普段から、よく夫に言われることが、
「イエスさまを見上げて、信頼し委ねたらいいよ。」
なのですが、調子が悪くて落ち込んでしまうと、見上げ方を忘れてしまいます。
夫の場合は、毎日の習慣のお祈りを始めると、
段々、この世の事から切り離されて、イエスさまの恵みに入れるらしいです。
ところが、その習慣を持たない私は、(同じようにしても、形式的になってしまう)
なかなか立ち返り、委ねて平安を得る事が難しいのです。
病状が悪くなると尚更、自分に囚われてしまい、穴蔵の中にいるようです。
先日も、この負の連鎖に入りそうになりましたが、
ふと、お風呂に入ろうと思い、湯船に浸かりながら、
神さまを礼拝しました。
その時、私が過去にどのような気持ちで、イエスさまの元に帰ったかを、
ふと思いだしました。
私は、取るに足りない者だから、せめてイエスさまの御衣にでも触れば!
子犬でもテーブルの下のパンくずは頂きます!
この2つの信仰でした。
「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」
(マルコによる福音書 5:28 )
人それぞれ、イエスさまに近づき方があるように思います。
大事なことは、いつもその原点に帰る事かな、と思います。
マリアのように、香油を注ぐ人もいるでしょう。
放蕩息子のように、帰る人もいます。
それぞれにどんな方法でもいいと思います。
イエスさまは、温かくその信仰を認めて受け入れて下さいます。
それがどんなに小さな信仰でも、他者には見えないほどのものでも。
そして、きっかけさえ掴めていれば、迷子になってもすぐに帰れます。
私は、主の服の裾をしっかり掴んで着いて行こうと思います。
実際は、神さまの方がちゃんと私を捕まえて下さっているのですが。
感謝ですね~
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