おヒマでしたら、11月のフツーの生き物たち 11もご覧ください。
また、11月のフツーの生き物たち 11.5てのもあります。
「フツーの生き物たち」、今回も昨年の11月にフツーに見掛けた生き物たちです。
バン
2006年11月3日、大和村恩勝(おんがち)にて撮影。
誰も頼んでないけど勝手にアヤシイ国際情勢解説の第3弾。
前々回は、NATOの勢力拡大と、それに反発するロシア、NATOに頼る形で反ロシアに傾斜するグルジアという三者と、グルジア周辺の入り組んだ地政学について記しました。
続いて前回では、ロシアとヨーロッパの歴史の関わりを、1812年と、1942年から1945年に掛けて行われた2つの戦争から眺め、お互いの持つ恐怖感を考察してみました。
そして今回は、現在進行形のロシアを読み解いてみようと思います。
バン
2006年11月3日、大和村恩勝(おんがち)にて撮影。
1980年代の終わり頃、当時ソ連の最高指導者であったミハイル・ゴルバチョフは、共産主義体制のまま経済発展を成し遂げようと、政府直営の法人を《協同組合》として独立・自主的な経営へと向かわせた。
基本的な精神としてはまことに結構な話だが、この協同組合は、ゴルバチョフに替わって権力を握ったボリス・エリツィンと結んでまたたく間に急成長を遂げた。
ソ連史の専門家の中には、この急成長とソ連の裏の社会で暗躍していた《ロシアン・マフィア》との関連を説くものもいる。
やがてソ連は崩壊し、その大部分の領土と国民と生産基盤を受け継いだロシアの時代となり、協同組合はエリツィン政権との結束を強めてさらに発展し、その経営の実権を握る限られた人々は《オリガルヒ(新興財閥)》と呼ばれるようになった。
エリツィンとオリガルヒの関係は、『水戸黄門』での悪家老と悪徳商人の関係を想起されたい。
「絵吏沈衛門さま、次の選挙では、この居湾屋の配下の新聞社では、反対候補の記事はできるだけ小さく扱います。その代わりと申してはなんですが、輸出関税を自由化していただきたく…」
「居湾屋、おぬしもワルよのぉ。おうそうじゃ、おぬしにも閣僚のポストをやろう」
そんなやりとりがあったかどうか。
事実、オリガルヒの主要メンバーは政府のポストを与えられ、またオリガルヒの息のかかった人物が《大統領補佐官》等のポストに就任した。
またオリガルヒの率いる企業グループは巨額の税金を滞納し、物価は天井知らずに高騰(オリガルヒの支配下にある企業は、銀行とエネルギー産業が主だった)し、軍人の給与は凍結され、年金は据え置かれ、国債が乱発され、ロシアは深刻な経済危機に陥った。
やがて絵吏沈衛門じゃなかったボリス・エリツィンは心臓の持病のために引退し、ウラジーミル・プーチンが登場する。
プーチンは、エリツィンの後継者としてオリガルヒの後ろ盾を得て大統領に就任したが、就任後は矢継ぎ早にオリガルヒの特権を剥奪し、滞納された税金を納めさせ、石油企業を国有化した。
ヤドリバエの仲間?
2006年11月12日、龍郷町幾里(いくさと)にて撮影。
通常、軍隊の強さというのは戦車やミサイルや戦闘機、あるいは軍艦の数によって計られるものと考えがちだ。
しかし、オリガルヒに経済を支配され、金融危機に陥ったロシアの軍隊は、ソ連が築き上げた装備をそのまま継承しながら、その実態はほぼ機能不全であっていたという。
戦車も軍艦も燃料がなければ動かず、銃弾一発にしても地面に只で生えているわけではない。
極端な話、電気代が払えなければ海軍だって維持できないのだ。
また、どんな最新兵器も『極限の状態で使用できる』軍人なしではプラモデルとさして変わらない。
'00年前後のロシア陸軍の演習の回数は、TVのドキュメンタリー番組によれば「ソ連時代の1/3以下」だったそうである。
また、空軍パイロットの飛行時間も世界でもトップの水準という自衛隊の1/6程度だったという(2003年のデータ)。
この状況を一変させたのがプーチンであった。
オリガルヒから取り立てた税金をロシア軍の強化に使い、国有化した石油企業から上がる利益を対外債務の返済と福祉政策に使った。
《ソ連の崩壊》は、《ソ連国民》からも喝采を持って迎えられたが、その後のロシアとしての国際的地位の凋落は、多くのロシア市民を失望させた。
いくらかバイアスが掛かった見方かもしれないが、もともとモスクワ近辺に生活する『ちょっと有力な民族』でしかなかったロシア民族は、ロシア帝国の拡張によって、ユーラシア大陸の大半でもっとも有力な民族になった。
16世紀にはじまったシベリア征服、18世紀から19世紀にかけての北西アジア(グルジア、カザフスタン等)の併合、19世紀後半の清国領土への南進政策は《強いロシア》として、当時の産業構造の転換から新たに誕生した《ロシア市民》から大歓迎された。
