡」と呼ばれる石垣の間を抜け、本丸と南外堀に挟まれた二の丸部分へと進む。かつてここには太鼓櫓という櫓があり、時報や合図のため太鼓を打ち鳴らしたそうだが明治元(1868)年の大火で焼失した。
そしてさらに進むと「石山本願寺推定地」碑。大阪城の前身である石山本願寺は大阪夏の陣の戦乱や城の再建工事などのため正確な伽藍は確認されていないそうだ。向こうの建物は「修道館」。柔道場と剣道場を備えた武道館である。
修道館内部。観覧スペースがないため大会は開催されず、学生の稽古や柔剣道教室、昇段審査などに使用されている。
修道館の奥には、最初、南外堀越しに望んだ「六番櫓」。寛永5(1628)年建造の重要文化財。
修道館前に戻りさらに東へ進むと、左には本丸へと続く「桜門」が見えるが、その向かいに「豊国(ほうこく)神社」。まず、豊国神社に参る。豊臣一族を祀る。
鳥居前には、御祭神でもある「豊臣秀吉像」が立つ。
1日の安全祈願をする。もちろん出世の神様である。もう出世を望む年ではないが、一応、出世祈願も。
神社の奥には秀吉に因んだ「秀石庭」。
裏から神社を抜け、六番櫓とともに現存する「一番櫓」。後ほど訪ねる「玉造口」を側面から防御する役目を持つ。寛文8(1668)年に改造されたそうだ。重要文化財に指定されている。
ここから修道館方向に戻るのだが、せっかくなので豊国神社と修道館の裏を通って、すでに失われている「二番」「三番」「四番」「五番」の櫓跡を訪ねながら歩いてみよう。この裏道は「武者走り」と呼ばれていたらしい。
「二番櫓跡」。
「三番櫓跡」から「四番櫓跡」を望む。
「四番櫓跡」。銃眼が並ぶ。
「五番櫓跡」から西を望む。正面は「大阪歴史博物館」。
「五番櫓跡」から続く石垣上から「六番櫓」を望む。
修道館前から内堀を渡る。内堀に囲まれた部分が「本丸」と呼ばれ天守閣がそびえる。内堀の南部分は、水のない「空堀」となっている。豊臣期そして徳川期の再建当初から空堀だったそうだ。
そして本丸の正門である「桜門」をくぐる。寛永3(1626)年の建造であるが明治維新の大火で焼失。明治20(1887)年の再建だが重要文化財に指定されている。両脇の巨石が美しい。
桜門をくぐると復元された「銀明水井戸」。
いよいよ本丸だが、ここも枡形になっている。かつてあった多聞櫓は、明治元(1868)年の大火で焼失した。そして、この突き当たりに城内最大の巨石「蛸石」がある。
備前(岡山県)産の花崗岩が使用され36畳敷の広さがあるという。推定重量130t。
石の左下に滲み出た鉄分のシミが、蛸の形をしていることが名前の由来だ。
本丸に入り、最初に目に入るのがこの建物。西洋の城郭を思わせる重厚な建造物だ。
「陸軍第四師団司令部跡」。色々なロケで使用されている。戦後、大阪府警本部庁舎として使用されたこともあるそうだが、最も長い歴史を持つのは「大阪市立博物館」。
正面玄関の上には、その名残が。
司令部跡前には「タイムカプセル」。昭和45(1970)年に開催された大阪万国博覧会を記念して、5000年後の人類に送るメッセージが地下15mに埋められている。
天守閣前の広いスペースには、かつて御殿が建っていたそうだが今はない。当時を偲んで造られた庭園越しに天守閣を望む。
また、ここには大きなお土産屋さん兼食堂が2軒あったが「特別史跡としてふさわしくない」との理由で撤去された。確かに伊勢神宮や法隆寺の境内にお土産屋さんがあれば興醒めだが、ここは観光地だからなぁ。修学旅行生や団体客で賑わい、唯一、京都や奈良のような雰囲気があったのだが……。
1軒は健在のようだ。
タイムカプセルのある植え込みを挟んで「大阪府東警察署大阪城内警ら連絡所」。周辺の景観に合わせて「海鼠壁」風に造られている。
その裏にある建物は「金蔵」。天保8(1837)年の改築。いわゆる屋外金庫で入口は三重に作られ、床も花崗岩が敷かれて地下からの侵入を防ぐなど頑丈に造られている。
さていよいよ天守閣に。天守閣の前には「残念石」。残念石とはせっかく各藩から普請されたにもかかわらず築城に使われなかった石のことだ。
大阪城天守閣。先にも述べたように寛文6(1666)年の落雷により焼失、それ以来再建されなかったが、昭和6年、市民の浄財により鉄筋コンクリート造の外見5層8階の堂々たる姿で再建された。入場料は600円だが、歴史博物館との共通入館券を購入したので合わせて900円。
