”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【東近江・寺社総巡り】第99回・神明神社(東近江市池田町)

2019-09-30 06:00:00 | 東近江・寺社総巡り

   9月14日(土)午前、池田町の「神明神社」を訪れた。広い神明の森の中にあり、鳥居から本殿まで100m位もある。また境内には椎茸の栽培も行われていた。

 ********************************

神明神社
所在地 東近江市池田町1002(旧八日市市)

■祭神
天照皇大神 豊受大神
■由緒
宝暦の堂社帳には池田村の氏神とある。この村の開発当時伊勢両宮を勧請したとも、又、室町末期に池田大和守が勧請したとも伝えられている。社伝に中古迄、池田備前守が営繕料として玄米百俵を年々納められたとある。明治九年村社に列す。
■本殿・境内建物
〔本殿〕一間社流造 間口四尺 奥行三尺三寸 覆屋あり
〔拝殿〕入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
■その他
境内社(摂社・末社)
熊野神社

付近の神社
富士神社 徒歩 12分(947m)
日吉神社徒歩 15分(1.1km)
豊満神社 徒歩 17分(1.3km)
白鳥神社 徒歩 18分(1.4km)
天神神社 徒歩 20分(1.6km)
白鳥神社 徒歩 20分(1.6km)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福助人形」米原「亀屋佐京商店」の番頭説

2019-09-29 10:00:00 | 滋賀TODAY

大きな頭と福耳が特徴で、かみしも姿で正座する「福助人形」。
江戸時代に作られ始め、幸福を招くとされている。実は、福助はモデルとなる人物が実在したとされる。有力なのが、米原市の中山道柏原宿にあるもぐさ屋「亀屋佐京商店」の番頭という説

↑ 福助が施された八幡瓦も展示している=米原市柏原(中日新聞より)


柏原宿歴史館では、この地域の伝承を伝える「福助の間」を設置。福助人形を収集して展示している。常設展に加え、12月22日(日)まで企画展「福助さん大集合!」を開催。県内の収集家から寄託された132点の福助人形と、常設展示の人形を合わせて205点を並べている。

柏原宿歴史館
09:00~17:00(入館は16:30まで)。月曜休館(月曜が祝日の場合は、火曜休館)。入館料は大人300円、小中学生150円。
問い合わせ:柏原宿歴史館=0749(57)8020

もぐさ屋・亀屋佐京商店は、1661(寛文元)年創業。歌川広重が「木曽街道六十九次」に描き、司馬遼太郎は著書「街道をゆく」で「単一の商品をあつかう商家としては、あるいは日本最古の家であるかもしれない」と記している。

亀屋佐京」についてはこのブログでも紹介済みである。
【滋賀・近江の先人第40回】伊吹もぐさのPR名人・松浦七兵衛(亀屋左京)(米原市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/46dad9bb6bc3f0400aea14f9dddf3337

商店の番頭だった福助はかみしもを身に着けて扇子を持ち、旅人にもぐさを勧めて店を繁盛させたと伝わる。活躍したのは江戸後期で、福助人形が誕生した時期とも重なる。

モデルについては、他にも大きく二つの説がある。
一つが大阪の農民説。身長二尺(約60cm)ほどで、頭が大きかった農民の佐太郎が「見せ物」に出されて人気になり、佐太郎に模した人形が作られたというものだ。

京都の呉服屋の主人との説もある。身長が低く頭が大きかった呉服屋「大文字」の主人は働き者で店を繁盛させた一方、貧しい人への施しにも熱心だった。この主人にあやかって人形を作り祈ったことから、福助人形が誕生したと伝わる。

 <中日新聞より>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【東近江・寺社総巡り】第98回・念佛寺(東近江市池田町)

2019-09-29 06:00:00 | 東近江・寺社総巡り

   9月14日(土)午前、池田町の「念仏寺」を訪れた。立派な寺である。
********************

念佛寺
所在地 東近江市池田町523(旧八日市市)

■山号 来迎山
■宗派 浄土宗
■開基
■本尊 阿弥陀如来

付近の寺院
弥勒寺 徒歩 3分(188m)
善勝寺 徒歩 9分(667m)
福性寺 徒歩 16分(1.2km)
松雲寺 徒歩 20分(1.5km)
宝泉寺 徒歩 21分(1.6km)
光明寺 徒歩 22分(1.7km)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルーメの丘のコスモス畑が見ごろ(滋賀県日野町)

