9人兄弟の5番目、13歳の時、家計を助けるために働きに出た。北海道生まれの私のお義母さん。17歳で桐生の山奥に嫁いだ。毎日、朝の3時から、しゅうとと炭焼きに、山へ行って働いた。夫はすぐに戦争に行き、こずかいもなく、毎日、大家族の中で働いた。20歳までの3年間で、夫は2回帰省し、1度目の赤ちゃんは、町の医者へ8キロの道を一人で歩いていく途中で、不安の中で失った。2度目の赤ちゃんは、おなかの中で安定したころに、夫の戦死を知らされた。お義母さんは、家の奥の納戸で3日間泣き過ごしたという。その後”孫は家の子、嫁は他人と言われ、家を出て再婚した。”あの時子供を自分の手で育てさせてくれたら再婚しなかった”。”夫の戦死を知らされた時のことを考えたら、何があっても平気だよ”。19歳で結婚した私は、お義母さんとたくさんのお話をした。たくさんのこと教えて頂いた。”おばあちゃんがダメかもしれない”と私の長男が電話をくれた時、星空に祈りました。手をあわせて。少しでも苦しみませんように。お世話ができますように。12月31日、たまたま妹が見守っていた日、私が病院に着いて4時間後、ずっとさすっていたお義母さんの足が冷たくなって、ひとつの命が終わった。離婚してから10年、たった3回だけお会いした。3回目私を待っていてくれました。(坂口せつ子)
2001年(平成13年)3月15日木曜日発行高崎市民新聞転載
2001年(平成13年)3月15日木曜日発行高崎市民新聞転載