入口手前には「金明水井戸屋形」。寛永3(1626)年の建造で秀吉が金の延べ棒を沈めたと伝わる。落雷・戦乱・空襲にも生き残り、重要文化財に指定されている。
その横には「号砲」。明治から大正にかけて空砲を撃ち正午を告げた。
内部に入るとまずエレベーターと階段で最上階の天守へ。高さ50mの展望台からの眺めは素晴らしい。「キタ」の高層ビル群を望む。
南方向。遠くには、3月7日、オープンした「あべのハルカス」が。
階段で下層階へと下りていく。各階展示スペースとなっている。各地に再建された天守閣は歴史資料館として利用されているが、これは大阪城が最初だとか。
見学を終え、天守閣の西に回る。真下から見る天守閣。とにかく「でかい」。
裏の石垣には大阪空襲の際、1t爆弾の直撃を受けた跡が。石垣は歪んでいるが天守閣は無事だった。
天守閣の北側は「山里丸跡」と呼ばれる。石段横の石垣には、米軍機から受けた機銃掃射の跡が残る。大阪城は陸軍の要塞であったことから多くの戦跡が残る。もちろん歴史的遺産として後世に伝えることは重要であるが、私の個人的な気持ちとしては、単なる「反戦」のシンボルとしては利用して欲しくない。
ここは「刻印石広場」。全国64大名から普請されたという石垣多数が展示されている。
それぞれ家紋が掘られている。
その奥には「秀頼・淀君自刃地」碑。
石段を下りる。
本丸から二の丸に続く「極楽橋」で内堀を渡る。ここの内堀は水を満々と湛える。
ここは本丸と北外堀に挟まれた「二の丸」。極楽橋から望む天守閣も絶好の撮影ポイントだ。
一旦、左に曲がるがこのまま真っ直ぐ進むと先ほど訪ねた「京橋口」に続くのでUターンする。内堀越しに望む天守閣。これは天守閣の裏側だが、天守閣は四方に偉容を誇っているので、堂々たる姿に変わりはない。
観光バス駐車場を過ぎると左に「青屋門」。改修工事中だったが、門はくぐれるようだ。しかし、門をくぐると大阪城ホールに抜けるので、そのまま内堀に沿って進む。
本丸と東外堀の間に位置する「二の丸」は梅林になっている。
「大阪城梅林」98種約1250本の梅が植えられ、2月中旬から3月中旬にかけてが見頃だ。訪問日は、そろそろ見頃が終わりの頃。
梅と天守閣。
また、梅林の西側は「雁木坂」という急な坂になっており、これまであまり感じなかったが、城内の高低差を実感できる。陸軍時代は「ダラダラ坂」と呼ばれたらしい。
坂の頂上から内堀を望む。この辺りの石垣が最も高く25mにも及ぶ。
そして頂上の脇に「蓮如上人袈裟懸の松」。「石山合戦」によって滅びた「大坂本願寺」を偲ぶ唯一のものが、この朽ちた松の根だと言われている。
真っ直ぐ進むと先ほど訪れた豊国神社に出るので左に曲がる。すぐに現れる石垣は「玉造口」。かつては櫓が組まれていたが戦災で焼失した。
南外堀の向こうから現存する「一番櫓」が睨みを効かす。
ここから左に長い階段があり、森林公園つまり砲兵工廠跡に続く。
左に水を湛えた堀が現れる。最後になったが「東外堀」に沿って歩く。
右の森林公園は「記念樹の森」と呼ばれ、市民により結婚や出産の記念樹が植えられている。
東外堀はかつて砲兵工廠の敷地として埋め立てられ、戦後はラグビー場やグランドとして使用されていたことから、石垣の真下まで歩いて行くことができた。
青屋門の渡り枡形で堀が突き当たるので、その手前で右へ曲がる。「砲兵工廠跡」碑。
大阪城ホールの前を抜けると本日のゴール「大阪城公園駅」へ続く通路。ここは先ほども通ったが、大阪城ホールで競技大会やコンサートが開催される際、多くの観客が通ることから広いエントランスになっている。
左の第二寝屋川沿いには観光船「アクアライナー」の船着場がある。
そして幅広い階段を登り、午後4時15分、本日のゴールJR大阪環状線「大阪城公園駅」に到着。
よく「大阪城は城じゃない。」などという声も聞かれるが、大都市にあったが故、多くの戦乱や先の大戦による大空襲を受け、まさに「満身創痍」の体で400年以上を過ごしてきた。
鉄筋コンクリートとはいえ市民の力により80年以上も前に天守閣を再建し、いくつか残る史跡が、これまで経験してきた「激動」と「繁栄」の日々を今の人々に伝え、そして豊かな緑が安らぎを与えている。「素晴らしいお城」だと思いませんか。本日の歩紀「24372歩」(20.95km)。
出 発:地下鉄「谷町四丁目駅」
