チンギスハーン 蒼き狼と白き牝鹿IV - 奥州藤原氏で世界制覇 その1の続き
敦煌とクチャ(タクラマカン砂漠の北)は東西世界の境界を挟んでいます。敦煌から西へ勢力を広げようとしても、街道がつながっていないため攻めるのは大変です。だからこそ逆に攻められずにいたのですけどね。クチャを支配しているのはイスラムの国の西遼で、首都はベラサグン(現在のキルギスとカザフスタンの国境近く、イシク湖の北)です。天山山脈の東西のルートを押さえて繁栄した国です。
さて、名だたる武将達を全員クチャに集めて陥落させたはいいですが、西のベラサグンからも南のゴール朝からも進軍が止まらなくなってしまいました。総軍を半分にわけて反撃の開始です。西遼軍は移動コストのかかる天山山脈の隙間から攻めてきていて、その裏をついて那須与一らが街道から高速で移動してベラサグンを落としました。
1211年 秋 ベラサグンにて西遼滅亡
残り半分の軍隊はゴール朝の都市プルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)を陥落させますが、ここは建設されたばかりの都市で、内政にも手がかかりました。ゴール朝はインドのデリー、プルシャプラ、首都ゴール(アフガニスタン中部)を所有しており、相互に街道で繋がっています。中央に位置するプルシャプラの次は東のデリーを手に入れましたが、首都ゴールからゴール朝軍が繰り返し大挙してプルシャプラに押し寄せてくるようになってしまいました。しかもこちらの将軍達を寝返らせようと暗躍しているようです。早く撃退しなければなりません。
戦闘に関しては、敵の3軍隊に対してこちらは2軍隊をぶつけ、最低限の部隊だけ倒して効率よく勝利していきます。そして敵があまりに多かったため、捕らえた将軍を登用できなかったら全て斬首しました。そうでないと前線に復帰してきりがないからです。ゴール朝に所属していた30人ほどの将軍のうち半分以上は斬首したことになります。時には冷酷さも必要ですね。
これらの戦いと同時に、平泉政権では一大事業がスタートしていました。それは広大な国内の街道整備です。モンゴル平原を東西に横断し、敦煌、チベットのラサを経由して、タイのチェンマイ近郊までの大街道です。さらに敦煌からクチャに向かい(シルクロード!)そこから南下してカラコルム山脈を超えプルシャプラまでの街道と、チェンマイからデリーを経由してインド南西部のカリカットまでの街道の整備を進めていました。これによって東西世界の文化の融合を一気に押し進める計画です。もうすぐ完成です。
もう一ついいニュースがありました。ラサにチンギス=ハーンが仕官してきました。もちろん登用して最前線まで行ってもらいました。上の画像はプルシャプラの領主となっている源義経とチンギス=ハーンが宴を開いているところです。
こちらはデリーを攻め落とした北条泰時。若いのにいい働きをしています。現在の平泉政権の支配都市は23です。
つづく
おまけ
チンギス=ハーンが登用できたら貼ろうと思っていた動画。
これを待っていたお友達もいるのではないでしょうか?