最近聞いたメッセージから、
神さまを畏れると言う事は、「慎み深く生きる」と聞きました。
そして、慎み深く生きると言うのは、
今の状況を自分の努力の結果と思わず、
身に余る恵みだと思い、感謝することだと言う事です。
凄い業績を挙げた時だけではなく、当たり前の普通の生活にも、
今の状況を感謝して、身に余る恵みと思うことだそうです。
私はかつて、とても高ぶりやすくて自慢屋でした。
何か出来た時には高ぶり、出来なかった時には凹みました。
この落ち込みも、やはり高ぶりの裏返しでした。
しかし、自分の力に信頼することを止めた時から、
私は、高ぶりとも切り離されました。
もし何か成し遂げたとしても、私の業績ではありません。
全て神さまの恵みだと知ったからです。
もし、失敗したとしても反省はしても落ち込むことはありません。
こんな私が、本来の私なんですから。
こんな私でも、許され愛されている恵みに感謝します。
十字架は、どうにもならない自分の自我と切り離して下さるんです。
自分の力では、謙遜に絶対なれないと分かった日から、
神さまから与えられる恵みに目が開かれたのです。
慎み深く、今ある所で平安をもって生きて行きたいです。
ハレルヤ!!!
神さまを畏れると言う事は、「慎み深く生きる」と聞きました。
そして、慎み深く生きると言うのは、
今の状況を自分の努力の結果と思わず、
身に余る恵みだと思い、感謝することだと言う事です。
凄い業績を挙げた時だけではなく、当たり前の普通の生活にも、
今の状況を感謝して、身に余る恵みと思うことだそうです。
私はかつて、とても高ぶりやすくて自慢屋でした。
何か出来た時には高ぶり、出来なかった時には凹みました。
この落ち込みも、やはり高ぶりの裏返しでした。
しかし、自分の力に信頼することを止めた時から、
私は、高ぶりとも切り離されました。
もし何か成し遂げたとしても、私の業績ではありません。
全て神さまの恵みだと知ったからです。
もし、失敗したとしても反省はしても落ち込むことはありません。
こんな私が、本来の私なんですから。
こんな私でも、許され愛されている恵みに感謝します。
十字架は、どうにもならない自分の自我と切り離して下さるんです。
自分の力では、謙遜に絶対なれないと分かった日から、
神さまから与えられる恵みに目が開かれたのです。
慎み深く、今ある所で平安をもって生きて行きたいです。
ハレルヤ!!!
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