到 着:JR大阪環状線「大阪城公園駅」
大阪の観光地と言えば何と言っても「大阪城」だろう。1583年、太閤秀吉により築城されたというが、その後、幾度にもわたって戦乱、天災、戦災に見舞われ、歴史的価値や美しさにあっては「姫路城」や「松本城」など諸城に遅れをとるかも知れない。しかし、都会のど真ん中にあるという立地条件と江戸城(皇居)と異なり、大部分が公園として開放されている広大さは、どこの城にも負けないだろう。1日かけて隣接する「大阪歴史博物館」「難波宮史跡公園」と合わせて「大阪城」を歩く。
地下鉄「谷町四丁目駅」。谷町線と中央線が交わる。付近は、大阪の「行政の中心地」であり、府庁、警察本部などのほか中央官庁の出先機関などが並ぶ。午前9時50分、2番出口をスタート。
市立東中学校、家庭裁判所、NHK大阪放送局を過ぎ、5分ほどで「大阪歴史博物館」前に着く。かつて大阪城本丸内にあった大阪市立博物館が移転、平成13年、馬場町交差の南東角にあった「NHK大阪放送局」とともに新たにオープンした。7階から10階が常設展示場。開館時間は午前9時30分から午後5時まで、入館料は大人600円だが大阪城天守閣との共通入館券(900円)を購入する。火曜日休館。
エレベーターで10階まで上がる。10階は「古代」フロアーで難波宮に関する資料や埋蔵発掘物などが展示されている。
また、「後期難波宮大極殿」の一部が実物大で復元されており、当時の宮廷儀礼が再現されている。
スクリーンに映し出された「大化の改新」の映像の後、ブラインドが上がりガラス窓越しに地上57mからの難波宮跡が望めるよう趣向が凝らされている。
エスカレーターで9階へ。ここは「中世近世」のフロアーで「石山本願寺」の寺内町として栄えた時代から「天下の台所」と謳われた大坂の町などが紹介されている。
大坂の町家も模型で再現されている。
8階は「歴史を掘る」というフロアーになっており、模擬遺跡発掘や発掘土器の復元体験などができる。
7階は「近代現代」のフロアー。「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた大正から昭和初期にかけた活気溢れ、また、モダンな大阪の街が再現されている。
6階以下は特別展示場や会議室になっているので、1階までエスカレーターで下りる。そして1階フロアーの床下に発掘されたままの状態で眠る「難波長柄豊碕宮」の遺構などがガラス越しに見学できる。
隣接するNHKでは、放映中の連続ドラマ「ごちそうさん」のコーナーが設けられていた。
また、博物館周辺は古墳時代(5世紀頃)の高床式倉庫16棟の遺構が発見された「法円坂遺跡」であり、博物館南側には当時の姿で倉庫1棟が復元されている。
四角く色分けされているところが倉庫が並んでいた場所。柱跡にコンクリート柱が並ぶ。
次ぎに向かうのは中央大通りと上町筋を挟んで広がる「難波宮史跡公園」。難波宮は「日本書紀」に書かれていながら長らくその場所はわからなかったが、昭和28年、宮殿の鴟尾が発掘されて以来全容が明らかになり、ここが645年、孝徳天皇の難波遷都により造営された「難波長柄豊碕宮」と考えられる「前期難波宮」と聖武天皇が平城京の副都として造営したといわれる「後期難波宮」とが重なる複合遺跡であることが判明した。
公園北端に復元されているのは「後期難波宮大極殿跡」。
ここで華やかな宮廷儀式が行われたのだと思うと何か感慨深いものが。
大極殿跡の西側にある鉄製の藤棚のような建物は「前期難波宮八角殿跡」。
植え込みや植樹なども発掘された回廊などの遺跡に沿って植えられている。
その後「朱雀門跡」なども発見され約9万㎡が国の史跡に指定されているが、大部分は広大な芝生であり建造物や展示物はないので、これより難波宮史跡公園を後にして「大阪城公園」へと向かう。
「大阪城」。本願寺第8世、蓮如上人(1415~1499)がこの地に「大坂石山御坊」(後の石山本願寺)を建立したが、その後、天正8(1580)、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い、いわゆる「一向一揆」「石山合戦」などと呼ばれる戦乱により焼失した(大坂本願寺御影堂の模型)。
