以前、 ご質問を頂きました 「西那須野小唄」 について 資料が見つかりましたので ご紹介いたします。
図書館で借りてきた本ですが、現在は中々手に入らないようです。
出典・・・・・・・・・・ 「しもつけの唄」
昭和55年9月24日発行
発行者 福嶋 寿克
発行所 下野新聞社
「西那須野小唄」
明治初期のこと。 ”那須おろし” が 吹きすさぶ荒涼とした那須野が原に、 開墾のクワの音が響きわたった。 同十三年、 印南丈作、 矢板武らによって、 「那須開墾社」 が組織され、 続いて三島通庸が「肇耕社」を創立した。 以来、 この地は近代的な農村として発展していくわけである。 しかし、 火山灰地で水利は悪い那須野が原の開墾には多くの先人達の苦い汗が流されたことも事実。 それでも開墾が開始されてからまもなく、 養蚕が盛んに行われるようになってきた。 まさに、 土地の効率的な利用である。 鉄道が走り、大きな製糸工場ができるにつれ、 製糸業は町の基幹産業に育っていった。 「西那須野小唄」は、こうした製糸業に従事する女子工員によって歌い継がれた。 町の発展を祝うかのような、 この唄の蔭に、 女子工員の厳しい生活があったとは、 今となっては知るよしもない。
隆盛の製糸業が生む
「西那須野小唄」 ができたのは昭和十年ごろ、 作曲者は不明だが、 作詞は前町長の中島欣三郎さん(故人)である。 この小唄は、 数年前に県文化奨励賞を受賞した筝曲家、 坂本勉さんが編曲し、 踊りの振付もでき、 最近では婦人会やママさんグループによって盛んに愛好されているが、 戦前は一企業の唄でしかなかった。 というのも、 中島さんは当時、 大和組西那須野製糸所の工場長で、 働く工員のためにこの唄をつくったからだった。
同町製糸業の始まりは、 明治二十年ごろにさかのぼる。 当時は、 養蚕農家から持ち寄った繭を少人数で生糸にする、 いわば家内工業的な組合製糸工場だけだった。 明治四十年、 長野県から大和組製糸所が進出すると、 繭の生産量も、 そこで働く従業員の数も増大した。 この時、 進出したのは現在の三区で工場長は中島さんの実父千代吉さんだった。 当初は百釜で操業していたが、 工場が現在の大和町に移った明治後期ごろには五百釜を超え、 大量の生糸が海外に輸出されていった。
大正、 昭和と時代が変わるにつれて生産量はますます増大したが、 これとともに仕事においまくられる女子工員たちの生活は苦しくなった。 当時の世相を語る”女工哀史”ち同様に、 寄宿生活を送る女子工員は仕事のために起き、 仕事のために床についた。 そのほとんどは東北などからこの町にやってきた十代の少女たちだった。
父親の跡を継いだ中島さんは、 この女子工員たちに明るさと生きがいを与えるために唄をつくった。 「西那須野小唄」 は こうして生まれた。 町の歴史や自然を高らかに歌い上げたこの唄は、 次第に町民の中にとけ込んでいった。 工場内では盆踊りが行われ、 戦後は名実ともに ”町の唄” になった。 「 西那須野は製糸工場によって発展してきたといっても過言じゃないでしょう。 工場がフル操業時、 町民の婦人たちのほとんどが製糸業に従事したと聞きます。 私としても大きなエントツが印象的だったのを覚えてますよ。」 町中央公民館長の西沢道夫さんの話である。
あれほど隆盛をきわめた大和組製糸所も、 昭和三十年を過ぎるとこの町から消えていった。 町の歴史を物語るものが、また一つなくなった。
歌詞・・・・
日本良い国 輝く伸びる 那須野よいとこ 西那須野 のぼる朝日にヨ 伸びる繁昌の 歌の声
花が咲いたよ 烏が森に お山のぼれば ほのぼのと 風もみどりにヨ 桜吹雪に 紅つつじ
昔しゃ源氏の 狩場の跡よ 思い起せよ 印南翁 矢板翁とでヨ 私財投じた 那須疎水
行こうか塩原 まずその前に 結ぶえにしの 乃木神社 大山墓(さま)へとよ 乗りがてらに 顔みせて
(以下略)