海岸の松林を徒歩で歩いているお遍路さん達がいる。そしてその後ろにボンネットバスが写っています。もちろんこの時代には海岸には堤防はなく、現在より幅広い砂浜が広がっていたはずです。
昭和初期の奈半利町六本松の写真です。
さて四国遍路がいつどの様に成立したかどうかは、今は問わないことにして、近世前期にはすでに大いに盛んであったようです。
四国遍路が厄介者として藩政の問題点になるのは宝暦(18世紀中頃)以後でした。規制する法令はこの時代集中的に出されています。
もちろん藩が遍路を厄介者扱いをしたのは、政治的な理由ではなく、行き倒れ等の場合の負担を嫌ったからと考えられています。それだけ多かったんですね。
遍路は庶民に許された唯一の旅路で、札所と札所を結ぶ道はにぎわっていたのです。
江戸時代では現在のように、「ちょっと観光」ってわけには行かなかったのです。何しろ旅をするのには公的な手形(許可証)が必要だったのです。
21世紀の遍路旅は、昔ながらの歩き遍路が増えているように思います。
外国の女性の一人旅までいるようですから。これからの高知県の観光産業にとっても一翼をになうようなことになりそうです。世界中にこんな道はないかもしれませんね。歩いて回るお遍路さんを住民が見守っているのです。何百年もそうしてきたのですから貴重です。
ただ遍路道は甲浦から幡多郡の松尾坂まで78里とされ、本街道の57里よりかなり長いのです。直線的に移動する本街道に比べ、寺から寺へ移動する遍路道の特性によるものです。
また、遍路の旅に付随して旅籠の原型のようなものが発生していたことは、面白いと思います。それらの旅籠を徐々に行商人なども利用するようになるのです。
昭和初期の奈半利町六本松の写真です。
さて四国遍路がいつどの様に成立したかどうかは、今は問わないことにして、近世前期にはすでに大いに盛んであったようです。
四国遍路が厄介者として藩政の問題点になるのは宝暦(18世紀中頃)以後でした。規制する法令はこの時代集中的に出されています。
もちろん藩が遍路を厄介者扱いをしたのは、政治的な理由ではなく、行き倒れ等の場合の負担を嫌ったからと考えられています。それだけ多かったんですね。
遍路は庶民に許された唯一の旅路で、札所と札所を結ぶ道はにぎわっていたのです。
江戸時代では現在のように、「ちょっと観光」ってわけには行かなかったのです。何しろ旅をするのには公的な手形(許可証)が必要だったのです。
21世紀の遍路旅は、昔ながらの歩き遍路が増えているように思います。
外国の女性の一人旅までいるようですから。これからの高知県の観光産業にとっても一翼をになうようなことになりそうです。世界中にこんな道はないかもしれませんね。歩いて回るお遍路さんを住民が見守っているのです。何百年もそうしてきたのですから貴重です。
ただ遍路道は甲浦から幡多郡の松尾坂まで78里とされ、本街道の57里よりかなり長いのです。直線的に移動する本街道に比べ、寺から寺へ移動する遍路道の特性によるものです。
また、遍路の旅に付随して旅籠の原型のようなものが発生していたことは、面白いと思います。それらの旅籠を徐々に行商人なども利用するようになるのです。