そして、織田信長から天下覇権を引き継いだ豊臣秀吉が天正11(1583)年、その跡地に「大坂城」を築城。そのため「太閤さんのお城」とも呼ばれている。しかし、慶長20(1615)年、「大坂夏の陣」で落城。大坂は江戸幕府直轄地(天領)となり、寛永6(1629)年、二代目将軍徳川秀忠により二代目「大坂城」が完成、そのため現在の大阪城の遺構は秀吉ではなく徳川家により再建されたものである。その二代目天守閣も寛文6(1666)年の落雷により焼失、それ以来、天守は再建されなかった。
その後、幕末の慶應4(1868)年、京・二条城を追われ大坂城に居城した最後の将軍、徳川慶喜が「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ江戸に逃れたことから、大坂城は新政府軍に明け渡された。この戦乱により多くの建造物が失われている。
そして明治に入り大坂は「大阪」と改められた。その頃から城郭東部に近代陸軍の兵器工場である「大阪砲兵工廠」が建設され、城内も要塞化された。
しかし、昭和に入り当時の大阪市長、関一(せき はじめ)が天守再建と大阪城公園整備事業を提唱、昭和6年、市民らの寄付により三代目天守閣が完成し、大阪城公園が開園された。
そして、第二次世界大戦末期、軍事施設であったことから、砲兵工廠とともに集中的に爆撃を受け、天守閣は損壊を免れたものの多くの建造物が焼失してしまった。しかし、戦後、占領軍の接収を経て、内濠と外濠に囲まれた約73万㎡が特別史跡公園として、その東部に広がる砲兵工廠跡が森林公園として合わせて約107万㎡が「大阪城公園」として整備され現在に至る。
大阪城へのアプローチは地下鉄「谷町四丁目駅」を起点とする「大手門」。JR及び地下鉄「森ノ宮駅」から森林公園を経て「玉造口」。JR「大阪城公園駅」から大阪城ホールを経て「青屋門」から入る3つのコースが一般的である。今日は、最初に「大阪歴史博物館」「難波宮史跡公園」を訪れたので、すぐ近くの「大手門」から入城する。しかし、時間は午前11時40分、大手門近くにある「レストハウス」でまず昼食を。
谷町筋まで出れば多くの飲食店があるが、大阪城公園内では、以前、天守閣前に団体観光客向けの食堂兼お土産屋さんが2軒あった。しかし、「特別史跡として景観上ふさわしくない」という理由で閉鎖され、現在では、このレストハウスが唯一の飲食施設だ。軽食であればいくつか売店がある。「玉子丼」(580円)を注文。
食事を終えいよいよ城内へ。しかし、大手門へは向かわず、まず外堀をぐるりと一周しよう。外堀は四隅にある「大手門」「玉造口」「青屋門」「京橋口」でそれぞれ「南外堀」「東外堀」「北外堀」「西外堀」に4分されている。大手門から玉造口までを「南外堀」という。最初に「南外堀」に沿って歩く。
堀の西端には「生國魂神社御旅所跡」が立つ。かつてこの辺りまで生國魂神社の社域であったらしい。
堀の向こうには「七番櫓」跡。ここから大手門へ向かう敵兵に目を光らせていた。
堀の西端に立って東方向を望む。南外堀の石垣はギザギザ状に刻まれており、角には一番から七番まで7つの櫓が建てられていた。これにより石垣を上る敵兵は、正面と側面から攻撃を受けることになる。現存するのは、六番櫓と一番櫓のみ。見えているのは「六番櫓」。7つの櫓が並ぶ姿は壮観だっただろう。
東へ少し進むと右側に「教育塔」という大きな塔が見える。これは何らかの教育発祥の地というのではなく、昭和9(1934)年の室戸台風で亡くなった教職員や児童の慰霊塔である。
教育塔を少し過ぎたところから南外堀越しに石垣を望むと、ちょうど六番櫓の左にぽっかりと穴が見える。真田幸村が城外への抜け穴として掘ったという「真田の抜け穴」などと呼ばれているが、実際は明治に入って陸軍が掘ったと言われる。しかし、内部は崩壊しており用途は不明だ。
拡大してみると1つの石が抜け落ちているのではなく、下2つの石が加工されていることから、人工的に造られたものには間違いないだろう。
ここは、池を配した公園と芝生広場だった。
最近、芝生広場が駐車場に変わったようだ。
東西に長いこの地域は、陸軍時代、射撃場であったらしい。駐車場前に碑が建つ。
堀が石垣に突き当たると玉造口だ。「一番櫓」の頭がのぞく。しかし、このまま真っ直ぐ先へ進もう。
一段低くなったところは、大阪砲兵工廠跡である。今は植樹され、緑豊かな森林公園となっている。
市立大阪城音楽堂と大阪市音楽団の間を抜ける。
「大噴水」の前に出る。ここは「森ノ宮駅」からの入口である。