プーチンの施策は、《ソ連の崩壊》から《二流国の国民》意識に落ち込んでいたロシア国民に対して強力な刺激となった。
《強いロシア》を求める軍と国民からの支持を得て、二期目の大統領職をかけた選挙では70%以上の得票率で勝った。
《グルジア侵攻》当時のロシア発のニュース映像では、ロシア軍の前線司令官が「プーチンの政策のおかげでロシア軍は昔の強さを取り戻した」という主旨の発言をしている。
これは、ロシア軍全体というより、大半のロシア国民の偽らざる心境であろう。
芋虫・毛虫
2006年11月8日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
2008年、大統領としての二期目の満了に伴い、プーチンは退任した。
その際に行われた大統領選挙では、腹心のメドベージェフを支持して勝たせ、自らは実質的な政策決定機関を率いる首相としてメドベージェフに《任命》された。
2000年にはじまった《プーチン体制》は、今も継続中である。
そして、《プーチン体制》を支える経済的基盤『石油』は、2008年半ばの天井知らずの相場に翳りが見えてきたとはいえ、今も100ドルを越える価格水準を維持している。
これは、プーチンが石油企業を国有化し、ロシア経済の立て直しを図った2000年当時の20~30ドルと比較して、非常な高価格といえる。
一部の予想では、年内に80ドル台まで下落するとも予想されているが、それでも産油国にとってはドル紙幣を印刷する輪転機が回りつづけているようなものだろう。
面倒かもしれないが、ここをクリックしてもらいたい。
グーグルマップの縮尺を少し下げると、右下の、カスピ海に突き出た小さな半島の根本にバクー(Baky)が見えてくる。
ここには、20世紀初頭、世界の石油の90%を産出し、その石油を狙ったヒトラーにロシア侵攻を決意させたバクー油田がある。
ショウリョウバッタ
2006年11月16日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
このバクー油田は、現在のところグルジアほどではないが脱ロシア志向を持つアゼルバイジャン共和国の領土であり、ここで採掘された原油は、バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(以下、BTCパイプラインと略)によって主としてヨーロッパに輸出される。
パイプラインの名にお気づきだろうか。
バクーは、もちろん油田のあるバクー。アゼルバイジャン共和国の首都でもある。
トビリシは、グルジアの首都。
ジェイハン(トルコ語で Ceyhan と書きます)は地中海に面するトルコ共和国の街。細かく言うと、アナトリア半島(小アジア)の根本付近にある港湾都市である。
ジェイハンでタンカーに積まれた原油は、イタリア、フランスへと送られる。
カスピ海とその沿岸には、まだ本格的な採掘がはじまって間もない油田が多く、非常に有望視されているのだが、如何せん、運搬が難しい。
BTCパイプラインは2005年に運用がはじまった、新しいパイプラインである。日本の商社も建設工事に参入していたらしい。
これ以上細かく書くと煩雑すぎるんでざっくり説明すると、中東北部の非イスラム系&ロシア嫌い3ヶ国が手を組んで、イスラムは嫌いだがロシアはもっと嫌いな欧州に石油を売って儲けを分け合おう、というのがBTCパイプラインなのだ。
当然、ロシアは気に入らない。
『グルジアもアゼルバイジャンも、元を糺せばウチの子分じゃねぇか。勝手な真似をしくさるんじゃねぇ!』というワケだ。
もちろん、ロシアもアゼルバイジャンの石油に興味がなかったわけではない。
既にアゼルバイジャンからカスピ海の岸伝いにダゲスタン共和国を通るパイプラインが敷設され、東欧諸国へ輸出されている。
しかしこのパイプラインでは、高値で売れるヨーロッパへ石油を送るためには黒海でタンカーに載せ、トルコの領土であるボスポラス海峡を通過しなくてはならない。
そのボスポラス海峡は、トルコの《環境政策》と《安全航行基準》のため、タンカーの通行が制限されているのだ。
要するに、海峡通過では一銭の儲けにもにもならないトルコと、その分け前が欲しいグルジア、ロシアに買い叩かれるのは嫌なアゼルバイジャンの3ヶ国が共同で設計図を書いたのがBTCパイプラインなのだ。
ちなみに、バクーからトルコへはアルメニア経由の方が近いのだが、地形が険しいのと、歴史的にトルコはアルメニアを仮想敵国のNo.1として考え、アゼルバイジャンとアルメニアは事実上の戦争状態が続いている('94年に『停戦』、'98年に『平和的解決』で合意したが、どちらも不満を押さえている。また、この戦争ではロシアはアルメニアを援助した)。
ショウリョウバッタ
