保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

そもそも、自殺は悪なのか…③長生きという迷惑(その1)

2012年08月07日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

現代社会では、一般的に自殺には否定的です。

しかし、日本においては古来より、切腹・心中・特攻・殉死など
自殺と呼べる行為がそれぞれの時代に様々な状況で行われていて
歴史的に見るとひとつの文化として捉えられているように見えなくはありません。

特に社会的な特定条件下での自殺は美談として扱われさえもします。 

桜の花の散りゆく様を“散り際が潔い”と表現したり
確か徒然草だったと思いますが、春先に黒づんでいつまでも残っている残雪を
「いと、みにくきもの」とする文学上の表現もあるのですから、いつまでもこの世にすがりつく生き様を
少なくても、美しいものとはしない国民感情が影響しているのかもしれません。

ところで、「姨捨山」も「楢山節考」も捨てられた後の年寄りについては、特に後者は
読んでもいませんし観てもいないので、どのような死に方をしているのか私は知りません。

多分、静かに餓死を待つはずだと予想できることは以前、書きました。

もしそうだとすれば、これは“覚悟の自殺”と同じではないかと思うのです。

「姨捨山」ではお触れという悪法、「楢山節考」では口減らしという慣習に寄るのですから
どちらも背景に年寄りが生きていけない社会が存在していたということになります。

もっとも、前者におけるお触れは、話の本題である「知恵があるから老人を大切に」を引き出すための
方便のような位置付けと考えたら、社会などと大袈裟に言う必要はないのかもしれません。

それどころかこの殿様については、当初出したお触れは個人的趣向に基づいていて
決して褒められるものではありませんが、改心して取消した以降
年寄りも養えたのですからこれはある意味、立派な殿様だったともとれます。

一方、貧困のため食べる人数を減らして残った家族を救う口減らしの話は
昔の日本には数多くあるのですから現実的な社会問題です。

この時、減らされる対象は、子供をもらい子に出したり、娘を売ったり
この話のように労働力にならない年寄りを捨てたり、いずれも生産性のない弱い者です。

なかでも、選択肢があるのであれば、まずは年寄りということでしょうし
本人もそれを希望するに違いありません。

この時、この話は美談とは呼べないでしょうか?

家族を助けるために自らの命を投げ出すのですから。

日本の現代社会において、これほど切羽詰まった状況があるとは到底思えません。

しかし、自殺した高齢者の多くが日頃、「家族に迷惑をかけたくない」と口にしていたと言います。

迷惑…ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快に感じたりすること
同義語:当惑・困惑・閉口・困窮・困る・困り果てる・煩わしい 等

一家の食料が不足する状況など今ではほとんど考えられないにしても
精神的・経済的・物理的な負担をかけてまで生きていたくないと思ってしまうのです。

自殺を否定する際、日本では多くの人が「世間に迷惑をかける」ことを理由に挙げます。

残った家族や親族、友人・知人などに対する
精神的なダメージと物理的・金銭的な負担はもちろん
電車への飛び込み等、死に方によっては直接社会に迷惑をかけてしまうからです。

これは、よく世間の親が子に対して言う「他人に迷惑をかけるな」という教えに沿うものでしょう。

一方、自殺した高齢者の多くは「家族に迷惑をかけたくない」のですから
「世間の迷惑」など考える余裕もなく、日常的な「家族の迷惑」だけが目に映っているに違いないのです。

子供達と同居の高齢者の方が、一人暮らしよりも
自殺に導くうつ病の罹患が多いことを見てもその状況がうかがい知れます。

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収穫時期が分からなかったトウモロコシ&スイカ

2012年08月05日 | 自然農法による自給用野菜作り

今年初めて挑戦したなかで、せっかくここまで育てておきながら
トウモロコシ10数個とスイカ1個をダメにしてしまいました。

トウモロコシは今週初め、包んでいる葉をめくって実の先っぽの具合を確認し
2本は収穫して予想以上に美味かったので残りの収穫を楽しみにしていたのです。

その時に見た他の実の縮みシワがすでに“収穫遅れ”を表わしていたのに
まだこれから脹らむものと思い違いをしていたという
なんとも情けない無知さを今さら嘆いてもどうにもなりません。

苗を定植した直後、4本くらいが枯れてしまったので追加した後
3本が強風で倒れ支柱を立てたり、カラスが突くと聞いたから細紐で覆ったりしながら
さらには、〇〇蛾の幼虫に腹を立てながらもようやくここまで育てたのに…。


(このシワシワの実、美味しく食べる調理方法はないのでしょうか?)

そして、黒小玉スイカ…。

こちらは一番大きく育ったものを収穫、孫の前で二つにして、あらま!