噴水の北に広がるのは「市民の森」。
木々の間を抜けていく。
「イチョウ並木」。秋になれば「黄金色」に輝く。
突如現れる広大なグランド。「太陽の広場」と呼ばれ、ナイター設備を備える。ここでは、いろいろな催し物が開催されるが、中でも有名なのは毎年5月に行われる「メーデー」だ。
「太陽の広場」を過ぎると右に本日のゴールである「大阪城公園駅」が見えるので、逆方向(左)に曲がる。正面には「大阪城ホール」。
大阪城ホールは、大阪築城400年を記念して昭和58(1983)年に建設された。周囲の景観を損なわないよう半地下式となっている。16000人収容のスタンドがあり、室内陸上競技や平成15年には「第23回世界柔道選手権大会」が開催された。
大阪城ホール前の「大阪城新橋」で第二寝屋川を渡る。砲兵工廠跡の第二寝屋川と寝屋川に挟まれた三角地帯は、大阪大空襲の後、長らく廃墟として野ざらしになっていたが、昭和50年代に入り高層ビルやホテルが並ぶ「大阪ビジネスパーク(OBP)」として生まれ変わった。
城の北を流れる淀川及び支流(現在の寝屋川・第二寝屋川)は天然の要害として、また、水運・堀への取水に利用された。そして川に向かって砲兵工廠時代に船舶で資材などを搬出入した「大阪砲兵工廠荷揚門」が残されている。「残されている」というより、取り壊す必要がないので「残っている」という感じだ。
「新鴫野橋」で再度、第二寝屋川を渡る。右には「大阪城桃園」。
まだ、ちょっと早いが、桃の花が咲いていた。
「北外堀」に沿って歩く。
「北外堀」越しに望むと立派な台座のような石垣が見える。かつてここには伏見城から移築したという「伏見櫓」という櫓が存在した。そして現存した他の櫓がすべて二層であったが、伏見櫓のみが三層で小さなお城の天守閣ほどの偉容を誇ったという。しかし、幾多の戦乱で生き残った櫓も第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったそうだ。
「北外堀」に沿って進むと、途中、左に大きな石が。実は、これは「石」ではなく「金属」だ。かつて、ここにあった大阪砲兵工廠で兵器の製造過程もしくは研究過程で排出されたものだと言われている。
確かに石ではなく「金属」だ。錆が浮いている。
さらに進むと右に赤煉瓦のレトロな建造物が現れる。「大阪砲兵工廠化学分析所跡」。
大正8(1919)年建築で、先ほどの「荷揚門」とともに現存する砲兵工廠遺構の1つだ。長らく自衛隊の地方連絡部(募集事務所)として使用されていたが、今は空き家である。
その向かいにはフェンスに囲まれているが赤煉瓦の建造物が立つ。これも砲兵工廠の遺構。場所的に「警衛所」のように思われるが、昔の地図によると「便所」だったらしい。
ここから城外に出る。ここは「筋鉄門」と呼ばれていたらしい。かつて砲兵工廠の正門として使用されていたことから赤煉瓦の塀が残る。
大阪歴史博物館のビデオで放映されていた砲兵工廠正門の古い写真に写っている姿は、「警衛所」や「便所」にしては立派な建物に見えるのだが……。内部はともかく、歴史遺産として外観だけでも整備・公開してほしい。後ろには、当時現存していた三層の「伏見櫓」。
石柱に残る「砲兵工廠」の文字。
外周道路を左折するとすぐに「京橋口」が現れる。ここも大阪城内への進入口であるが、裏口にあたるのであまり一般的ではない。
敵の侵入を防ぐため枡形となっている。大阪城は「巨石」で有名だが、正面には城内第2位の巨石「肥後石」がそびえる。また、ここにも多聞櫓があったそうだが、空襲により焼失した。
このまま進むと城内に入ってしまうので外周道路まで戻る。ここから大手門までは「西外堀」と呼ばれる堀に沿って歩く。追手門学院から大手前交差までの約250mは、公園外であり一般道が堀沿いを走る。
大手前交差に交わるところで再度、公園内に戻る。京橋口越しに「OBP」の高層ビル群を望む。
そして堀の向こうには「乾櫓」。元和6(1620)年建造の重要文化財。二層であるが現存する櫓の中で唯一、一層目と二層目が同じ面積の「総二階造り」という構造になっている。
「西外堀」に沿って公園内を歩く。
右には「大阪府庁本館」。昭和元(1926)年建築の重厚な建物である。
しばらく進むと城の正面玄関である「大手門」前の広場に出る。これで大阪城公園の外周を一周したことになる。
