大島海峡東岸紀行 四拾四よりつづく。
奄美大島の西の端、大島海峡の東岸をちんたら進む旅も、花天(けてん)を過ぎ、残すは管鈍(くだどん or くだどぅん)と西古見(にしこみ)だけとなった。
と、前回は変わりばえしない導入でそのまま管鈍林道に入ってしまったが、今回は、その林道から戻ってからのことである。
花天と管鈍を結ぶ県道は、そのほとんどが山中を通る。
花天では、最後の人家を過ぎたら山中に入って行くし、海が見えたらすぐに管鈍の集落が視界に入る、という具合だ。
この先のカーブを曲がれば、管鈍集落である。
入江の向こうに見える道を辿って、西古見に至る。
梅雨が明けて、ほぼ真上から射す日光の威力で、こまめに水分を取っているつもりでも軽い脱水症状を起こしている。
管鈍では県道脇に商店があり、500ccのペットボトル2本で水分補給を行った。
朦朧としかけていたアタマが、わずかに見通しが良くなったので、集落の奥へと入ってみる。
狭い。
おそろしく狭い道ばかりだ。
これまでも集落内部の道路について〔軽自動車でもぎりぎり〕と表したところが多かったが、
管鈍集落は、さらにその上(?)を行くのではないか?
中央突破を諦めて、集落の端から進入を試みたが、どうも不穏な状態である。
案の定、向こうに見えるガードレールの手前には鉄条網が張られていた。
再度、中央突破を試み、小川の向こうの農道を辿ってみる。
今回の旅で判りかけてきたことだが、どうやら大島海峡沿いの農業は、何度目かの変革期を迎えているらしい。
奄美大島の農業は、江戸時代は支配者である薩摩藩にサトウキビ作りを強制され、
その後、川沿いの農地で稲作が行われるようになったものの、
昭和40年代の減反政策と「北日本のおいしいコメ」で水田を放棄せざるを得なくなった。
サトウキビも、世界的な価格低下傾向で競争力を完全に失い、今や地元の製糖工場や自治体が
「工場を潰したくないのでキビを作ってください」と農家にお願いしている状態である。
農家の後継者らは都会に就職し、農村には親の世代だけが残され、
自治体や農協の指導で高収益作物(果樹)主体の経営への転換を図った。
その間にも歳月は流れ、都会に出たかつての[農家の後継者]らは定年を迎え、
単独での生活が困難となった親の世代と一緒に生活するために故郷に戻りつつある。
こうした流れの中で、多年の経験とこまめな作業を必要とする果樹栽培に見切りをつけて、新しい農業経営に向かう家族もある。
近年、経営者が増えてきた[肉牛繁殖]である。
ここで生まれた仔牛は、まだ幼いうち(一歳か二歳)のうちにセリに掛けられ、主として近畿地方の〔肥育農家〕に売られる。
これまで通過してきた他の集落でも、サトウキビから牧草へと様変わりしているところがたくさんあったが、
このような長閑な放牧風景は見られなかった。
長々とコ難しい話を続けたが、ウシの親子の情景というのはなかなかいいものである。
たとえそれが、蒸し暑い午後に、ウシたちのUNKOの匂いを嗅ぎながらであっても。
管鈍の話、まだ続きます。
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奄美大島の西の端、大島海峡の東岸をちんたら進む旅も、花天(けてん)を過ぎ、残すは管鈍(くだどん or くだどぅん)と西古見(にしこみ)だけとなった。
と、前回は変わりばえしない導入でそのまま管鈍林道に入ってしまったが、今回は、その林道から戻ってからのことである。
花天と管鈍を結ぶ県道は、そのほとんどが山中を通る。
花天では、最後の人家を過ぎたら山中に入って行くし、海が見えたらすぐに管鈍の集落が視界に入る、という具合だ。
この先のカーブを曲がれば、管鈍集落である。
入江の向こうに見える道を辿って、西古見に至る。
梅雨が明けて、ほぼ真上から射す日光の威力で、こまめに水分を取っているつもりでも軽い脱水症状を起こしている。
管鈍では県道脇に商店があり、500ccのペットボトル2本で水分補給を行った。
朦朧としかけていたアタマが、わずかに見通しが良くなったので、集落の奥へと入ってみる。
狭い。
おそろしく狭い道ばかりだ。
これまでも集落内部の道路について〔軽自動車でもぎりぎり〕と表したところが多かったが、
管鈍集落は、さらにその上(?)を行くのではないか?
中央突破を諦めて、集落の端から進入を試みたが、どうも不穏な状態である。
案の定、向こうに見えるガードレールの手前には鉄条網が張られていた。
再度、中央突破を試み、小川の向こうの農道を辿ってみる。
今回の旅で判りかけてきたことだが、どうやら大島海峡沿いの農業は、何度目かの変革期を迎えているらしい。
奄美大島の農業は、江戸時代は支配者である薩摩藩にサトウキビ作りを強制され、
その後、川沿いの農地で稲作が行われるようになったものの、
昭和40年代の減反政策と「北日本のおいしいコメ」で水田を放棄せざるを得なくなった。
サトウキビも、世界的な価格低下傾向で競争力を完全に失い、今や地元の製糖工場や自治体が
「工場を潰したくないのでキビを作ってください」と農家にお願いしている状態である。
農家の後継者らは都会に就職し、農村には親の世代だけが残され、
自治体や農協の指導で高収益作物(果樹)主体の経営への転換を図った。
その間にも歳月は流れ、都会に出たかつての[農家の後継者]らは定年を迎え、
単独での生活が困難となった親の世代と一緒に生活するために故郷に戻りつつある。
こうした流れの中で、多年の経験とこまめな作業を必要とする果樹栽培に見切りをつけて、新しい農業経営に向かう家族もある。
近年、経営者が増えてきた[肉牛繁殖]である。
ここで生まれた仔牛は、まだ幼いうち(一歳か二歳)のうちにセリに掛けられ、主として近畿地方の〔肥育農家〕に売られる。
セリの模様は、本宅→生活報告帳→生活報告帳アーカイブの『古仁屋から名瀬まで6時間かけてドライブしました』にチョコっと出ています。〔肥育農家〕では所定の期間(長くて3年?)飼育し、<松坂牛>、<神戸牛>等のブランドで出荷する。
これまで通過してきた他の集落でも、サトウキビから牧草へと様変わりしているところがたくさんあったが、
このような長閑な放牧風景は見られなかった。
長々とコ難しい話を続けたが、ウシの親子の情景というのはなかなかいいものである。
たとえそれが、蒸し暑い午後に、ウシたちのUNKOの匂いを嗅ぎながらであっても。
管鈍の話、まだ続きます。
つづく
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