功山寺決起

青山繁晴事務所から自由民主党の党員になりました。(2020年)

日本と世界が、狂瀾怒濤の時代にあるのは間違いありません。(2021-12-31 21:30:14)

2021-12-31 22:29:25 | On the Road
▼毎年、回顧をする暇(いとま)もなく新年を迎えます。
 しかしざっと考えれば、ことしは、総裁選に参議院から異例の出馬をする準備を進め、そして高市早苗・現政調会長の推薦人となることによって、みずからは断念した年でした。
 決意そのものは、昨年に成したことでしたから、2年越しのことではありました。

 断念したことは、正しかったと考えます。
 出馬していれば、必ず、高市さんの支持層とダブるところがあったでしょう。

 この総裁選については、「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」の動画に沢山、あります。ここから入って、目に止まったものを視ていってくださいね。



▼護る会(日本の尊厳と国益を護る会)は、ことしの総選挙で初めての国政選挙に臨みました。
 8人の大切な同志をいったん喪いましたが、護る会に準会員の制度を新設し、仲間で居ていただいています。
 護る会そのものは、総選挙後に新入会がごく自然に相次ぎ、現在は、自由民主党の現職の衆参両院議員72人を擁し、総選挙の直前よりは5人、増えています。

 護る会の掲げる政策3本柱は、まず皇位継承の父系一系による安定について、岸田内閣の有識者会議の報告書で、護る会の提言がかなりの部分、そのまま盛り込まれました。詳しくはこの動画をご覧ください。
 3本柱の2本目、中韓による国土侵蝕の阻止は、第一歩となる法律の制定をみました。
 新年には施行となります。
 施行しつつ、さらなる歩み、充実を図っていかねばなりません。動画ではここです。
 3本柱の3本目(ただし順不同です)、経済安全保障を含むスパイ防止法の制定は、まず経済安全保障の基盤をつくる新法が新年の通常国会に提出される見込みです。
 動画は、もっとも整理されているのが、ここです。
 護る会を2年半前に創建したときは、どの柱も到底、成果はまったく上がらないだろうとしきりに言われたのですが、リアルな実践と前進を重ねています。

▼メタンハイドレート、メタンプルーム、レアアース泥、コバルト・リッチ・クラスト、マンガン団塊、熱水鉱床といった、日本の海が抱擁する自前資源の実用化は、今年もじりじりと前へ進みました。
 この動画は、ここここを視てくださるようお願いします。

▼上記以外にも、習近平国家主席の国賓来日を引き続き、阻止し続けていること、北京五輪の外交ボイコットで「閣僚を派遣してはならない。室伏スポーツ朝韓も派遣してはならない」という要求が実現したこと(ただし、橋本聖子五輪組織委員会会長の派遣については依然、反対しています)、東京都武蔵野市の住民投票条例案に賛成されない地元市民の意見を支えたこと、9月の衆院解散案が実行されなかったこと・・・などなどの事実がありました。
 半面で、武漢熱の克服、日本経済の再興、あるいは内閣の対中姿勢をはじめ、これからも取り組まねばならない課題が、文字通りに山積みです。

 すべて「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」でありのままに語っています。
 よろしければ、ここからもう一度、入られて、たとえひとつでもご覧になるか、あるいはタイトルだけをざぁっと眺めていただけないでしょうか。
 国政における今年の取り組みの、客観的な概観ができるかと存じます。

▼日本と世界が、武漢熱の襲来もあり、狂瀾怒濤の時代にあるのは間違いありません。
 しかし狂瀾と怒濤は、似てはいても、ほんらい違う概念という感もあります。
 かつて18世紀のドイツに、シュトルム・ウント・ドランクという文学のあり方を変えようとする運動がありました。
 日本語だとふつう「疾風怒濤」と訳しますよね。英語圏だと Storm and Urge と表記したりします。
 すごく丸めて言うと、ひとは嵐に直面して戦う力が出るという意味だと考えています。
 しかも、その嵐は、向こうからやって来ると同時に、みずから嵐を巻き起こすという深い意味を含んでいるとも考えます。

 ぼくらのいま居る、日本の狂瀾怒濤、その時代にあって、幕末からおよそ150年を経て、祖国にふたたび国家の青春をもたらそうと思います。
 みんなとの連帯だけが、支えです。力です。
 そこに、ひとつ前のエントリーを捧げる和田さんや、やはり今年に喪った、すぎやまこういちせんせい、いずれ劣らぬ国士のかたがたの魂魄が加わります。