まだほんの一部しか紅くなっていないのです。

いつ頃が時期なのか何も知らないまま
ついつい遊びに来ている孫に食べさせたい一心での見切り発車の結果でした。

20粒の種からようやくここまで育った4株には
あと4個しか“それらしくなった”玉が付いていませんので
せめて1個くらいは口にできるようにしたいものです。

トウモロコシはめしべが出た日を、スイカは開花日を、ちゃんと記録しておかないと
収穫時期の目安ですらまったく分からず
それまでの努力が水泡に帰すことがよ~く分かりました。

ところで、時期をずらして2回に分けて植えたトマトですが
後から定植した大玉「南桜2号」はここに来て、かなり青虫にヤラレています。

先に植えた「麗夏」にこの被害は全くないのですから、これが講座で聞いたところの
虫の成長サイクルに合わせてしまった結果ということなのでしょうか?

もしくは、彼らにも好き嫌いがあるのでしょうか?

 

 

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そもそも、自殺は悪なのか…②「姨捨山」に見る善悪

2012年08月03日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

昔、年寄りの大嫌いな殿様がいて
「年寄りは汚らしいばかりで国のために何の役にも立たない」との考えから
「60歳になった年寄りは山に捨てること」というお触れを出しました。

殿様の命令にはだれも逆らえません。

親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人の若い男が60歳になった母親を背負って山道を登っていきました。

気がつくと、背中の母親が「ポキッ、ポキッ」と木の枝を折っては道に捨てています。

男は不思議に思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年寄りを捨てるすのは深い深い山奥です。

男が母親を残して一人帰るころには、辺りはもうまっ暗やみ
男は道に迷って母親のところへ引きかえしてきました。

息子の姿を見た母親は静かに言いました。

「こんなこともあろうかと、途中で枝を折ってきた。それを目印にお帰り」

子を思う親の優しい心にふれた男は、殿様の命令に背く覚悟を決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくしてとなりの国から「灰で縄を綯(な)え。できなければおまえの国を攻める」と言ってきました。

殿様は困り果て、「誰か知恵のある者はいないか」と国中にお触れを出しました。

男がこのことを母親に伝えると、「塩水に浸したワラで縄をなって焼けばよい」と教えられ
男はこの通りに灰の縄を作り、殿様に差し出しました。

 しかし、隣国からはまた難題を言ってきました。

今度は曲がりくねった穴の空いた玉に糸を通せというのです。

今度も男は母親に、「1つの穴の周りには蜂蜜を塗り
反対側の穴から糸を付けた蟻を入れなさい」と教えられ殿様に伝えました。

すると、隣り国では「こんな知恵者がいる国と戦っても、勝てるわけがない」と
攻め込むのを諦めてしまいました。

殿様はたいそう喜び、男を城に呼んで
「褒美をとらす。欲しいものを言うがよい」と言いました。

男は、「褒美はいりません。実は・・・」男は決心して母親から知恵を受けた事の顛末を話しました。

「なるほど年寄りというものは有り難いものだ」

殿様は自分の考えが間違っていたことに気づきお触れを出して年寄りを捨てることを止めさせました。

それからはどの家でも年老いた親と仲良く暮らせるようになりましたとさ。 

 

昭和31年(1956年)にはこの伝説を基にした短編小説「楢山節考」が発表され
その後映画化、最新は昭和58年でした。

この中では、老人を山に捨てる風習は“貧困による口減らしのため”とされています。

日本人の心の底に沈んでいる民俗の闇にメスを入れると同時に
今日の物質文明の根底に潜む人間感情の原資を捉えたものとして話題になりました

ただし、私はこの物語りを読んでも観てもいませんので
様々な方の論評を基にこれからの記事を書いて行くことをご了承ください。
 

ところで、「姨捨山」では年寄りが死ぬことは善です。

お触れ(法律・条例)に従って捨てる(=死)のですから。

「楢山節考」でも年寄りは、少なくても悪ではありません。

若者の食料を確保し彼らの命を繋ぐのですから。

「姨捨山」ではお触れが悪なのでしょうし、「楢山節考」では口減らしという風習が悪なのでしょう。

つまり、本人は悪くなく、生きている社会が悪いということになります。

そして、どちらも“捨てられ”ますが、その後息を引き取るまでの間は自殺と同じです。

多分、手を合わせて餓死するのを静かに待つのでしょうから。

 

*餓死について…ある医師の著書によると餓死(飢餓+脱水)の時、つまり
空腹とのどの渇きを我慢し命の火が消えかかる時になると
飢餓状態により脳内にモルヒネのような物質が分泌され
気持ちがよく幸せムードに満たされると言い、また脱水状態になると
血液が濃く煮詰まって意識レベルが下がりぼんやりとしたまどろみ状態に陥り
さらに死に際には、呼吸状態が悪くなることによる炭酸ガス過多が麻酔作用をもたらすなど
様々な身体の仕組みが死の苦しみを防いでくれるのだそうです。