右から「大手門」「多聞櫓」「千貫(せんがん)櫓」の順に望む。「大手門」から侵入しようとする敵兵は「千貫櫓」と大手門の右にあった「七番櫓」から矢・銃弾を浴びることになる。
「大手門」。元和6(1620)年建造、落雷で破損したが、嘉永元(1848)年に補修され、重要文化財に指定されている。防衛上、死角を少なくするため屋根の薄い「高麗門」という様式で築かれている。
門をくぐれば、ここも枡形になっており「多聞櫓」が建つ。多聞櫓とは城入口石垣の上に建つ防御施設で、大手門を突破した敵兵はここで多聞櫓からの攻撃にさらされる。大手門枡形のこの多聞櫓が最大で、寛永5(1628)年築。落雷のため嘉永元(1848)年、大手門とともに再建、重要文化財に指定されている。
多聞櫓から続櫓と呼ばれる櫓が続き、その下には城内第4・5・8位の巨石が3つ並ぶ。
壁には弓矢や銃を放つ「狭間」が並ぶ。狭間は、全国の城に見られる防御用設備だ。
「狭間」越しに大阪府警察本部を望む。
そして大阪城の狭間の特徴は、石垣上部を斜めに削り、伏せた姿勢で銃を撃てるよう細工されていることだ。
石垣と壁の境目に小さく開く放出口は、銃撃戦を想定した現在で言う「銃眼」だ。「鉄砲狭間」とも呼ばれる。どこから飛んでくるかわからない銃弾に敵兵たちは恐れおののいただろう。
多聞櫓をくぐった所で進路は、右に直角に曲がる。多聞櫓を突破した兵は、大きく進路変更を余儀なくされる。
多聞櫓をくぐると左に「千貫櫓」が建つ。かつて織田信長が、あまりにも強固な櫓であったため「千貫文の金を払ってでも落としたい」と語ったのが名の由来とか。元和6(1620)年建造の重要文化財である。
城の造りで「本丸」を囲んだ部分を「二の丸」と呼ぶ。大阪城は外堀が4つに区分されていることから二の丸も4つに分けられる。多聞櫓をくぐって少し進んだところに「冠木門」。二の丸のうち本丸と西外堀に挟まれた「西の丸」と呼ばれる部分へ続く。西の丸は「西の丸庭園」として整備され、この部分は有料(大人200円)だ。
徳川期「大坂城代屋敷」が建っていたところで、豊臣期には「ねね(北政所)」もここで暮らしたといわれる。今は広い芝生の公園になっている。
約600本の桜が植えられ、花の季節には多くの人で賑わい観桜ナイターも開かれる(ナイター期間中は350円)。
突き当たりには「高麗門」。現在は、閉ざされているが、京橋口へと抜けることができる。
高麗門の横には「焔硝蔵」。貞享2(1658)年に建造された石造りの「火薬保管庫」だ。何か「精悍」な面構えだな。
その向かいには「大阪迎賓館」。これは平成7(1995)年に開催された「大阪APEC(主要国首脳会議)」の際に京都・二条城の白書院を模して建てられたもので、各国首脳たちがこの前で写真に収まった。今は休憩所として使用されている。
西の丸庭園北西角。この奥には西外堀越しに望んだ「乾櫓」が建つ。こちらから見ると「L字」形に造られていることがわかる。
そして庭園南西角に行くと、先ほど大手門前から望んだ「千貫櫓」の裏に出る。
冠木門から西の丸庭園を後にする。正面には赤煉瓦の塀と門柱が見える。「大阪城公園城内詰所」という表札が掲げられている。かつての「陸軍大阪兵器支廠本部門跡」とも「陸軍大阪衛戌監獄(陸軍刑務所)門跡」とも言われる。やはり軍施設であったため、詳しい資料が残っていないのだろうか。
そして「太鼓櫓跡」と呼ばれる石垣の間を抜け、本丸と南外堀に挟まれた二の丸部分へと進む。かつてここには太鼓櫓という櫓があり、時報や合図のため太鼓を打ち鳴らしたそうだが明治元(1868)年の大火で焼失した。
そしてさらに進むと「石山本願寺推定地」碑。大阪城の前身である石山本願寺は大阪夏の陣の戦乱や城の再建工事などのため正確な伽藍は確認されていないそうだ。向こうの建物は「修道館」。柔道場と剣道場を備えた武道館である。
修道館内部。観覧スペースがないため大会は開催されず、学生の稽古や柔剣道教室、昇段審査などに使用されている。
修道館の奥には、最初、南外堀越しに望んだ「六番櫓」。寛永5(1628)年建造の重要文化財。
修道館前に戻りさらに東へ進むと、左には本丸へと続く「桜門」が見えるが、その向かいに「豊国(ほうこく)神社」。まず、豊国神社に参る。豊臣一族を祀る。
鳥居前には、御祭神でもある「豊臣秀吉像」が立つ。
