【内田雅也の広角追球】新年早々、悲しい知らせを受けた。外務省総務課長、和田幸浩(ゆきひろ)さんが2日、亡くなった。52歳という若さだった。脳内出血だったという。5日に訃報が届いた。
10日は東京の斎場で葬儀・告別式が執り行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため、家族葬だった。
自民党前政調会長の衆院議員、岸田文雄氏(63)はフェイスブックで弔意を示した。2016年4月、議長を務めた広島でのG7外相サミット当時、和田さんは北米第一課長として会合成功に貢献した。<外相時代にさまざまな場面でお力添えを賜りました。これからの日本外交を担っていく人材だっただけに非常に残念でなりません>。
自民党前政調会長の衆院議員、岸田文雄氏(63)はフェイスブックで弔意を示した。2016年4月、議長を務めた広島でのG7外相サミット当時、和田さんは北米第一課長として会合成功に貢献した。<外相時代にさまざまな場面でお力添えを賜りました。これからの日本外交を担っていく人材だっただけに非常に残念でなりません>。
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自民党参院議員、青山繁晴氏(68)は5日、自身のブログで<かけがえのない盟友を、戦死にて、喪(うしな)いました>とつづった。
和田さんのことを<国士>と呼んでいる。自分の事は省みず、もっぱら国の事を心配する人物という意味だ。
国会議員となった2016年7月、外務省官房長だった垂(たるみ)秀夫氏(59=現・在中国特命全権大使)から<信頼する部下>として紹介され、交流を続けていたそうだ。<亡くなったから申すのではなく、ほんとうに公平にして公正なひとであり、おたがいに言うべきことを言い合って、深い信頼のもとで、ただ国益のためにこそ、立場の違いを真正面からぶつけ合って、一緒に戦ってきました>。
青山氏はさらに自身のYouTubeチャンネル『ぼくらの国会』第83回、年頭収録分に黒いネクタイ姿で臨み、幾度も声を詰まらせ、涙をこぼした。
和田さんは野球人だった。京大野球部時代は1年秋のシーズン(1988年)、三塁手として関西学生野球リーグのベストナインに輝いている。同学年、同じ三塁手には後に日本ハム、阪神で活躍する片岡篤史(当時・同志社大=現・本紙評論家)がいた。4年時は主将、4番打者を務めた。通算出場79試合は京大歴代2位の記録である。
「なぜベストナインになったことを明かさなかったのか、考えていました……。輝かしい経歴だから……なんでしょうね。誇るべき部分は一切表に出さずに……」和田さんの公正、無私の姿勢が伝わってくる。
わたしにとっては桐蔭高(和歌山)野球部の後輩だった。家族葬で参列はかなわなかったが、お悔やみ電報を送らせてもらった。弔意に加え、「あの夏の雄姿を忘れません」と打ち添えた。
1986(昭和61)年夏、桐蔭は和歌山大会を勝ち抜き、25年ぶり20度目の甲子園出場を決めた。副主将を務め、5番打者、左翼手兼捕手。まさに優勝の立役者だった。
決勝の相手は箕島。尾藤公監督(2011年3月、68歳で他界)の長男で2年生エースだった尾藤強投手を9回表に攻略し逆転。5―3で迎えた9回裏、1死二、三塁と一打同点のピンチを迎え、河野允生(よしお)監督(2013年4月、73歳で他界)はタイムを取った。左翼にいた和田さんを呼び、捕手に起用したのだ。準決勝・耐久戦でも見せた「抑え捕手」である。河野監督は大会前から「冷静でリードに優れた幸浩にマスクを被らせることでチームは落ち着く」と話し、温めていた秘策だった。
和田さんは落ち着いていた。場内興奮のなか、迎えた打者に1ストライクから外角高めにボールの捨て球を要求し、直後の低めスライダーで遊ゴロ。次打者も1ストライクから同じく高め捨て球を放らせ、低めスライダーで二ゴロ。見事にピンチを切り抜け、悲願の甲子園出場を決めたのだ。
高めボール球要求に投手の鹿嶋大さん(52)は「どうしたんだろう?」と不思議がったそうだ。ピンチでの「遊び球」で間(ま)をつくり、「行け行け」で勢いに乗る箕島打者の打ち気をそらした。甲子園で数々の奇跡を起こしていた「逆転の箕島」を封じ込めた。
今回の悲報を受け、当時コーチだった大原弘さん(54=現・和歌山大監督)に連絡すると、驚くべき事実が分かった。和田さんは藪恵壹投手(後に阪神―アスレチックスなど)の新宮を破った準々決勝終了後、39度の発熱で入院していたというのだ。チームは球場近くの旅館「はやし」で合宿。和田さんには和歌山市内で洋食店を営む父親らが付き添った。点滴を打ちながら病院から球場に駆けつけ、準決勝、決勝を戦い抜いた。
「マスコミや相手チームにばれないよう、気をつかいました。決勝の日もまだ熱は下がりませんでした。攻撃中、打順が回ってこない時はベンチ横の控室に寝かせていました。汗が止まらず、アンダーシャツは何枚も着替えさせました。あの闘志には本当に恐れ入りました。和田の執念が呼び寄せた甲子園でした」
甲子園では1回戦で宇都宮工(栃木)に2―3と逆転で敗れた。1点を追う9回表、2死一、二塁。一打同点、長打逆転の場面で最後の打者(三ゴロ)となったのが和田さんだった。敗戦後の通路。「みんなに申し訳ない……」と一番泣いていた。和歌山リトルリーグ時代から知る河野監督が抱き寄せていた。熱血監督が目指していた文武両道、人格育成を体現していた教え子が和田さんだった。今ごろは彼の地で懐かしい再会を果たしていることだろう。
京大4年時、「自分がやる」と望んで主将となり、チームを引っ張った。卒業時、郷土の偉人・陸奥宗光をたとえに出し「野球のプロより外交のプロになる」と外交官を目指した。野球で培った敢闘、協同、公正の精神がその後の人生を支えていたように思う。
そして、夢の途中で旅立っていったのだ。忘れない。彼の雄姿も精神も絶対に忘れない。合掌。(編集委員)
◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大。85年入社。2003年から編集委員(現職)。和田幸浩さんら後輩たちが甲子園出場を決めた1986年は近鉄担当だった。夏の和歌山大会決勝は出張先の札幌から朝一番の飛行機を乗り継ぎ、紀三井寺球場に駆けつけた。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。