ふと、私がクリスチャンになった頃のことを思い出しました。
初めて教会に行ってから、一月ほど経った時に「特別集会」がありました。
宣教師の先生をお招きしての集会でした。
私は、聖書のお話しを「とても信じられない!」と思いつつも「信じたい!」
と、心から思っていました。
その時に語られた「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20:27)
との聖書の言葉で「信じてみよう!」と決心しました。
さて、次の日の朝…
私は、自分はクリスチャンになったのかな?と思っていました。
そして、いつものように朝ごはんを食べていて、
振り返ってお醤油を取ろうとした時、心の声がしました。
「あなたの罪は赦された…」
ん?何だろ?さっきのは何だろ?
すると急に溢れんばかりの喜びがドバーッと来て、
嬉しくて嬉しくてたまらなくなり、急いで教会に行きました。
平日だったので、伝道師の先生しかおられなかったのですが、
とても喜んで下さいました。
ですが、最近まで「あなたの罪は赦された」にはあまり気を留めていませんでした。
ふと考えてみると、その時私は罪に苦しんでいたつもりはなく、
赦されたい!と思っていた訳でもありませんでした。
ただ、自分も他人も人間は汚い者だと思ってはいましたし、
それと同時に理想主義者でもあったので、本物の愛とか清さに憧れていました。
本当の私の問題は、私の内にある罪だとは知りませんでした。
しかし神さまはご存じだったので、私に「あなたの罪は赦された」
と声をかけて下さったんだと思います。
罪が赦されることの大きな恵みは、後になってみると、
とても幸せなことで、身に余る光栄なことだと分かります。
そして、私の罪が赦されるためには、
イエスさまがどんなに大きな犠牲を払って下さったか?
ってことが、本当の意味で有り難くて有り難くて!たまりません。
十字架で見捨てられて下さったイエスさまの愛によって、私は引き上げられたんです。
イエスさまの十字架の上での、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15:34)
と言う言葉を、敗北宣言だと言う人たちがいますが、
イエスさまが私を救うためには、父なる神さまに見捨てられなければならなかったんです。
本来ならは、罪深い私が捨てられて当然でした。
ここに身代わりの死があります。身代わりの愛があります。
そして、3日目に蘇られました。私が「義」とされるためです。
赦されただけでもありがたいのに、「義」を頂きました。
今の幸せの全ては、イエスさまの十字架の愛の故です。
感謝です(^-^)
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