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「国士」野球人の悲報 元甲子園球児、京大主将、外務省総務課長・和田幸浩さんを悼む (2021/1/10)

2021-12-31 21:07:01 | スポニチ
 【内田雅也の広角追球】新年早々、悲しい知らせを受けた。外務省総務課長、和田幸浩(ゆきひろ)さんが2日、亡くなった。52歳という若さだった。脳内出血だったという。5日に訃報が届いた。


 10日は東京の斎場で葬儀・告別式が執り行われた。新型コロナウイルスの感染防止のため、家族葬だった。

 自民党前政調会長の衆院議員、岸田文雄氏(63)はフェイスブックで弔意を示した。2016年4月、議長を務めた広島でのG7外相サミット当時、和田さんは北米第一課長として会合成功に貢献した。<外相時代にさまざまな場面でお力添えを賜りました。これからの日本外交を担っていく人材だっただけに非常に残念でなりません>。



https://www.facebook.com/368763319958602/posts/1731170977051156/

 自民党参院議員、青山繁晴氏(68)は5日、自身のブログで<かけがえのない盟友を、戦死にて、喪(うしな)いました>とつづった。

 和田さんのことを<国士>と呼んでいる。自分の事は省みず、もっぱら国の事を心配する人物という意味だ。


 国会議員となった2016年7月、外務省官房長だった垂(たるみ)秀夫氏(59=現・在中国特命全権大使)から<信頼する部下>として紹介され、交流を続けていたそうだ。<亡くなったから申すのではなく、ほんとうに公平にして公正なひとであり、おたがいに言うべきことを言い合って、深い信頼のもとで、ただ国益のためにこそ、立場の違いを真正面からぶつけ合って、一緒に戦ってきました>。

 青山氏はさらに自身のYouTubeチャンネル『ぼくらの国会』第83回、年頭収録分に黒いネクタイ姿で臨み、幾度も声を詰まらせ、涙をこぼした。



 和田さんは野球人だった。京大野球部時代は1年秋のシーズン(1988年)、三塁手として関西学生野球リーグのベストナインに輝いている。同学年、同じ三塁手には後に日本ハム、阪神で活躍する片岡篤史(当時・同志社大=現・本紙評論家)がいた。4年時は主将、4番打者を務めた。通算出場79試合は京大歴代2位の記録である。

 「なぜベストナインになったことを明かさなかったのか、考えていました……。輝かしい経歴だから……なんでしょうね。誇るべき部分は一切表に出さずに……」和田さんの公正、無私の姿勢が伝わってくる。

 わたしにとっては桐蔭高(和歌山)野球部の後輩だった。家族葬で参列はかなわなかったが、お悔やみ電報を送らせてもらった。弔意に加え、「あの夏の雄姿を忘れません」と打ち添えた。
 1986(昭和61)年夏、桐蔭は和歌山大会を勝ち抜き、25年ぶり20度目の甲子園出場を決めた。副主将を務め、5番打者、左翼手兼捕手。まさに優勝の立役者だった。

 決勝の相手は箕島。尾藤公監督(2011年3月、68歳で他界)の長男で2年生エースだった尾藤強投手を9回表に攻略し逆転。5―3で迎えた9回裏、1死二、三塁と一打同点のピンチを迎え、河野允生(よしお)監督(2013年4月、73歳で他界)はタイムを取った。左翼にいた和田さんを呼び、捕手に起用したのだ。準決勝・耐久戦でも見せた「抑え捕手」である。河野監督は大会前から「冷静でリードに優れた幸浩にマスクを被らせることでチームは落ち着く」と話し、温めていた秘策だった。

 和田さんは落ち着いていた。場内興奮のなか、迎えた打者に1ストライクから外角高めにボールの捨て球を要求し、直後の低めスライダーで遊ゴロ。次打者も1ストライクから同じく高め捨て球を放らせ、低めスライダーで二ゴロ。見事にピンチを切り抜け、悲願の甲子園出場を決めたのだ。

 高めボール球要求に投手の鹿嶋大さん(52)は「どうしたんだろう?」と不思議がったそうだ。ピンチでの「遊び球」で間(ま)をつくり、「行け行け」で勢いに乗る箕島打者の打ち気をそらした。甲子園で数々の奇跡を起こしていた「逆転の箕島」を封じ込めた。

 今回の悲報を受け、当時コーチだった大原弘さん(54=現・和歌山大監督)に連絡すると、驚くべき事実が分かった。和田さんは藪恵壹投手(後に阪神―アスレチックスなど)の新宮を破った準々決勝終了後、39度の発熱で入院していたというのだ。チームは球場近くの旅館「はやし」で合宿。和田さんには和歌山市内で洋食店を営む父親らが付き添った。点滴を打ちながら病院から球場に駆けつけ、準決勝、決勝を戦い抜いた。