2006年11月16日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
「なんだ、結局ここも石油ですか」と言いたくなる話ではある。
しかし、こと石油が絡めば右も左も中も赤も白も青も《賭け金》を出そうとすることは、この100年の人類の悪習のひとつだ。
今回のグルジア・ロシア紛争も、グルジアの後ろにはアメリカが付いている。
停戦調停でフランスのサルコジ大統領が頻繁に登場するのは、BTCパイプラインの存続が掛かっているためだ。
脱ロシア志向が強いアゼルバイジャンをけん制するために、ロシアはアルメニアに武器を援助した。
かつての《冷戦》時代と比べれば、《賭け金》の額は減ったのだろうとは思う。
しかし、グルジア・ロシア紛争の事後処理がこじれる時期の間、ロシアのメドベージェフ大統領は「新冷戦も辞さない」と発言し、《断固たる決意》を示した。
リーマン・ブラザース破綻によって《新冷戦》は棚上げになっているようだが、これだけ火種が燻っていれば、いつ、どこから火の手が上がるか、誰にも予想はできないだろう。
1979年、ソ連軍はアフガニスタン(当時、共産主義のアフガニスタン人民民主党が政権を握っていた)に侵攻した。
これは、1988年のソ連軍撤退まで足掛け10年にわたって続く戦争のはじまりである、というだけではない。
ソ連軍とアフガニスタン反政府勢力の戦闘は、アメリカがCIAによって20億ドル以上を秘密援助する他、ムジャヒディーンを名乗るイスラム義勇兵がイスラム各国から参戦した。
最終的に数百億ドルに値する兵器と物資がアフガニスタンへ流入したのみならず、ムジャヒディーンはタリバンへと変貌し、その後の内戦、そしてアメリカ軍のアフガン侵攻へと戦火は絶え間なく続いている。
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また、11月のフツーの生き物たち 11.5てのもあります。
「フツーの生き物たち」、今回も昨年の11月にフツーに見掛けた生き物たちです。
バン
2006年11月3日、大和村恩勝(おんがち)にて撮影。
誰も頼んでないけど勝手にアヤシイ国際情勢解説の第3弾。
前々回は、NATOの勢力拡大と、それに反発するロシア、NATOに頼る形で反ロシアに傾斜するグルジアという三者と、グルジア周辺の入り組んだ地政学について記しました。
続いて前回では、ロシアとヨーロッパの歴史の関わりを、1812年と、1942年から1945年に掛けて行われた2つの戦争から眺め、お互いの持つ恐怖感を考察してみました。
そして今回は、現在進行形のロシアを読み解いてみようと思います。
バン
2006年11月3日、大和村恩勝(おんがち)にて撮影。
1980年代の終わり頃、当時ソ連の最高指導者であったミハイル・ゴルバチョフは、共産主義体制のまま経済発展を成し遂げようと、政府直営の法人を《協同組合》として独立・自主的な経営へと向かわせた。
基本的な精神としてはまことに結構な話だが、この協同組合は、ゴルバチョフに替わって権力を握ったボリス・エリツィンと結んでまたたく間に急成長を遂げた。
ソ連史の専門家の中には、この急成長とソ連の裏の社会で暗躍していた《ロシアン・マフィア》との関連を説くものもいる。
やがてソ連は崩壊し、その大部分の領土と国民と生産基盤を受け継いだロシアの時代となり、協同組合はエリツィン政権との結束を強めてさらに発展し、その経営の実権を握る限られた人々は《オリガルヒ(新興財閥)》と呼ばれるようになった。
エリツィンとオリガルヒの関係は、『水戸黄門』での悪家老と悪徳商人の関係を想起されたい。
「絵吏沈衛門さま、次の選挙では、この居湾屋の配下の新聞社では、反対候補の記事はできるだけ小さく扱います。その代わりと申してはなんですが、輸出関税を自由化していただきたく…」
「居湾屋、おぬしもワルよのぉ。おうそうじゃ、おぬしにも閣僚のポストをやろう」
そんなやりとりがあったかどうか。
事実、オリガルヒの主要メンバーは政府のポストを与えられ、またオリガルヒの息のかかった人物が《大統領補佐官》等のポストに就任した。
またオリガルヒの率いる企業グループは巨額の税金を滞納し、物価は天井知らずに高騰(オリガルヒの支配下にある企業は、銀行とエネルギー産業が主だった)し、軍人の給与は凍結され、年金は据え置かれ、国債が乱発され、ロシアは深刻な経済危機に陥った。
やがて絵吏沈衛門じゃなかったボリス・エリツィンは心臓の持病のために引退し、ウラジーミル・プーチンが登場する。
プーチンは、エリツィンの後継者としてオリガルヒの後ろ盾を得て大統領に就任したが、就任後は矢継ぎ早にオリガルヒの特権を剥奪し、滞納された税金を納めさせ、石油企業を国有化した。
ヤドリバエの仲間?
