保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

中村医師による「自然死」の奨め…新しい“死に方(自殺を含む)”の提案

2012年08月25日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著者
72歳の現役医師、中村仁一氏によると、医学的に見て老い、つまり歳を取るということは
身体が壊れてきて具合の悪いところが出て来ることに他ならないと言います。

そして、基本的に病を治すのは人間が本来持っている自然治癒力であって
医療はそれを補助するものに過ぎないはずなのに
歳とともに衰えてしまった治癒力で治せない結果としての死に対してまでも
延命治療により医療が関与し過ぎだとも指摘しています。

その結果、現在の日本では老いに必ず医療が関わることになり
医療費支出を年々増大させながら、その先にあるのは確実な死にも拘らず
病名が付けられた病だから治るとして過度の期待を持ち過ぎているのだそうです。

ところで、筆者の長きに渡る医師の経験を基に、現在の医療行為の功罪を述べていますので
詳細は本をお読みいただくとして、こうした治療が“苦痛もなく楽に死ねる”ことを邪魔していると結論付け
死に結びつく医療的措置をどこまで受けるかの意志表示を生前に
明らかにしておく必要性を述べている点に着眼しないわけにはいきません。

中村医師は“事前”に次のような「指示書」を書くことを奨めています。

 

「医療死」より「自然死」が好みのため
意識不明や正常な判断力が失われた場合、下記を希望する。

(ボケた時はボケきる直前に“断食死”を敢行するつもりだがタイミングを外す場合も考慮して)

一.出来る限り救急車は呼ばない

一.脳の実質に損傷ありと予想される場合は開頭手術は辞退すること

一.人工透析はしないこと

一.経口摂取が不能になれば寿命が尽きたと考え
経管栄養・中心静脈栄養・抹消静脈輸血は行わないこと

一.不幸にも人工呼吸器が装着された場合、改善の見込みがなければ
その時点で取り外して差し支えないこと

 

 

さらに、事前指示書(その2)は次の通りです。

 

死後について下記を希望する

一.使い古しの臓器は提供しない

一.葬儀は簡単に家族だけで、遠方の者には連絡せずとも良し
葬祭センター使用も可

一・読経、戒名は不要

一・告別式不要、供花・香典は辞退すること

一.死体処理は完全に灰にするか、凍結乾燥粉砕で肥料にせよ
(もし、偲ぶよすがが欲しければ、髪の毛か下の毛を刈り取るべし)

一・年忌法要・墓石参りは不要
(ただし、死体処理が希望通りにならず骨が残れば
戒名・年忌法要を行うも苦しからず、墓石参りも勝手たるべし)

 

 

「指示書(その2)」は死後についての内容ですから明らかに「遺書」ですが
(その1)は生きている間の具体的に拒否する医療措置を指定しています。

これだけを抜粋したところで、この著書の死に方の指南が伝わるとは毛頭、思っていませんので
これもぜひ現物をお読みいただくとして、私が注目したのは
その冒頭、カッコ内の「ボケた時は…」の内容です。

ちなみに、「ボケた時」とは筆者の好みにより「認知症を患った時」の意味です。

「ボケきる直前」そのものの時期が判別できるのかどうか
また、その段階で正常な判断ができるのかどうか、素人にははなはだ疑問ですが
“自ら水と食を絶ち、枯れたような死を待つ”というのですから
「姨捨山」で捨てられた年寄りが行き着く先と同じように
「断食死を敢行する」とは明らかに“自殺をする”という意味以外の何物でもありません。

「日本人の自殺願望は『いっそひと思いに…』というせっかちなもので
約1カ月かかる断食死には頑強な精神が必要だ」とご本人も自殺という言葉を使っているのですから
せっかちかどうかの話は別にしたら、少なくても私には間違いなく自殺に思えるのです。

多分、この件に関してはこの著書の中でも多くは語られていませんので、中村医師が訴えたいことは
多くのページを割いている“医療とかかわらず大往生する”、つまりは
“医療にかかわらない=不必要な医療は受けない死に方”なのであって
「ボケきる直前」はその中のごくごく一部なのかもしてません。

しかし、もっと生き長らえる命をみすみす絶ってしまう可能性を含むという点では
どの治療の拒否にも、“それで死んでも良い”という強い意志と信念が必要です。

この意志の裏側には必ず大義名分があるはずで、中村氏の場合は
“餓死こそ苦痛もなく楽に死ねる自然死なので家族にそのお手本を示す”ことにあるのでしょうが
逆の言い方をしたら、現役医師でさえ大義名分によっては自殺もあり得ると解釈して喜んでいる私は
この本の読み方が間違っているのでしょうか。

もう一回、いえ、何度も読み返してみる必要がありそうです。

現代的な「口減らし」という側面も含んでいそうですから。

なにはともあれ、こうして高齢者の死について語られた本が売れることは嬉しい限りで
今後ますますこうした提案が多くなされることを願わずにはいられません。

 

中村仁一氏・・・社会福祉法人老人ホーム同和園附属診療所(京都市伏見区)所長 。
1940年長野県生まれ。66年京大卒。高雄病院院長・理事長を経て、2000年より現職。

大反響のようですね。

(中村)2012年1月末の発行で、6月には50万部に到達したそうです。
今、高齢者医療のあり方が、政策や医療提供の側面から問われていますが
一般の人たちの関心も相当高まっているという証しではないでしょうか。

医療とかかわるな、とは?

(中村)医療を全否定しているわけではなく、やみくもに医療にすがると悲惨な結果になりますよ、ということです。
回復やQOLの向上が見込めるなら当然利用すべきですが、単に死を先送りするだけなら、断った方がいい。
本人の意思が関与しない治療行為は、周囲の者の自己満足にすぎません。
医療はあくまで、本人がその生き方に照らして関わるべきものだと思います。

高齢者医療を担っている医療者から批判の声はありませんか?

(中村)ありませんね。1998年に
『幸せなご臨終─「医者」の手にかかって死なない死に方(』講談社)を発刊したときは

「年寄りの命を何だと思っている」「末期と決めつけるな」などと随分たたかれましたが
今回そうした批判がないのは時代の変化でしょうね。一般読者からは
「自然死を選びたい」「年寄りは具合が悪いのが正常と言われてホッとした」という声が届いています。

これまでのご経歴は?

(中村)京大卒業後、医局に属さず京都南病院(京都市下京区)に入職し
しばらくして高雄病院(右京区)に移りました。
96年に市民向けの「自分の死を考える集い」を始め、もうすぐ200回を数えます。
そこでは、今の「生」を有意義にするため死を視野に入れるよう説いてきました。
高雄病院を退職後、老人ホームで数百人の高齢者を、点滴も酸素吸入も行わない「自然死」で看取りました。
集いの活動と看取りの実践を踏まえて出来たのが本書です。

今の日本人にとって、死は身近ではありません。だから死に際に慌ててつい延命治療を選んでしまう。
そうならないために本人も家族も、やり残したことのリストを作って達成しておくべきです。
それらを含めた「死を意識した生き方」の作法を、具体的に紹介しました。
こうした作法が広まって、患者や家族が死を受け入れる意識をするようになれば
高齢者医療は変わると思います。

 

 

コメント (2)
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