おヒマでしたら、11月のフツーの生き物たち 10もご覧ください。
「フツーの生き物たち」、今回も昨年の11月にフツーに見掛けた生き物たちです。
ネコとトリ
2006年11月28日、笠利町屋仁(やに)にて撮影。
さて今回も、誰も頼んでないけど勝手にアヤシイ国際情勢解説です。
ヨーロッパの歴史を紐解くと、そこには2,500年も昔から《民族対立》というのが渦を巻いている。
ギリシャ文明が華やかなりし時代、ギリシャ人は地中海を庭として、海岸沿いに幾つもの都市国家を建設した。
現代においても、その時代から続いている都市が幾つもある。
南フランスのマルセイユ、南イタリアのブリンディシはその代表格といっていい。
ギリシャ人たちは都市を建設し、奥地の土着民(現代ではフランス人とかイタリア人と呼ばれている)と交易していた。
その後、地中海の覇者はローマ人に取って代わり、ギリシャ人と比べれば内陸志向が強かった彼らは、ヨーロッパの中央部に住む蛮族たち(現代ではフランス人とかドイツ人とかスペイン人とかベルギー人とかオランダ人と呼ばれている)を征服して、《年貢》を取り立てるようになった。
ローマの衰退後は、元・蛮族のフランス人やドイツ人、あるいはフン族(中央アジアの遊牧民説があるが未確定)、チンギス汗の孫・バトゥ汗率いるモンゴル軍などがヨーロッパの支配権を争った。
ネコとトリ
2006年11月28日、笠利町屋仁(やに)にて撮影。
よく誤解されるのだが、ヨーロッパではフランス革命まで《国民国家》あるいは《民族国家》という概念はほとんどなく、殊に中世から近世にかけては《国民》にとって《国王》とは、『収穫が終わると年貢を取って行く軍隊の親玉』程度の存在でしかない。
そもそも《国民》という言葉自体が、当の国民にとって理解の外にあったということは憶えておいて欲しい。
従って、ドイツの王がフランス人であっても《国民》は、せいぜいが「今度の王様はコトバが通じないのね」と思う程度であり、そもそも《国民》が《国王》と会話することなどありえない事態でもある。
《国王》にとっての《国民》も同様の存在で、その中間にいくらか土着的な《貴族》という存在があるが、いずれにしろ、奪う・奪われるの2極関係が《国》を形づくり、国同士の関係もその延長線上にあったと理解していい。
それでも民族としての言語と生活慣習の違い、そして2,000年間の戦争が徐々に《国》という領域を形成し、ヨーロッパにおける曖昧な《国境》が形成されていった。
そして、そのヨーロッパにもっとも遅れて参加したのがロシアである。
カエル
2006年11月16日、奄美市名瀬おがみ山公園にて撮影。
いみじくもアメリカのラムズフェルド国防長官に「古いヨーロッパ」と呼ばれたフランスとドイツは、このヨーロッパの陣取り合戦で常に中心的な役割を果たし続けていた。
今回のグルジア・ロシア紛争でも、もっとも精力的に動き回っているのがフランスのサルコジ大統領だ。
しかし、ここではさらに歴史のおさらいを続ける。
ロシアが本格的にヨーロッパの歴史に参加したのが、ナポレオンのモスクワ遠征である。
もちろん、それ以前にも隣国のポーランドやフィンランドとの領土紛争や、北ヨーロッパの覇権を確立したがったスウェーデンやデンマークとの絡みで登場したことはある。王族や貴族同士の通婚もあった。
しかしながら、《全ヨーロッパの覇権・支配》を争う戦争にロシアを巻き込んだのは、ナポレオンがはじめてであった。
1812年にナポレオンはロシア征服を目指して、支配下のポーランド、イタリア、ドイツからも兵力を集めて開始した戦争は、1812年の戦役と呼ばれる。
戦争の推移は、煩雑になるので割愛するが、フランスを盟主とした連合軍は約50万の死者を出し、ロシア軍は約45万が戦没したとされる。
それ以上に大きかったのが、戦闘に巻き込まれたり、あるいは内通を疑われて犠牲となったロシアの一般人である。
歴史家は、ナポレオンの侵攻から撤退までの6ヶ月間に『数百万が犠牲となった』と推断している。
ジョロウグモ
2006年11月5日、奄美市名瀬おがみ山公園にて撮影。
130年後、アドルフ・ヒトラーに率いられたドイツ第3帝国も、ナポレオンのフランス帝国と同じ運命を辿る。
こちらも詳細については割愛し、戦死者と犠牲者の数だけを統計的に列記するだけに留める。
ドイツ側戦死者・約400万、ソ連(ロシアとは呼べないので)軍戦死者および一般人の犠牲者・約1500万(2000万、あるいは2700万という説もある)。
この2つの戦争の経験(ならびに各戦争後のプロパガンダ)が、ロシア(ソ連)国民の《ヨーロッパ恐怖症》を生み出した。
マルハナバチの仲間
2006年11月5日、宇検村宇検(うけん)にて撮影。
その一方、第2次大戦の以前から、ヨーロッパの各国はソ連が主導する共産主義の浸透に脅えていた。
いささか極端な例だが、1930年代にドイツでのナチスの台頭に対して『共産主義よりはマシだろう』と容認する姿勢を見せていた政治指導者が各国にいたことは事実である。
これが冷戦の時代となり、お互いの情報が制限されるようになると、お互いの疑心暗鬼は加速度的に増大して行くことになる。
しかし、冷戦という重圧からの解放は《民族主義の台頭》という副産物を生み出した。
また、ロシアはソ連の負の遺産とも言うべき数千発の核弾頭を今も保有している。
これらの不安定要素を背景に、アメリカはNATOとしての《ミサイル防衛構想》を推進している。
この《ミサイル防衛》の一翼を新たに担う国としてポーランドがアメリカとの基本合意に達したのが8月14日。
時系列的にはロシアによるグルジア侵攻よりも後のことになるが、4月には政治的合意には達していたということである。
もちろん、この時点でロシアは強い嫌悪感を示している。
前回の続きということで「ちょっと歴史のおさらい」と思ったら、予定以上に長くなりましたな。
次回も、このメンド臭い話が続く予定です。
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「フツーの生き物たち」、今回も昨年の11月にフツーに見掛けた生き物たちです。
ネコとトリ
2006年11月28日、笠利町屋仁(やに)にて撮影。
さて今回も、誰も頼んでないけど勝手にアヤシイ国際情勢解説です。
ヨーロッパの歴史を紐解くと、そこには2,500年も昔から《民族対立》というのが渦を巻いている。
ギリシャ文明が華やかなりし時代、ギリシャ人は地中海を庭として、海岸沿いに幾つもの都市国家を建設した。
現代においても、その時代から続いている都市が幾つもある。
南フランスのマルセイユ、南イタリアのブリンディシはその代表格といっていい。
ギリシャ人たちは都市を建設し、奥地の土着民(現代ではフランス人とかイタリア人と呼ばれている)と交易していた。
その後、地中海の覇者はローマ人に取って代わり、ギリシャ人と比べれば内陸志向が強かった彼らは、ヨーロッパの中央部に住む蛮族たち(現代ではフランス人とかドイツ人とかスペイン人とかベルギー人とかオランダ人と呼ばれている)を征服して、《年貢》を取り立てるようになった。
ローマの衰退後は、元・蛮族のフランス人やドイツ人、あるいはフン族(中央アジアの遊牧民説があるが未確定)、チンギス汗の孫・バトゥ汗率いるモンゴル軍などがヨーロッパの支配権を争った。
ネコとトリ
2006年11月28日、笠利町屋仁(やに)にて撮影。
よく誤解されるのだが、ヨーロッパではフランス革命まで《国民国家》あるいは《民族国家》という概念はほとんどなく、殊に中世から近世にかけては《国民》にとって《国王》とは、『収穫が終わると年貢を取って行く軍隊の親玉』程度の存在でしかない。
そもそも《国民》という言葉自体が、当の国民にとって理解の外にあったということは憶えておいて欲しい。
従って、ドイツの王がフランス人であっても《国民》は、せいぜいが「今度の王様はコトバが通じないのね」と思う程度であり、そもそも《国民》が《国王》と会話することなどありえない事態でもある。
《国王》にとっての《国民》も同様の存在で、その中間にいくらか土着的な《貴族》という存在があるが、いずれにしろ、奪う・奪われるの2極関係が《国》を形づくり、国同士の関係もその延長線上にあったと理解していい。
それでも民族としての言語と生活慣習の違い、そして2,000年間の戦争が徐々に《国》という領域を形成し、ヨーロッパにおける曖昧な《国境》が形成されていった。
そして、そのヨーロッパにもっとも遅れて参加したのがロシアである。
カエル
2006年11月16日、奄美市名瀬おがみ山公園にて撮影。
いみじくもアメリカのラムズフェルド国防長官に「古いヨーロッパ」と呼ばれたフランスとドイツは、このヨーロッパの陣取り合戦で常に中心的な役割を果たし続けていた。
今回のグルジア・ロシア紛争でも、もっとも精力的に動き回っているのがフランスのサルコジ大統領だ。
しかし、ここではさらに歴史のおさらいを続ける。
ロシアが本格的にヨーロッパの歴史に参加したのが、ナポレオンのモスクワ遠征である。
もちろん、それ以前にも隣国のポーランドやフィンランドとの領土紛争や、北ヨーロッパの覇権を確立したがったスウェーデンやデンマークとの絡みで登場したことはある。王族や貴族同士の通婚もあった。
しかしながら、《全ヨーロッパの覇権・支配》を争う戦争にロシアを巻き込んだのは、ナポレオンがはじめてであった。
1812年にナポレオンはロシア征服を目指して、支配下のポーランド、イタリア、ドイツからも兵力を集めて開始した戦争は、1812年の戦役と呼ばれる。
戦争の推移は、煩雑になるので割愛するが、フランスを盟主とした連合軍は約50万の死者を出し、ロシア軍は約45万が戦没したとされる。
それ以上に大きかったのが、戦闘に巻き込まれたり、あるいは内通を疑われて犠牲となったロシアの一般人である。
歴史家は、ナポレオンの侵攻から撤退までの6ヶ月間に『数百万が犠牲となった』と推断している。
ジョロウグモ
2006年11月5日、奄美市名瀬おがみ山公園にて撮影。
130年後、アドルフ・ヒトラーに率いられたドイツ第3帝国も、ナポレオンのフランス帝国と同じ運命を辿る。
こちらも詳細については割愛し、戦死者と犠牲者の数だけを統計的に列記するだけに留める。
ドイツ側戦死者・約400万、ソ連(ロシアとは呼べないので)軍戦死者および一般人の犠牲者・約1500万(2000万、あるいは2700万という説もある)。
この2つの戦争の経験(ならびに各戦争後のプロパガンダ)が、ロシア(ソ連)国民の《ヨーロッパ恐怖症》を生み出した。
* 対独戦時代のソ連の法により、ドイツ軍に食糧を強奪された農民に対して『敵への協力』の名目で銃殺などの刑罰が科されたとの説があり、相当数の犠牲者が出たとされている。《ヨーロッパ恐怖症》の産物が、東西ドイツの分裂であり、東ヨーロッパのソ連衛星諸国(ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー等の共産主義国家)であり、冷戦である。
もちろんソ連の公式記録では、こうした非戦闘員の《犠牲者》は、全員が『ドイツ軍と勇敢に戦った末に殺された勇気ある農民たち』である。
また、ドイツ軍の侵攻当初からパルチザンと呼ばれた共産主義ゲリラ部隊の存在も忘れてはならない。
パルチザンの兵力は約6万と多くはなかったが、ドイツ軍はこの軍服を着ない部隊にかなり悩まされた様子で、ゲリラと疑われた一般市民が相当数、犠牲になったものとされている。
また、ドイツ軍侵攻地域に在住のユダヤ人50万人前後が犠牲になったともいう。
マルハナバチの仲間
2006年11月5日、宇検村宇検(うけん)にて撮影。
その一方、第2次大戦の以前から、ヨーロッパの各国はソ連が主導する共産主義の浸透に脅えていた。
いささか極端な例だが、1930年代にドイツでのナチスの台頭に対して『共産主義よりはマシだろう』と容認する姿勢を見せていた政治指導者が各国にいたことは事実である。
これが冷戦の時代となり、お互いの情報が制限されるようになると、お互いの疑心暗鬼は加速度的に増大して行くことになる。
* 1945年から1989年まで続いた冷戦の時代には、《鏡の論理》と呼ばれる独特な思考法が主要国の間で用いられた。1989年に始まる《社会主義圏の崩壊》は冷戦を終結させ、ヨーロッパはその長い歴史において稀な平和を手にしたかに見えた。
これは、「自分がやっていることは相手もやっているだろう」というものであり、それが一部タカ派により「相手はもっと大規模でやっているに違いない」と主張されることになる。
すなわち、《国外への出兵》を、たとえ仮定であっても計画すれば、「相手は先制攻撃を計画しているはずだ」、「明日にも攻めてくるかもしれない」ということになる。
この時代の米ソとヨーロッパを考える際、こうした《憶測による恐怖の増幅》を忘れてはならない。
しかし、冷戦という重圧からの解放は《民族主義の台頭》という副産物を生み出した。
また、ロシアはソ連の負の遺産とも言うべき数千発の核弾頭を今も保有している。
これらの不安定要素を背景に、アメリカはNATOとしての《ミサイル防衛構想》を推進している。
この《ミサイル防衛》の一翼を新たに担う国としてポーランドがアメリカとの基本合意に達したのが8月14日。
時系列的にはロシアによるグルジア侵攻よりも後のことになるが、4月には政治的合意には達していたということである。
もちろん、この時点でロシアは強い嫌悪感を示している。
前回の続きということで「ちょっと歴史のおさらい」と思ったら、予定以上に長くなりましたな。
次回も、このメンド臭い話が続く予定です。
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