2006年11月12日、龍郷町幾里(いくさと)にて撮影。
通常、軍隊の強さというのは戦車やミサイルや戦闘機、あるいは軍艦の数によって計られるものと考えがちだ。
しかし、オリガルヒに経済を支配され、金融危機に陥ったロシアの軍隊は、ソ連が築き上げた装備をそのまま継承しながら、その実態はほぼ機能不全であっていたという。
戦車も軍艦も燃料がなければ動かず、銃弾一発にしても地面に只で生えているわけではない。
極端な話、電気代が払えなければ海軍だって維持できないのだ。
また、どんな最新兵器も『極限の状態で使用できる』軍人なしではプラモデルとさして変わらない。
'00年前後のロシア陸軍の演習の回数は、TVのドキュメンタリー番組によれば「ソ連時代の1/3以下」だったそうである。
また、空軍パイロットの飛行時間も世界でもトップの水準という自衛隊の1/6程度だったという(2003年のデータ)。
この状況を一変させたのがプーチンであった。
オリガルヒから取り立てた税金をロシア軍の強化に使い、国有化した石油企業から上がる利益を対外債務の返済と福祉政策に使った。
《ソ連の崩壊》は、《ソ連国民》からも喝采を持って迎えられたが、その後のロシアとしての国際的地位の凋落は、多くのロシア市民を失望させた。
いくらかバイアスが掛かった見方かもしれないが、もともとモスクワ近辺に生活する『ちょっと有力な民族』でしかなかったロシア民族は、ロシア帝国の拡張によって、ユーラシア大陸の大半でもっとも有力な民族になった。
16世紀にはじまったシベリア征服、18世紀から19世紀にかけての北西アジア(グルジア、カザフスタン等)の併合、19世紀後半の清国領土への南進政策は《強いロシア》として、当時の産業構造の転換から新たに誕生した《ロシア市民》から大歓迎された。
プーチンの施策は、《ソ連の崩壊》から《二流国の国民》意識に落ち込んでいたロシア国民に対して強力な刺激となった。
《強いロシア》を求める軍と国民からの支持を得て、二期目の大統領職をかけた選挙では70%以上の得票率で勝った。
《グルジア侵攻》当時のロシア発のニュース映像では、ロシア軍の前線司令官が「プーチンの政策のおかげでロシア軍は昔の強さを取り戻した」という主旨の発言をしている。
これは、ロシア軍全体というより、大半のロシア国民の偽らざる心境であろう。
芋虫・毛虫
2006年11月8日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
2008年、大統領としての二期目の満了に伴い、プーチンは退任した。
その際に行われた大統領選挙では、腹心のメドベージェフを支持して勝たせ、自らは実質的な政策決定機関を率いる首相としてメドベージェフに《任命》された。
2000年にはじまった《プーチン体制》は、今も継続中である。
そして、《プーチン体制》を支える経済的基盤『石油』は、2008年半ばの天井知らずの相場に翳りが見えてきたとはいえ、今も100ドルを越える価格水準を維持している。
これは、プーチンが石油企業を国有化し、ロシア経済の立て直しを図った2000年当時の20~30ドルと比較して、非常な高価格といえる。
一部の予想では、年内に80ドル台まで下落するとも予想されているが、それでも産油国にとってはドル紙幣を印刷する輪転機が回りつづけているようなものだろう。
面倒かもしれないが、ここをクリックしてもらいたい。
グーグルマップの縮尺を少し下げると、右下の、カスピ海に突き出た小さな半島の根本にバクー(Baky)が見えてくる。
ここには、20世紀初頭、世界の石油の90%を産出し、その石油を狙ったヒトラーにロシア侵攻を決意させたバクー油田がある。
ショウリョウバッタ
2006年11月16日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
このバクー油田は、現在のところグルジアほどではないが脱ロシア志向を持つアゼルバイジャン共和国の領土であり、ここで採掘された原油は、バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(以下、BTCパイプラインと略)によって主としてヨーロッパに輸出される。
パイプラインの名にお気づきだろうか。