 「マスコミや相手チームにばれないよう、気をつかいました。決勝の日もまだ熱は下がりませんでした。攻撃中、打順が回ってこない時はベンチ横の控室に寝かせていました。汗が止まらず、アンダーシャツは何枚も着替えさせました。あの闘志には本当に恐れ入りました。和田の執念が呼び寄せた甲子園でした」

 甲子園では1回戦で宇都宮工(栃木)に2―3と逆転で敗れた。1点を追う9回表、2死一、二塁。一打同点、長打逆転の場面で最後の打者(三ゴロ)となったのが和田さんだった。敗戦後の通路。「みんなに申し訳ない……」と一番泣いていた。和歌山リトルリーグ時代から知る河野監督が抱き寄せていた。熱血監督が目指していた文武両道、人格育成を体現していた教え子が和田さんだった。今ごろは彼の地で懐かしい再会を果たしていることだろう。

 京大4年時、「自分がやる」と望んで主将となり、チームを引っ張った。卒業時、郷土の偉人・陸奥宗光をたとえに出し「野球のプロより外交のプロになる」と外交官を目指した。野球で培った敢闘、協同、公正の精神がその後の人生を支えていたように思う。

 そして、夢の途中で旅立っていったのだ。忘れない。彼の雄姿も精神も絶対に忘れない。合掌。(編集委員)


 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大。85年入社。2003年から編集委員(現職)。和田幸浩さんら後輩たちが甲子園出場を決めた1986年は近鉄担当だった。夏の和歌山大会決勝は出張先の札幌から朝一番の飛行機を乗り継ぎ、紀三井寺球場に駆けつけた。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。

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和田幸浩総務課長 ( 当時 ) の突然の訃報から(2021-12-31 19:25:51)

2021-12-31 20:56:27 | On the Road
▼ことし皇紀2681年、令和3年、西暦2021年が狂瀾怒濤の年であったひとは、沢山いらっしゃると考えます。
 新年となってわずか2日目の1月2日に、日本国外務省のなかで最も良心的な行政官、外交官であった和田幸浩総務課長 ( 当時 ) の突然の訃報から、始まる年となってしまいました。
 上掲の部会写真の左端で、不肖ぼく ( 右の立ち姿 ) の発言を熱心にメモされているのが、わが永遠の友、和田さんです。

 黒縁のメガネを掛けて肩がガッチリした元甲子園球児 ( 和歌山桐蔭高校 ) 、そして京都大学野球部から関西学生野球連盟リーグ戦のベストナイン ( 昭和63年 / 西暦1988年秋の三塁手 ) に選ばれたことを自ら語られることは、遂にありませんでした。
 ぼくも、和田さんの上司である垂秀夫・現駐中国大使から聞いて、その野球選手としての栄光のごくごく一部を生前に存じあげていただけです。
 垂さんが、中国共産党にも言うべきを言う、極めて稀な大使であることは、ご存じのかたも少なくないでしょう。
 その垂さんは、和田さんをほんとうに深く信頼し、ある夜、垂さん、和田さん、ぼくの3人だけの席を設けてくださいました。武漢熱がまだまったく姿を現さないときです。
 その席で「この和田は、元高校球児で・・・」と垂さんが仰っただけです。

 この強健なアスリートに突然死が襲いかかるとは。
 和田さんご本人をはじめ、いったい誰が予期したでしょうか。

 ぼくの携帯には、和田さんから今年の元旦、7時25分にいただいたショートメッセージがそのまま残っています。
「本年も何卒よろしくお願い申しあげます」とあります。
 ふだんと何も変わるところがありません。
 ぼくは「人生の名キャッチャー、信頼しています。社交辞令は申しませぬ」と返しました。
 別のところから、キャッチャーとしての名場面をすこし聴いていたからです。
 実際の和田さんは、頭脳明晰、沈着冷静な万能選手で、左翼手、三塁手、そして捕手などをみな見事にこなしておられたとのことです。

 和田さんとは、この元日の朝、海外の同胞のために、在外投票登録と在外投票の簡素化、電子化に着手することを約束し合いました。
 ほんの数分の短時間にして簡潔なやり取りだけでしたが、おたがいに、志が通じ合っていました。
 和田さんが、たったひとりで遠く、限りなく遠く去ってしまったのは、その24時間ぐらい後でしょうか。