1日の安全祈願をする。もちろん出世の神様である。もう出世を望む年ではないが、一応、出世祈願も。
神社の奥には秀吉に因んだ「秀石庭」。
裏から神社を抜け、六番櫓とともに現存する「一番櫓」。後ほど訪ねる「玉造口」を側面から防御する役目を持つ。寛文8(1668)年に改造されたそうだ。重要文化財に指定されている。
ここから修道館方向に戻るのだが、せっかくなので豊国神社と修道館の裏を通って、すでに失われている「二番」「三番」「四番」「五番」の櫓跡を訪ねながら歩いてみよう。この裏道は「武者走り」と呼ばれていたらしい。
「二番櫓跡」。
「三番櫓跡」から「四番櫓跡」を望む。
「四番櫓跡」。銃眼が並ぶ。
「五番櫓跡」から西を望む。正面は「大阪歴史博物館」。
「五番櫓跡」から続く石垣上から「六番櫓」を望む。
修道館前から内堀を渡る。内堀に囲まれた部分が「本丸」と呼ばれ天守閣がそびえる。内堀の南部分は、水のない「空堀」となっている。豊臣期そして徳川期の再建当初から空堀だったそうだ。
そして本丸の正門である「桜門」をくぐる。寛永3(1626)年の建造であるが明治維新の大火で焼失。明治20(1887)年の再建だが重要文化財に指定されている。両脇の巨石が美しい。
桜門をくぐると復元された「銀明水井戸」。
いよいよ本丸だが、ここも枡形になっている。かつてあった多聞櫓は、明治元(1868)年の大火で焼失した。そして、この突き当たりに城内最大の巨石「蛸石」がある。
備前(岡山県)産の花崗岩が使用され36畳敷の広さがあるという。推定重量130t。
石の左下に滲み出た鉄分のシミが、蛸の形をしていることが名前の由来だ。
本丸に入り、最初に目に入るのがこの建物。西洋の城郭を思わせる重厚な建造物だ。
「陸軍第四師団司令部跡」。色々なロケで使用されている。戦後、大阪府警本部庁舎として使用されたこともあるそうだが、最も長い歴史を持つのは「大阪市立博物館」。
正面玄関の上には、その名残が。
司令部跡前には「タイムカプセル」。昭和45(1970)年に開催された大阪万国博覧会を記念して、5000年後の人類に送るメッセージが地下15mに埋められている。
天守閣前の広いスペースには、かつて御殿が建っていたそうだが今はない。当時を偲んで造られた庭園越しに天守閣を望む。
また、ここには大きなお土産屋さん兼食堂が2軒あったが「特別史跡としてふさわしくない」との理由で撤去された。確かに伊勢神宮や法隆寺の境内にお土産屋さんがあれば興醒めだが、ここは観光地だからなぁ。修学旅行生や団体客で賑わい、唯一、京都や奈良のような雰囲気があったのだが……。
1軒は健在のようだ。
タイムカプセルのある植え込みを挟んで「大阪府東警察署大阪城内警ら連絡所」。周辺の景観に合わせて「海鼠壁」風に造られている。
その裏にある建物は「金蔵」。天保8(1837)年の改築。いわゆる屋外金庫で入口は三重に作られ、床も花崗岩が敷かれて地下からの侵入を防ぐなど頑丈に造られている。
さていよいよ天守閣に。天守閣の前には「残念石」。残念石とはせっかく各藩から普請されたにもかかわらず築城に使われなかった石のことだ。
大阪城天守閣。先にも述べたように寛文6(1666)年の落雷により焼失、それ以来再建されなかったが、昭和6年、市民の浄財により鉄筋コンクリート造の外見5層8階の堂々たる姿で再建された。入場料は600円だが、歴史博物館との共通入館券を購入したので合わせて900円。
入口手前には「金明水井戸屋形」。寛永3(1626)年の建造で秀吉が金の延べ棒を沈めたと伝わる。落雷・戦乱・空襲にも生き残り、重要文化財に指定されている。
その横には「号砲」。明治から大正にかけて空砲を撃ち正午を告げた。
内部に入るとまずエレベーターと階段で最上階の天守へ。高さ50mの展望台からの眺めは素晴らしい。「キタ」の高層ビル群を望む。
南方向。遠くには、3月7日、オープンした「あべのハルカス」が。
階段で下層階へと下りていく。各階展示スペースとなっている。各地に再建された天守閣は歴史資料館として利用されているが、これは大阪城が最初だとか。
見学を終え、天守閣の西に回る。真下から見る天守閣。とにかく「でかい」。
裏の石垣には大阪空襲の際、1t爆弾の直撃を受けた跡が。石垣は歪んでいるが天守閣は無事だった。
