私は、人に誤解されたり、人に理解されない事がとても悔しい性質でした。
ドラマでも誤解を受けたまま、死んでしまった話しや、
誤解されたまま、投獄された話しになると悔しくてたまりませんでした。
ドラマを観ていてもそうですから、まして自分が誤解を受けた時などは、
声を大にして思いっきり!弁明したものです。
また、自分のした事が誰にも評価されない事も腹立たしく思うタイプでした。
実力もないのに、人の上に立つのも好きな方でしたし、
自分に自信がないので、自慢もよくしていました。
ですが、最近ふと気付いた事は、
「私の事や、私のした事が誰にも評価されなくてもいいや」
と、自然に思っている事です。
もし誰にも知られずひっそりと生きて、ひっそりと死んでもいいな…。
もし今、ちょっとでも何か出来ているとしたら、それは神さまの恵み。
そして誰からも感謝されなくても私は幸せだと。
もちろん根底には、イエスさまが全てを知っておられるから。
と言う事があるのですが、
それよりも強く思うようになったのは、イエスさまの愛の中にいるなら、
他のモノは、いらないなって事でしょうか。
人からの賞賛も、人からの感謝も、認められることも…。
人気のない谷底で咲く一輪の花のように、ただひっそりと咲くのもいいな。
私の目の前にイエスさまが居て下さっているなら、
そこが私の最高の場所だと思えます。
神さまは、隠れた事と隠れた場所を喜んで下さいます。
ちょっとだけ、ホントのクリスチャンになったらしいです。
「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、
戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」
(マタイによる福音書 6:6)
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