今年2月に81歳で他界した義母の死亡診断書には「間質性肺炎」と書かれていました。
昨年の暮れに掛かり付けの総合病院に駆け込んで風邪と診断
1週間後の1月4日に症状が改善しないことと薬がなくなったため再診に出向いたところ
「肺炎球菌による肺炎と思われる」と病名が変更され、なんと即日緊急入院
この時はマスク型呼吸器が装着されていました。
5日後、集中治療室で気管挿入型人工呼吸器を付けられ
鎮静・拘束・点滴によって食事、話はできない状態のまま、42日後に息を引き取りました。
途中で「細菌性肺炎」から「間質性肺炎」に進行し生存の可能性がより下がった事実を告げられ
さらに気管切開型人工呼吸器の装着の是非を問われた際
その後の介護の話を聞くことになりました。
これを一旦装着すると外すことはできないこと
そして、話すこと、食べることは一生できなくなる可能性が高いこと
また、病院治療は終了するので退院し、家族に寄る介護もしくは
然るべき施設に入らなければならないこと 等など。
正直、まさかそんな状態で退院させられるとは思ってもいなかったこともあり
生前の言動を主に参考にしつつも、私と、特に女房にかかるであろう負担を考えて
気管切開をお断りした経緯があったのです。
いわゆる延命治療には主に3つの種類があると言います。
・人工呼吸…脳死などの昏睡状態で何らかの処置をしなければ呼吸が停止する状態や
肺機能の低下により血液の酸素化が十分に行えない状態などで行われる。
・人工栄養…経鼻胃管を挿入して栄養する場合と、中心静脈カテーテルを挿入して
血液中に直接栄養する場合がある。昏睡状態や食道の狭窄が起きている場合に行われる。
・人工透析…腎機能の低下もしくは廃絶によって無処置では尿毒症を起こす状態(腎不全)で行われる。
義母の場合はこのうちの「人工呼吸」であったわけですが
最初の一般病棟でのマスク型は特に説明もなくいつの間にか装着され
次のICUでの気管挿入型の際は、そうする必要性の説明を受けましたが
重い決断を迫られた認識は今でも持っていません。
ところが、気管切開型の説明は、今までとは明らかに違った雰囲気の下で2度行われたのですから
この時に延命治療をするかどうかの決断を迫られたのでしょう。
「でしょう」としか言えないのは
2月8日に呼び出された際、医師からも、署名を求められた書面にも
延命治療という言葉は一切出ていなかったからですが、蘇生処置なる言葉は登場し
心臓マッサージはお断りしましたがモルヒネ投与や点滴を少しずつ減らすなど
苦しさと痛さの緩和処置はくれぐれもお願いしました。
記憶が薄れていますので定かではありませんが、気管挿入型にはタイムリミットがあるようでした。
確か2週間経ったら1度は抜いて入れ直す必要があり、それも3度目は無理だと言われていたはずで
3日後のギリギリまでICUにいた後、気管挿入型を外しマスク型に戻し
点滴に寄る栄養補給は続けた状態で死に場所となる一般病室に移されました。
その翌日の2月12日の夜中、当直の看護師に呼び出され
担当医からは「今日明日には…」と言われたので、24時間交代で付き添ってから
さらに2日間頑張った末の2月16日、私たちが見守る中でモルヒネ投与もなく静かに息を引き取ったのです。
中村医師の著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな」に寄れば
病院では「自然死」はあり得ないと言います。
事実、彼の「指示書」は人工呼吸器の装着を拒否しています。
また、最期は身体が点滴による水分とい栄養補給でパンパンに膨れていましたので
“枯れた”とは似ても似つかぬ状態だったことも確かなのですから
義母のこの死を「自然死」と呼ぶことはできないのでしょう。
では、このケースの場合、どの時点で、どうしたら、自然死することができたのでしょう?
そもそも具合が悪いから(結果として風邪)と病院に行ってはダメだったのか
風邪から「肺炎球菌による肺炎」に診断が変更された時点で緊急入院させてはいけなかったのか
投与された抗生物質で一時はX線の白い影がスッと消えかけた数日後、またその影が広がり始めたからと
再びICUに運び込まれた時から自然死への道を外れてしまったのか…。
義母は「自然死」なる言葉も知らないまま、“苦痛がなく楽に死にたい”とだけ
生前、口癖のように言っていましたので、最初の風邪の診断から僅か50日、ほとんど苦しまず
モルヒネも使うことなく逝ったのですから、一応、希望通りだったと思うようにしています。
もし、中村医師の指示書のように人工呼吸器の装着を拒否する自然死を望んでいたのだとしたも
マスク、経管、気管切開と段階的に進んでいく人工呼吸器を拒否できる知識も自信もなく
同じケースに遭遇したら、再度同じ道を歩んでしまうに違いないのです。
かように、「自然死」なる死に方には、今の医療に慣れた一般人が現実の場に遭遇した場合
どうしてよいのか分からない要素が多分に含まれていることは間違いありません。