ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

民権派実業家

2009-07-29 14:27:01 | 高知県東部人物列伝
 才吉は、奈半利町立町の商人濱田覚右衛門の子として嘉永3年(1850年)1月7日に生まれます。屋号は高田屋。藩政時代から樟脳の製造や仲買を家業としていたのです。才吉は、高知等での修行を終え、明治10年頃から家業に従事するようになるのですが、時代が後押しをしてくれます。樟脳の製造技術に画期的な進展があったようなのです。飛躍的に生産量が増大したのです。さらにもって生まれた商才でしょう、大阪等での営業活動に取り組むことで実績を上げてゆきます。

 それからです。高田屋の多角経営が始まります。樟脳で得た利益を田畑山林の購入資金に当て,そしてそれらの土地を小作人等に貸し出すことで年間600石の加地子(小作米)(1500俵=90トン)を得ることになるのです。さらにその米を使って酒造業に着手、酒の販売、仲買まで幅広く拡大をしてゆくのです。
 そして山林を利用して製材業とか、もちろん樟脳の製造も販売も続けていたのです。
 資料は言います。「才吉の経営事業の種類やその規模をすべて明らかにすることは出来ない。」と・・。
 ただ、結果がその規模を証明しています。
 明治11年10月28日に高知に開業した第八十国立銀行の株主姓名表に才吉の名前を見ることが出来るのです。この銀行資本金は10万円。才吉は明治22年には株主順位2位となり取締役になっているのです。
 さて、才吉と政治活動、特に自由民権活動についてですが、当初まだ父のもとで商業の見習いをしていたおり、明治初年に政治結社「回天社」に修行に出ているのです。社長の谷重仲から経史やら法律を学んだようです。父覚右衛門さんもそうした政治活動に関心があったのでしょう。そうでなければ跡取り息子を預けるはずがないからです。
 彼はここで、人と人を言論活動でまとめてゆくすべを身に着けてゆくのです。
 そして、地方自治を保障するのが地域経済の活力であることに気づくのです。
 彼が自由民権運動に参加しはじめた時期は、日本における運動の黎明期といえます。樺山資紀文書の「高知県下自由主義と称する各社一覧表」のなかに政治結社でしょうか、「有隣社」副社長として浜田才吉の名前が見えるからです。さらに明治24年の高知県議会議員選挙において当選。しかしながら、明治26年11月1日突然逝去するのです。
 そう、濱田才吉は、「竹崎才吉」と改姓しているのです。今後の研究課題です。
 それに、樺山文書の表題「・・自由主義と称する各社一覧」の称するという表現。面白いですね。いかにも官僚的というか・・。陰湿な意味を含んでいます。
 樺山資紀は当時の警察庁長官。高知県には関係ないものの、随筆家故白州正子さんの祖父です。
 時の政府権力が民権運動をどの様に見ていたのか、想像がつきますね。

 竹崎才吉が生きた時代は、高知県東部地域が最も元気だった時代、明るい未来を実感できた時代と言えるのではないでしょうか。
 高田屋さんは現在も奈半利の真ん中で蔵・屋敷を誇っています。
 

街道の騒動

2009-07-29 11:02:00 | 野根山街道物語
 野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。

 参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。

 一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。
 さらに、土地土地の長者達の気苦労は相当なものであったそうな。

 それより困ったのが、巡検使の一行でした。記録によれば野根山山中で大雨にあい、岩佐の関所で止宿することになるのです。巡検使のお付の藩の役人やら荷運びの人夫やら、こちらも100人ほどの行列であったそうな。
 山の中の小さな関所に大勢が突然、止宿する。殿様も遠慮するような身分の方々がです。緊張したのでしょう近在の住民の負担も大変であったといわれています。
 どこに止めるの、食事は??。あわてたでしょうね。

 道を譲って灘周りの殿様の一行。こちらも野根山が大雨ですから、風は吹き、波は荒れ、船は出せず、歩いての旅は遍路状態だったのです。

 こうした事件もあってか、これから参勤交代の順路は「北山越え」に変化することになります。

 天気予報はなかったのですし、普段いつもあることではないのですが、しんどかった事でしょう。お世話をする側にとっては、野根山街道は苦役の道だったのです。