土川 平兵衛(つちかわ へいべえ、享和元年(1801年) - 天保14年4月25日(1843年5月24日))は、近江国の義民(近江天保一揆の指導者の一人)。近江国野洲郡三上村(現野洲市)出身。
ヒストリー
近江国野洲郡三上村(現野洲市)の庄屋。
里正に挙げられ、守山駅助郷の勤番となった。
中江藤樹(陽明学)に私淑したが(京都の私塾)、助郷の賦役が公平を欠き、民の困却するのに慷慨し、
文政11年(1828年)5月これを奉行に哀訴し、その弊を改めた。天保13年(1842年)公命によって検地が行われるに際して幕吏の処置が極めて不当だったので、平兵衛は黄瀬文吉及び田島治兵衛と謀って3郡の庄屋を糾合し、再検地を嘆願しようとしたが、集まった農民は4万人に達し、遂に幕吏の旅舎を襲うに至り10万日の日延べの証文を得た。
後に罪を得て捕らわれる者が数千人に上り、過酷な拷問を受けて死亡する者40名余りに相次いだ。平兵衛ら主要な11人は江戸に送られ、そのうち3人は江戸に到着する前に死亡した。
平兵衛は江戸に送られてから一月余り後に裁きを待たず獄死し小塚原に梟首された。
土川平兵衛(1801年~1843年)
江戸時代後期の野洲郡三上村の庄屋、野洲・甲賀・栗太3郡の村人による近江国天保一揆(三上騒動)の第一指導者(発頭人)
1842年(天保13年)、各地で村人が飢饉にあえぐ中、幕府財政の再興をめざす老中水野忠邦の命を受けた勘定方は、近江国の新開場見分に着手しました。見分による年貢負担の増大は、3郡の村人にとってまさに死活問題でした。さらに、新開場見分とは名ばかりで、5尺8寸の間竿をして6尺1分と偽るなど、不正な手段による古田(本田)再検地を謀るものであったことから、村人は見分中止を求めて強訴しました。この一揆にあたって平兵衛は、発頭人として3郡の庄屋の意見を調整するとともに、収賄をはじめ不正にまみれる見分役市野茂三郎たちから、野洲川筋見分を十万日日延べとする証文を得るに至りました。しかし、数万人に上る一揆勢が解散するや、平兵衛をはじめ一揆の指導者は悉く捕縛され、幕府による厳しい取り調べを受けました。平兵衛は、一揆の翌年4月、檻送先の江戸小伝馬町で獄死しました。
正義を貫き、尊い命を賭して一揆を成し遂げた天保義民、中でも第一指導者の土川平兵衛の生き方は郷土の誇りです。
義民伝承地の概要
天保13年(1842年)、飢饉に陥った甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓4万人が徴税強化を目指す幕府の検地に反対して一斉蜂起した「近江天保一揆」では、検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取ったものの、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人が江戸送りとなり、過酷な拷問で命を落とした。
明治時代になって、これらの義民を顕彰するため、今の湖南市三雲の地に「天保義民之碑」が建てられた。