他人の怒りには、責任はない。
他に言い換えるならば、他人の機嫌には責任がない。相手が怒っていようが、いらだっていようが、不機嫌であろうと、自分には関係はないのだ。
勿論、自分が犯した過ちや自分が相手を傷つけた場合は別である。
しかし、不思議な事に身近な人が怒っていたり、不機嫌だったり、いらだっていると不愉快なのは当然の事ながら、自分に非があったのだろうかと心配になり、ご機嫌を取ってしまったり、原因を考えたりしてしまいがちだ。
相手は勝手に怒っているのかも知れないし、他の誰かや、別のややこしい問題でいらだっているのかも知れない。もしかして、単に気分が悪いだけなのかも知れない。はっきり言って、自分とは全く!関係のないところで感情的になっているだけなのかも知れないのだ。
それでは、どうして自分に関係があるのではないか?と心配してしまうのは、その相手と自分とが違う人格「個」であると言う、はっきりした認識が薄いかららしいのだ。
小さい頃から「他人」「自分」の区別をつけ難い状況で育てられて来た私たちは、身近な人…特に親の機嫌を取って生きて来た。それが大人になってから、身近な上司や両親、配偶者やはたまた子供にまで、ご機嫌を取る人が現れる。
しかし、その事事態はその人に責任はない。なぜならその頃私たちは、その人達がいないと、生きていけない状況にあったからだ。自分とは関係なくても、ご機嫌を伺わないと生きていけない関係…本当の意味で弱者だったのだから。
でも、どこかでその歪んだ認識を修正して、正しい「個」意識をもって、他人との関係を築いて行く必要がある。でなければ、大袈裟に言えば、一生他人の奴隷で居なくてはならなくなる。しかし、もしこの関係を修正し、正しい自己認識を持つ事が出来るようになれば、かなり弱らされた「心の筋肉を鍛えることが出来る」チャンスとなるのだ。
しかし、人は一人では生きていけない存在だ。私達が正しい他人との関係を築いて、かつ「個」であるためには、私達を愛して個人的な交わりを持って下さる、神さまの存在が不可欠なのだ。なぜなら、いつも変わらない愛で愛して下さるイエスさまを抜きにして、他人を心底から許す事が出来ないからだ。
他に言い換えるならば、他人の機嫌には責任がない。相手が怒っていようが、いらだっていようが、不機嫌であろうと、自分には関係はないのだ。
勿論、自分が犯した過ちや自分が相手を傷つけた場合は別である。
しかし、不思議な事に身近な人が怒っていたり、不機嫌だったり、いらだっていると不愉快なのは当然の事ながら、自分に非があったのだろうかと心配になり、ご機嫌を取ってしまったり、原因を考えたりしてしまいがちだ。
相手は勝手に怒っているのかも知れないし、他の誰かや、別のややこしい問題でいらだっているのかも知れない。もしかして、単に気分が悪いだけなのかも知れない。はっきり言って、自分とは全く!関係のないところで感情的になっているだけなのかも知れないのだ。
それでは、どうして自分に関係があるのではないか?と心配してしまうのは、その相手と自分とが違う人格「個」であると言う、はっきりした認識が薄いかららしいのだ。
小さい頃から「他人」「自分」の区別をつけ難い状況で育てられて来た私たちは、身近な人…特に親の機嫌を取って生きて来た。それが大人になってから、身近な上司や両親、配偶者やはたまた子供にまで、ご機嫌を取る人が現れる。
しかし、その事事態はその人に責任はない。なぜならその頃私たちは、その人達がいないと、生きていけない状況にあったからだ。自分とは関係なくても、ご機嫌を伺わないと生きていけない関係…本当の意味で弱者だったのだから。
でも、どこかでその歪んだ認識を修正して、正しい「個」意識をもって、他人との関係を築いて行く必要がある。でなければ、大袈裟に言えば、一生他人の奴隷で居なくてはならなくなる。しかし、もしこの関係を修正し、正しい自己認識を持つ事が出来るようになれば、かなり弱らされた「心の筋肉を鍛えることが出来る」チャンスとなるのだ。
しかし、人は一人では生きていけない存在だ。私達が正しい他人との関係を築いて、かつ「個」であるためには、私達を愛して個人的な交わりを持って下さる、神さまの存在が不可欠なのだ。なぜなら、いつも変わらない愛で愛して下さるイエスさまを抜きにして、他人を心底から許す事が出来ないからだ。
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