▼この部会でも左端にいらっしゃいます。
 みんながマスクを掛けていることで分かるように、和田さんにとっても、鮮烈な外交官人生の最期は武漢熱との戦いが重いテーマでした。
 中国製の武漢熱に対峙して戦死したひとりではないかと、今こゝろ静かに、考えています。

▼和田さんと今年に取り組むと約束した、海外の同胞の在外投票登録と在外投票の簡素化、電子化の歩みはその後、和田さんの後任の三宅史人総務課長をはじめ外務省と、それから総務省の良心派の行政官と連携して、画期的な前進をみています。

▼和田さんの戦いとその死について、スポニチの内田雅也さんという編集委員が「広角追球」というコラムで、印象深い名エッセイを書いておられます。
 検索なされば、どなたでも読むことができると思います。
 その冒頭に、京大野球部のユニフォームを着て、メガネは掛けていない和田選手が、ホームへ見事な滑り込みをしている写真があります。
 著作権を重んじて、ここにはもちろん載せませんが、この内田編集委員のコラムでぜひ、この誇らざる英雄の姿をご覧になってください。

 われらが盟友、国士たる和田さん、新しい年も、あなたの不滅の志と共に歩みます。


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「わたしは灰猫」audioアマゾン版(2021-12-31 09:24:57)

2021-12-31 13:28:37 | On the Road
▼ぼくの産み落としたひとつの世界、物語文学 ( 小説 ) の「わたしは灰猫」、そのオーディオ版がもうひとつ、世に現れていることをたった今、知りました。

▼先日にまず、日本語オーディオブックの先駆者であるオトバンク社の要請に応じて、いわば声のエッセイを、オトバンクの専用スタジオで収録しました。
 これを「著者からの特典メッセージ」 ( オトバンク ) として収録し、「わたしは灰猫」の本文を長谷川りくさんとおっしゃるナレーターが読んでくださっています。
 これは、12月23日にリリースされ、それはこのブログでお知らせしました。
 当然、無料の試聴もできます。
 よろしければ、一度、聴いてみてください。ここです。



▼この物語は、わっと一時 ( いちどき ) におおくの人に読まれることはありませんが、小川の絶えざるささやか流れのように、ずっと、読まれ続けている気配があります。

▼そのためか、アマゾンからも「声のエッセイ」の収録依頼がありました。
 オトバンクの時とは、すっかり内容を変えて、しかし台本は無く、ありのままに語り、アマゾンから指定されたスタジオにて収録をしました。

▼それがリリースされたという連絡はありませんでした。
 いつも丁寧な連絡をくださる編集者ですから、ぼくがメールを見落としただけかも知れません。

 それが今日、ふとしたことで、存在を知り、試聴してみました。
 ちょうど、クラシック音楽の破壊者、改革者であるストラビンスキーを聴きながら仕事をしていた最中だったので、その相乗効果もあってか、なんだか凄く胸に、著者であるぼくの胸に響いたのです。
 ストラビンスキーをとめて、仕事の手もとめて、聴き入ってしまいました。

 この本文は、岸本百恵さんというナレーターの吹き込みです。
 何と、オトバンク版の翌日、12月24日のイヴにリリースされていました。
 ここです。

▼それにしても、オトバンク版の再生時間が6時間07分、アマゾン版の再生時間が5時間34分です。
 この時代に、こういう世界が試みられるということにも、感激しました。

▼もちろん、いずれも倍速版もあります。
 そしていずれも、無償の試聴ができます。

★そして、おそらく3作目の小説として世に出ることになる「夜想交叉路」の改稿ぶりに、きょうのちいさな驚きは、たのしみな影響をもたらすことになると思います。




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きょうはABCラジオの大阪ローカルでした。(2021-12-30 19:01:19)

2021-12-30 19:27:42 | On the Road
・・・と言っても、ありとあらゆるラジオ、テレビの番組から遙か彼方に遠ざかっていますね。

 きょうはABCラジオの大阪ローカルでした。
 お知らせしたのが、今日未明になってしまいましたし、聴いてくださったかたは少ないと思います。

「ますだおかだ」の増田英彦さんからの問いかけに、ありのままに応える20分ほどでした。
 ますださんは、これもぼくがほぼ絶滅種となっている地上波のテレビ番組 ( よみうりテレビ ) の富良野ロケでご一緒しましたね。
 移動中の車中に携帯電話を使っての番組参加でしたから、電波が途切れることを心配しましたが、それはどうにか大丈夫だったようです。

 聴いてくださったかたは、ありがとうございました。




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