2019-09-28 09:00:00 | 滋賀TODAY

滋賀農業公園ブルーメの丘(滋賀県日野町西大路)のコスモス畑が見ごろを迎えている。

広い花畑に白色、濃淡のピンク色など、早咲きと遅咲き合わせて約100万本が栽培されており、秋の深まりと共に次々と開花している。色とりどりの美しい花畑の景観は11月頃まで楽しめる。同園では「ヨーロッパ風の建物とコスモスの調和をお楽しめる」とPRしている。

問い合わせ: 滋賀農業公園ブルーメの丘(滋賀県日野町西大路)(0748―52―2611)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【滋賀・近江の先人第58回】蝦夷地踏査漁場開発に貢献、ニシンで巨利・西川傳右衛門(近江八幡市)

2019-09-28 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

初代西川 傳右衛門(にしかわ でんえもん、寛永4年(1628年) - 宝永6年2月(1709年3月))は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人「西川傳右衛門」家の初代
越後に生まれ、西川家本拠の近江で育った。屋号は近江八幡で松前屋・松前(現北海道松前郡松前町)では住吉屋と称した。

西川家
西川家は元佐々木六角家の家臣で永禄年間に近江国蒲生郡津田村(現近江八幡市津田)に居住した市往右兵衛尉吉久を祖とし、後に八幡山城下に移転、西川と姓を改め、右兵衛尉吉久の子吉春(寛文3年8月(1670年9月死去)の二男「傳右衛門」が分家して「西川傳右衛門家」になったとしている。

右兵衛尉吉久の子右兵衛義重には越後出身の妻妙願と八幡新町九良右衛門の娘妙意の二人の女房がおり、初代傳右衛門は義重と妙願との間の次男として寛永4年(1628年)越後高田に生まれた』としている。
なお、義重と妙願の間に生まれた長男の家が「西川長右衛門家」、同三男の家が「西川傳兵衛」として「傳右衛門家」と同様に分家した。(長男:西川長右衛門、二男:西川傳右衛門、三男:西川傳兵衛)


行商から松前出店
傳右衛門、諱は正隆と称した。
少年の頃から父にならって行商に出、6百匁を元手とし越後を中心に荒物(箒・塵取りなどの簡単な家庭用品)・菓子を取り扱い、利益を得てから商品を呉服太物に変え北陸地方から奥羽方面へと行商先を広げた。
偶々、越後において蝦夷松前での行商に利があることを聞き、慶安3年(1650年)蝦夷の福山(現松前町字福山)・江差(現檜山郡江差町)・箱館(現函館市)への行商を始め、上方の産物を販売した結果、数年で巨利を得るに至った。

下国安芸の信用を勝ち取った傳右衛門は早々に松前藩御用達となり、千石船・五百石船を建造し自家の船で物産輸送を取り扱うなど一代で松前屈指の豪商になった。
下国安芸より『蝦夷の利は海産にあり、奥地に踏み入り漁場を開いて之を内地に輸送すれば、一に国益、二に自家の利なり。』と説かれ、傳右衛門自ら奥地に入り、アイヌ人と接し、寛文7年(1667年)頃までに高島(現小樽市高島)・忍路(オショロ)の地を選んで漁場を開いたとされる。
(漁場請負は元文5年(1740年)から宝暦(1755年)の間とする資料もある。)
いずれにせよ、延宝9年(1861年)の資料によると材木の買い付け等を行い近江に送っており、初代傳右衛門の時には未だ漁場経営は本格的には行われていなかった。
傳右衛門は順次請負漁場を改良し、出店の庶務を整理し、故郷近江に帰っては家政を修め、一代で40数度近江・蝦夷地を往復したとされる。

隠居するまで毎年の交易と出店経営も自ら行い、支配人が蝦夷地に置かれたのは漸く2代目傳右衛門の時になってからだった。
元禄9年(1696年)初代傳右衛門は隠居し、2代傳右衛門昌興が西川傳右衛門家当主となった。
傳右衛門隠居後の元禄14年(1701年)、長年の功に対して松前藩侯より名字帯刀が許され、加えて御先手格二十人扶持の藩士待遇を与えられた。

宝永6年2月(1709年3月)死去した。近江八幡市の円満寺には、初代傳右衛門が奉納した千石船模型と千石船絵馬額が保存されている。

<Wikipedia引用>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする