【人生をひらく東洋思想からの伝言】
第63回
「人間万事塞翁が馬」(淮南子)
この言葉は、どこかで聞いたことがある言葉かと思います。
「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」
この言葉を座右の銘にする方も多いようで、元プロ野球選手の松井秀喜さんもそうだと、
あるインタビューで仰っていました。
先日、ワールドカップ2022の初戦で日本がドイツに勝利した後、
森保監督はじめ、選手の方々が口をそろえて、
「嬉しいですが、これに一喜一憂(いっきいちゆう)せずに、次の試合に向けて頑張りたいとい思います!」
と話されていたのを聞いて、それに近い東洋思想の言葉は何かを思い出して、
今回ご紹介することにしました。
それでは、この言葉の出典やその時代背景を少し見ていきましょう。
古代中国、紀元前2世紀頃、前漢の時代の思想書で
「淮南子(えなんじ)」の第18巻人間(じんかん)訓からの引用です。
ですので、正式の読み方は、「にんげん」ではなく、
「じんかん」だという説もあるようですが、一般的には「にんげん」と読むことが多いので、
ここでは、“にんげん”ばんじ と読まさせていただきます。
当時の時代背景としては、春秋戦国時代を終え、中華を統一した秦が滅んだ後、
中国で複数の派閥が生まれ始めた混乱を極める時代です。
淮南子は、道家の思想を組んだ、人生訓などが多いのが特徴かと思います。
一般的に知られている話の内容としては、このような話になります。
その昔、中国の北辺に占いに長けた塞(さい)さんという老人(翁)が住んでいたそうです。
ある日、そこで飼っていた馬が逃げ出してしまいます。
同情した村人に対して、塞さんは、「この出来事が福を招くかもしれない」と言いました。
すると、そのうち、逃げ出した馬が駿馬(しゅんめ:足の速い馬の事)を連れて戻ってきたのです。
沢山の駿馬がやってきたことに村人は喜びますが、
老人は、今度は「これは、禍(わざわい)となるかもしれない」と発言したのでした。
すると、後日、駿馬に乗っていた老人の息子が落馬して、
足の骨を折ってしまう事件が発生しました。これも、村人は憐(あわれ)みましたが、
老人は今度も「これが幸福を呼ぶかもしれない」と言いました。
それから、1年後、戦争のため頑健な男子はすべて兵役につくことになりましが、
骨折していた老人の息子は徴兵を免(まぬが)れ、親子ともども命拾いしたという話です。
この話の教訓から、「人生は何が「福」となるか「禍」となるかはわからず、
予測がつかないことである」といような意味合いとしてこの教訓が紹介されるようになりました。
一般的には、この教訓は「人生何があるかわからないから、最期まで諦めるな、
一喜一憂するな」という意味合いやとして使われることが多いように思います。
ちなみに、『淮南子』の「人間訓」の章の冒頭部分においては、
「禍が来るというのも福が来るというのも、すべて人間が自ら作り出すことである。
禍と福とは同じ門から入り、利と害とは隣同士にあるのであるから、
聖人でなければこれを区別することはできない」と書かれています。
そもそも、この書物では、こうした禍と福、といった概念自体が、
常に表裏一体になっているので、一つ一つの出来事の表面的な禍福に
と囚(とら)われないことが大事だという教訓として伝えられています。
最後に、本質的な事を日頃ご指導して頂いている前田知則さんから教わった話が、
私としては一番しっくりくるので、そのお話をご紹介にさせていただきます。
前田さんは、このように解説しています。『人間万事塞翁が馬』の話は、
「おおそうか」と事実だけを観ている塞さんと、「幸福だ」「不幸だ」と解釈して、
プラスとマイナスを行ったり来たりしている村人の物語だと。
塞さんは、「馬が逃げただけだ」「別の馬を連れてきただけだ」と事実だけを観ていました。
そして、「塞さんの馬が良い馬を連れてきて良かったね。幸せだね」という村人に対して、
心の中で「それは本当の事?本当は馬が馬を連れてきただけだよ」と言っていたのです。
連れてきた馬を調教しようとした息子が落馬して怪我したときも、
「不幸だね」という村人をよそに、塞さんは、
「それは本当の事?息子が馬から落ちてけがをしただけだよ」と
事実だけを観ていたのです。その物事の本質的な視点がすごく大事かと思われます。
目の前の出来事に振り回されずに、事実だけに目を向けて余計な解釈をしないということが、
我々にはとても大切かと思われます。
参考文献
『運命を開く』安岡正篤著 プレジデント社
小冊子『心のデトックス~楽に楽しく生きるコツ~14』前田知則監修
らくらくライブネット編集部