ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

徒歩で旅

2009-07-11 23:30:41 | 昔話
 海岸の松林を徒歩で歩いているお遍路さん達がいる。そしてその後ろにボンネットバスが写っています。もちろんこの時代には海岸には堤防はなく、現在より幅広い砂浜が広がっていたはずです。
昭和初期の奈半利町六本松の写真です。

 さて四国遍路がいつどの様に成立したかどうかは、今は問わないことにして、近世前期にはすでに大いに盛んであったようです。
 四国遍路が厄介者として藩政の問題点になるのは宝暦(18世紀中頃)以後でした。規制する法令はこの時代集中的に出されています。
 もちろん藩が遍路を厄介者扱いをしたのは、政治的な理由ではなく、行き倒れ等の場合の負担を嫌ったからと考えられています。それだけ多かったんですね。

 遍路は庶民に許された唯一の旅路で、札所と札所を結ぶ道はにぎわっていたのです。
 江戸時代では現在のように、「ちょっと観光」ってわけには行かなかったのです。何しろ旅をするのには公的な手形(許可証)が必要だったのです。

 21世紀の遍路旅は、昔ながらの歩き遍路が増えているように思います。
 外国の女性の一人旅までいるようですから。これからの高知県の観光産業にとっても一翼をになうようなことになりそうです。世界中にこんな道はないかもしれませんね。歩いて回るお遍路さんを住民が見守っているのです。何百年もそうしてきたのですから貴重です。

 ただ遍路道は甲浦から幡多郡の松尾坂まで78里とされ、本街道の57里よりかなり長いのです。直線的に移動する本街道に比べ、寺から寺へ移動する遍路道の特性によるものです。

 また、遍路の旅に付随して旅籠の原型のようなものが発生していたことは、面白いと思います。それらの旅籠を徐々に行商人なども利用するようになるのです。
 
 

安芸

2009-07-11 17:16:22 | 昔話
 何で「あき」って言うんだろう。地名の話です。

 ぺらぺらと本をめくっていたら、あき(安芸)の項目がありました。

 土佐湾の東南部をのぞむ。アは接頭語、キは部族名。
 「古事記」の記述に「この御世に海部を定め賜ひき・・・」。とあるように海人部の連(むらじ)のひきいる南方系の海洋民族ア芸・族説がある。天皇につかえ、欽明朝のころ台頭し土佐、阿波、淡路、吉備などに分布した。
 アキは広島県にもある。

 土佐の安芸は、もと安喜と書き安芸郡下八郡のうち四郡を安芸平野でしめた。

 そうか。南の国から黒潮に乗って、この土佐の国に渡ってきた人たちがいたのかア。それがキ族だったから、アキ。

 ありそうな話です。なるほど。

 1500年近く前の話です。どんな船だったんだろう。
 どれぐらいかけて来たんだろう。
 勇気あるなあ。
 当然言葉は違っていたろうなあ。

 あの当時、中国・朝鮮からの渡来人もたくさんいたはずですから、南から来ても不思議じゃあない。

 ということになると、単一民族日本てのは???。

 勝手なことを考えております。

今日はこんな本を読んでおりました。けっこう面白かったですよ。