バクーは、もちろん油田のあるバクー。アゼルバイジャン共和国の首都でもある。
トビリシは、グルジアの首都。
ジェイハン(トルコ語で Ceyhan と書きます)は地中海に面するトルコ共和国の街。細かく言うと、アナトリア半島(小アジア)の根本付近にある港湾都市である。
ジェイハンでタンカーに積まれた原油は、イタリア、フランスへと送られる。
カスピ海とその沿岸には、まだ本格的な採掘がはじまって間もない油田が多く、非常に有望視されているのだが、如何せん、運搬が難しい。
BTCパイプラインは2005年に運用がはじまった、新しいパイプラインである。日本の商社も建設工事に参入していたらしい。
これ以上細かく書くと煩雑すぎるんでざっくり説明すると、中東北部の非イスラム系&ロシア嫌い3ヶ国が手を組んで、イスラムは嫌いだがロシアはもっと嫌いな欧州に石油を売って儲けを分け合おう、というのがBTCパイプラインなのだ。
当然、ロシアは気に入らない。
『グルジアもアゼルバイジャンも、元を糺せばウチの子分じゃねぇか。勝手な真似をしくさるんじゃねぇ!』というワケだ。
もちろん、ロシアもアゼルバイジャンの石油に興味がなかったわけではない。
既にアゼルバイジャンからカスピ海の岸伝いにダゲスタン共和国を通るパイプラインが敷設され、東欧諸国へ輸出されている。
しかしこのパイプラインでは、高値で売れるヨーロッパへ石油を送るためには黒海でタンカーに載せ、トルコの領土であるボスポラス海峡を通過しなくてはならない。
そのボスポラス海峡は、トルコの《環境政策》と《安全航行基準》のため、タンカーの通行が制限されているのだ。
要するに、海峡通過では一銭の儲けにもにもならないトルコと、その分け前が欲しいグルジア、ロシアに買い叩かれるのは嫌なアゼルバイジャンの3ヶ国が共同で設計図を書いたのがBTCパイプラインなのだ。
ちなみに、バクーからトルコへはアルメニア経由の方が近いのだが、地形が険しいのと、歴史的にトルコはアルメニアを仮想敵国のNo.1として考え、アゼルバイジャンとアルメニアは事実上の戦争状態が続いている('94年に『停戦』、'98年に『平和的解決』で合意したが、どちらも不満を押さえている。また、この戦争ではロシアはアルメニアを援助した)。
ショウリョウバッタ
2006年11月16日、奄美市おがみやま公園にて撮影。
「なんだ、結局ここも石油ですか」と言いたくなる話ではある。
しかし、こと石油が絡めば右も左も中も赤も白も青も《賭け金》を出そうとすることは、この100年の人類の悪習のひとつだ。
今回のグルジア・ロシア紛争も、グルジアの後ろにはアメリカが付いている。
停戦調停でフランスのサルコジ大統領が頻繁に登場するのは、BTCパイプラインの存続が掛かっているためだ。
脱ロシア志向が強いアゼルバイジャンをけん制するために、ロシアはアルメニアに武器を援助した。
かつての《冷戦》時代と比べれば、《賭け金》の額は減ったのだろうとは思う。
しかし、グルジア・ロシア紛争の事後処理がこじれる時期の間、ロシアのメドベージェフ大統領は「新冷戦も辞さない」と発言し、《断固たる決意》を示した。
リーマン・ブラザース破綻によって《新冷戦》は棚上げになっているようだが、これだけ火種が燻っていれば、いつ、どこから火の手が上がるか、誰にも予想はできないだろう。
1979年、ソ連軍はアフガニスタン(当時、共産主義のアフガニスタン人民民主党が政権を握っていた)に侵攻した。
これは、1988年のソ連軍撤退まで足掛け10年にわたって続く戦争のはじまりである、というだけではない。
ソ連軍とアフガニスタン反政府勢力の戦闘は、アメリカがCIAによって20億ドル以上を秘密援助する他、ムジャヒディーンを名乗るイスラム義勇兵がイスラム各国から参戦した。
最終的に数百億ドルに値する兵器と物資がアフガニスタンへ流入したのみならず、ムジャヒディーンはタリバンへと変貌し、その後の内戦、そしてアメリカ軍のアフガン侵攻へと戦火は絶え間なく続いている。
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夕焼けの写真とか、結構好きなんだよなぁ。
海の写真はケッコーあるんだ。
もちろん、他の写真と比べておっつかっつのデキだけど。
どんな風に料理するか、決め次第はじめるからヨ。