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孫と海水浴、その時“携帯”が溺死した

2012年08月01日 | 日々の暮らし

よく遊びに行っていた新潟県の海水浴場の海の家、つまり「浜茶屋」の方が
長女と3人の孫が住む富山県のそれに比べてはるかに大きく数も多いのは
海がない長野県からのお客を当て込んでのことなのでしょう。

地元にかって知ったる海があれば
何も高いお金を払って“掘っ立て小屋”の狭いスペースを借りたり
不味いラーメンを食べさせられなくても済むのですが
県北の長野市から一番近い上越の海岸まででも70㌔あって
年に1度行くか行かないかの海水浴なのですからついついこの小屋を借りてしまうのです。

富山の長女の家は海岸から僅か500mほどの距離にあり
すぐそこには浜茶屋こそないものの、シャワーも完備されたちゃんとした海水浴場もあります。

にも拘らず、1軒だけ浜茶屋のある少し離れた海岸までわざわざ出かけるのは
私が希望するからであって、子供の頃から海水浴と言えば
この小屋とセットになった遊びであるという風に印象付ける新潟県の戦略に
まんまとハマってこの歳になった結果に違いありません。

昨年はそこで浮き輪とビーチパラソルをレンタルしたら
両方で2千円近くボッタくられたから、今年は1カ月ほど前にリサイクルショップで探し当てた
1050円のビニールボートと840円のビーチパラソルを購入してこの日を待ち望んでいたのです。

昔と違い昨今では、プールにしてもこうした浜茶屋にしても
空気を入れるための小型コンプレッサーが用意されているので
酸欠でクラクラしながら浮き輪やボートを膨らませなくてもよくなったのは本当に助かるというものです。

とは言え、大人3人乗りと謳われているボートに空気を満たすのは時間がかかり
その間にすでに水に浸かって歓声を上げている孫たちを見て気が焦り
30mはあろうか思われる熱く焼けた砂浜を引きずり
小走りに海に入って行ったのが今回の不幸の始まりでした。

若干、薄い雲はありましたが30度はすでに超えている感じではあっても
今季初めての水に入るとチンポコの辺りにやけに感じる冷たさでブルブルっと震え
全身に鳥肌が立つのを感じた後、左の太ももの外側で細かに振動する別の“何か”に気が付いたのです。

なんだ

手で触れてみると堅い四角なモノがポケットにあるではありませんか

そうなんです、家を出る時すでに着ていた水着のポケットに
ケータイとタバコを入れていたことをきれいさっぱり忘れていたのです。

多分、“振動”はショートしたマナーモードのバイブレーターだったのでしょう。

かくして、水濡れ保証にも入っていなかった私のケータイは
僅か1年5カ月足らずでデータとともにその命を終えてしまったのです。

少なくても1~2分間は海水に浸かった末の溺死でした。

一晩、エアコンの吹き出し口で風に当てて乾燥させましたが
電池を入れるとカメラのストロボが付きっ放しになると同時にジージーと音を立て
徐々に電池付近が熱くなっていきますので、このまま放置しておくと発火するのかもしれません。

自宅へ帰宅後、すぐに出向いたドコモショップでは最低3万1千円の機種変更を奨められ
状況からは難しいとされるデータ復元の成功報酬で別途5千円が発生するかもしれないとのこと。

その足で訪れたauショップで新規契約ならケータイ代は0円で済み
手続費用と充電器コードで約4千円はかかるにしても
他社からの変更キャッシュバックで5千円、それも現金でいただけることを聞き
この際、字が小さくて時として読み取れない打開策を兼ねて
年寄り用のらくらくフォンにすることにすることにし、データの復元は諦めることにしました。

ただし、ドコモへ2年以内の契約解除費用9千円は別途支払うことになります。

今時流行のケータイを中心に据えたライフパターンにそれほど毒されていないのですから
5千円払ってまで消失すると再入手困難なデータはないはずです。

スマートフォンやタブレット型への移行も一瞬頭をかすめましたが
これらに振り回される生活が目に見えるようですし、仕事の道具ならばいざ知らず
“あれば便利”というだけではとても使いこなせるまでの自信はありません。

また一方で、浜茶屋でも見かけた隣席の50代の母親と20代の娘が
ちゃぶ台を前に腰を下ろすとすぐにケータイを取り出したように、どこそこの場所を問わず
すぐに下を向いてこの小さな画面から目を離さない多くの文明的な人々を
なにもそこまでコレに縛られなくても、と常々批判的な目で見ているからに他なりません。

もはやこれが日常の景色であり、そうしないのは
すでに時代に乗り遅れているからだと言われたら、もはや私には返す言葉はありません。

 

 

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