天守閣の北側は「山里丸跡」と呼ばれる。石段横の石垣には、米軍機から受けた機銃掃射の跡が残る。大阪城は陸軍の要塞であったことから多くの戦跡が残る。もちろん歴史的遺産として後世に伝えることは重要であるが、私の個人的な気持ちとしては、単なる「反戦」のシンボルとしては利用して欲しくない。
ここは「刻印石広場」。全国64大名から普請されたという石垣多数が展示されている。
それぞれ家紋が掘られている。
その奥には「秀頼・淀君自刃地」碑。
石段を下りる。
本丸から二の丸に続く「極楽橋」で内堀を渡る。ここの内堀は水を満々と湛える。
ここは本丸と北外堀に挟まれた「二の丸」。極楽橋から望む天守閣も絶好の撮影ポイントだ。
一旦、左に曲がるがこのまま真っ直ぐ進むと先ほど訪ねた「京橋口」に続くのでUターンする。内堀越しに望む天守閣。これは天守閣の裏側だが、天守閣は四方に偉容を誇っているので、堂々たる姿に変わりはない。
観光バス駐車場を過ぎると左に「青屋門」。改修工事中だったが、門はくぐれるようだ。しかし、門をくぐると大阪城ホールに抜けるので、そのまま内堀に沿って進む。
本丸と東外堀の間に位置する「二の丸」は梅林になっている。
「大阪城梅林」98種約1250本の梅が植えられ、2月中旬から3月中旬にかけてが見頃だ。訪問日は、そろそろ見頃が終わりの頃。
梅と天守閣。
また、梅林の西側は「雁木坂」という急な坂になっており、これまであまり感じなかったが、城内の高低差を実感できる。陸軍時代は「ダラダラ坂」と呼ばれたらしい。
坂の頂上から内堀を望む。この辺りの石垣が最も高く25mにも及ぶ。
そして頂上の脇に「蓮如上人袈裟懸の松」。「石山合戦」によって滅びた「大坂本願寺」を偲ぶ唯一のものが、この朽ちた松の根だと言われている。
真っ直ぐ進むと先ほど訪れた豊国神社に出るので左に曲がる。すぐに現れる石垣は「玉造口」。かつては櫓が組まれていたが戦災で焼失した。
南外堀の向こうから現存する「一番櫓」が睨みを効かす。
ここから左に長い階段があり、森林公園つまり砲兵工廠跡に続く。
左に水を湛えた堀が現れる。最後になったが「東外堀」に沿って歩く。
右の森林公園は「記念樹の森」と呼ばれ、市民により結婚や出産の記念樹が植えられている。
東外堀はかつて砲兵工廠の敷地として埋め立てられ、戦後はラグビー場やグランドとして使用されていたことから、石垣の真下まで歩いて行くことができた。
青屋門の渡り枡形で堀が突き当たるので、その手前で右へ曲がる。「砲兵工廠跡」碑。
大阪城ホールの前を抜けると本日のゴール「大阪城公園駅」へ続く通路。ここは先ほども通ったが、大阪城ホールで競技大会やコンサートが開催される際、多くの観客が通ることから広いエントランスになっている。
左の第二寝屋川沿いには観光船「アクアライナー」の船着場がある。
そして幅広い階段を登り、午後4時15分、本日のゴールJR大阪環状線「大阪城公園駅」に到着。
よく「大阪城は城じゃない。」などという声も聞かれるが、大都市にあったが故、多くの戦乱や先の大戦による大空襲を受け、まさに「満身創痍」の体で400年以上を過ごしてきた。
鉄筋コンクリートとはいえ市民の力により80年以上も前に天守閣を再建し、いくつか残る史跡が、これまで経験してきた「激動」と「繁栄」の日々を今の人々に伝え、そして豊かな緑が安らぎを与えている。「素晴らしいお城」だと思いませんか。本日の歩紀「24372歩」(20.95km)。
大阪歴史博物館、難波宮跡と大阪城をご踏破のうえ、見るべきところを沢山アップされているので感服いたしました。
画像60枚目の砲兵工廠正門の古い写真に写っている赤煉瓦造瓦葺平屋は、「「警衛所」や「便所」にしては立派な建物に見えるのだが……。」とのご記述を拝見しました。
正に同感であります。明治20年2月16日、明治天皇が砲兵工廠へ行幸の際に献上されたと思われる当局作成の「大阪砲兵工廠全圖_明治20年調」にも、この平屋は無名で記入してあります。
独断ながら、この平屋はその時までに建てられていた来訪者休養所(ゲストハウス)だったのではないかと推察いたします。
まもなく崩壊しそうで残念ですが、この平屋は昭和25年4月1日から東郵便局杉山分室となっていましたので、戦前の内装は残っていないと存じます。
初めまして。コメントありがとうございます。
やはり、軍事施設なので詳しいことは公表されていないのかも知れませんね。
後年、郵便局として利用されていたんですか。何とか、保存して欲しいですね。