私はかつて謙遜と言う言葉が大嫌いでした。
それは、謙遜になろうとしてもなれなかったからです。
高慢って誰だって嫌だと思いますが、
勝手に高慢になり、謙遜は益々私から遠ざかりました。
「もっと謙遜になりなさい」
と言われても、もう私には謙遜が分からない状態でした。
そう言った訳で、私は謙遜と言う言葉も嫌になったんです。
散々な目に合って、遂に私は謙遜を諦めました。
「私の内には、謙遜など全く無い!!!」と。
その時、ああ。。。
謙遜はなるものじゃなくて、頂くものだと気づきました。
イエスさまの「謙遜」を頂くんです。
イエスさまは、私の身代わりに十字架で死なれました。
そして三日目に蘇って、私の身代わり?に生きて下さるんだと。
一つは身代わりの「死」で、もう一つは身代わりの「生」です。
ですから私は、イエスさまの謙遜を頂いて感謝して生きます。
私が完全に謙遜になったとか、全く高慢にならないとかでもありません。
でも、イエスさまの謙遜を頂いている限り高ぶる事はありません。
もう、謙遜についても高慢についても考えなくなりました。
これは、私にとっては素晴らしい解放でした。
だからと言って高慢になって良い訳ではありませんよね。
謙遜がいつも与えられるんです。
なので謙遜そうな振りをする必要もなくなりました。
へりくだりが分からなかった時には、振りをしていました。
高慢が来ても驚きません。私はそれと関係ないと知っているからです。
当時は苦しかったですが、今になってみると恵みでした。
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高慢って誰だって嫌だと思いますが、
勝手に高慢になり、謙遜は益々私から遠ざかりました。
「もっと謙遜になりなさい」
と言われても、もう私には謙遜が分からない状態でした。
そう言った訳で、私は謙遜と言う言葉も嫌になったんです。
散々な目に合って、遂に私は謙遜を諦めました。
「私の内には、謙遜など全く無い!!!」と。
その時、ああ。。。
謙遜はなるものじゃなくて、頂くものだと気づきました。
イエスさまの「謙遜」を頂くんです。
イエスさまは、私の身代わりに十字架で死なれました。
そして三日目に蘇って、私の身代わり?に生きて下さるんだと。
一つは身代わりの「死」で、もう一つは身代わりの「生」です。
ですから私は、イエスさまの謙遜を頂いて感謝して生きます。
私が完全に謙遜になったとか、全く高慢にならないとかでもありません。
でも、イエスさまの謙遜を頂いている限り高ぶる事はありません。
もう、謙遜についても高慢についても考えなくなりました。
これは、私にとっては素晴らしい解放でした。
だからと言って高慢になって良い訳ではありませんよね。
謙遜がいつも与えられるんです。
なので謙遜そうな振りをする必要もなくなりました。
へりくだりが分からなかった時には、振りをしていました。
高慢が来ても驚きません。私はそれと関係ないと知っているからです。
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