”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

2011年3月11日14時46分頃発生の「東日本大震災」 そのとき・・・・

2021-11-02 06:00:00 | わたしの仕事人生
 2011年3月11日14時46分頃発生の「東日本大震災」のそのとき、私は東京都品川区大崎のオフィスビルの中層階にいた。
免震構造の新しいこのビルは発生と同時に不気味なギシギシという音と共にゆっくりと揺れ出し、その揺れは20分以上は続いていたと思う。
 地震の揺れはとっくに治まっているのにビルは大きく揺れているのである。私自身も免震構造ビルでの揺れは初めてで船酔いのように少し気分が悪くなったほどだった。

 職場には親しくしていたオーストラリア人がいたが平素はやや赤ら顔で大柄な体格の持ち主だったが、その時は顔の形相は血の気が引き、冷や汗をかいていた。明らかに恐怖とその対処に戸惑っていた。彼は地震の経験はなく、初めての地震が東日本大震災の大地震だったのだ。
また、窓を見ると浦安方面から火災が発生し黒い煙が出ているのが見えた。彼は不安を感じ階段で地上に避難しようとした。私はこのビルと周囲の状況からみて大丈夫で慌てることはないと伝えた。
 幸にも電気は止まらずエアコンも平常通りだった。勿論、エレベーターは止まっていた。フロアにいた日本人は慌てず、平常心そのものだった。
TVでは東北の深刻な模様を伝え始めていた。

 私はオーストラリア人に付き添って階段で地上に降りたが途中、階段からビルの壁に亀裂が入っているのを見つけた。ビルがみしみしと揺れたので壁にひびが入ってもおかしくないはずだ。
 外に出るとビルから外に出た人がいたが慌てる人はいなかった。外はひんやりと寒かった。
 
 地震発生と同時に電話は輻輳が始まっていた。ドコモなどの携帯も規制が始まりつながらない。彼はオーストラリアから持って来ている携帯でオーストラリアにコールしたが問題なく繋がって家族や会社に無事を報告していた。私は千葉の家族に連絡したが全然繋がらなかった。30分程してオーストラリア人が落ち着いたころを見計らって会社のビルに階段を使って戻った。

 都内は電車は完全に止まり、都内の道路も輻輳し始めていた。
深刻な状態であると分かり私は今夜は帰れないと決め、近くのコンビニに食料品を買いに行った。既に買い占めが始まっていたがかろうじて食料が買えた。少し後から行った連中はもう空っぽで買えなかったそうだ。

 私は家族と連絡が取れなかったがTV報道からみて無事を信じていた。
会社は早退を許可し、帰り始める人も出てきた。タクシーで帰ろうとした人は途中都内及び周辺の交通大渋滞に巻き込まれ、一切動けず途中で諦めた人もいた。また、徒歩で千葉、埼玉、神奈川方面に歩いて帰った人もいた。途中で徒歩に適したスニーカーや運よく自転車を買って帰った人もいた。
 私は電車が完全にストップになり、交通大渋滞も発生していることから帰るのを諦めた。幸い会社のビルはエアコンと照明は平常通りであり、会社に滞留できるところがあるので無理して帰る必要がなかったからだ。
 もし、外に出ていたなら自宅に向かうか、会社に戻るか、駅やその他の施設に一時滞留などの選択が必要になったかもしれない。この日は終日会社のビルにいたので助かった。多くの人が駅などで滞留している風景や夜間長時間歩いている様を放映していた。こういう時はジタバタせず様子を把握して動くことを学んだ。

 その後夜に家族と連絡が取れ、無事を確認できた。
結局、帰れたのは地震発生から約1日後の3月12日(土)午後、やっと山手線が動き、大崎から船橋の自宅に帰れた。
自宅近所のガス管からガス漏れがあり少し臭かったが大きなダメージは幸にも受けていなかった。
 しかし、地震直後から東京電力の電力不足が発生し、関東地域で計画停電が何回も行われ生活に少し影響が出た。
また、生活用品、食料品などの買い占めが始まっていて店頭からなくなった。一部の品は関西の親戚から送って貰ったこともあった。

 会社では地震発生と同時に対策を講じていたが福島の原発が爆発し、放射線量の増加及び原発の再爆発が一気に危惧され緊迫した。
アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどの大使館は在京の在住国民に東京から遠隔地への避難や帰国を命じていた。
 フランス人の社長は自ら広島に退避し、社員のために福岡に一時避難用住居を何十個か確保した。あの時、社長に呼応して福岡に避難した社員家族が何組かいたがその他の日本人社員は東京から退避しない選択をした。
 私も当時の状況と日本の顧客がいるので退避はせず、幼児の孫だけは万が一のため私的に大阪に避難させたのだった。
 
 地震当日一緒にいたオーストラリア人は数日後には帰国していて、オーストラリアから帰国したと事後連絡を受けた。
発生から1〜10日くらいで会社はほぼ平常に戻ったが彼は二度と日本には戻って来なかった。地震の驚きと原発爆発、放射線放出の恐怖を味わったからであろう。親日家だった彼に最悪のインプレッションを与えてしまったのは残念だった。

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