賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の教え-真のキリスト様と偽のキリストを見分ける方法

2019-05-10 22:48:52 | 神に帰す証

   私は主の信仰を始めて以降、兄弟姉妹たちと一緒にいる時はお互いを大家族のように愛し、助け合いました。私は長年さまよい続けた末にやっと実家を見つけた子供のように心の中が温かく感じました。私のいのちはついに方向性と意欲を見つけたのです。こうして私は積極的に教会の集会に参加しました。

   ある日、説教師が真剣な口調で私たちにこういいました、「さて、全能神教会の人たちは主イエスさまが再臨されたと言っています。これは不可能でしょう!なぜなら、聖書にはこう書かれています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:23–24)。この2節は主イエス様ご自身が私たちに仰ってくださったことです。主イエスのふりをして人々を欺こうとする者たちが現れるため、神は私たちが騙されてしまうことを懸念しておられます。それ故に、主はこの御言葉を前もって私たちに仰られたのです。私たちは主の道に従い、誤った道を決して歩まずにいる必要があるのです。そうでなければ、私たちは一生後悔することになるのです。」私は説教者のこの言葉を固く信じました。そうです!この2節が意味することを疑う余地はありません。私は全能神教会を説き勧める人に出会うことがあっても、決してその人の言葉を受け入れてはならないのです。私は長年に渡って主を信仰してきたのだから、主の道に従い続ける必要があるのです。それ以降、多くの兄弟姉妹たちが私に全能神の御国の福音を説き勧めてきましたが、私はその全てを拒否しました。

   ある日、私の近所の人が彼女の親戚である姉妹チャンにフロントハウスを賃貸してくれないかと私に聞いてきました。私はそれを承諾しました。姉妹チャンは穏やかで愛想のよい方でした。彼女は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってくる人でした。やがて、姉妹が何人か彼女の家に来た時、彼女たちは私の家をきれいに整頓してくれました。後に、彼女たちは私に福音を説いてくれたのですが、その時初めて、私は彼女たちが全能神教会から来ていたことを知りました。こうして、私は彼女たちを白い目で見て、時には彼女たちから隠れたりもしました。しかし、私が彼女たちをどのように扱っても、彼女たちは私の家に来ては私の家事を手伝い、私に福音を説いてくれたのです。私は秘かに彼女たちの言葉、行い、そして物事の仕方を観察しました。私は彼女たちの貫いていることは敬けんなことであると知りました。私は彼女たちは主イエス様の御要求を貫いていたのだとも分かりました。彼女たちは他人に対して辛抱強く、寛容であり、自分たちを愛するように他人を愛していました。その一方で、私は神の御要求を貫くことができていませんでした。これを踏まえ、私は心の中で頻繁にこのように熟考しました:「主の愛がなければ、彼女たちは主の御要求を貫くことはなかったでしょう。彼女たちが信じる全能神教会は本当に主の来臨なのでしょうか?それに、積極的に真理を追い求める兄弟姉妹たちの中にはどうして全能神教会を信じている人たちがいるんでしょうか?主は本当に再臨されているのでしょうか?次回は姉妹の言葉をもっと聞いて、それがどういったものなのか確認することにしましょう。」

偽キリスト,世の終わり,千年王国,キリスト

   その数日後、姉妹バイが私の自宅にやってきました。その時、私は聖書を読んでいました。彼女は私にこう聞いてきました、「姉妹シャオ、私たちはもうあなたに何度も説教していますが、それでもあなたは受け入れてくれません。私たちはあなたが神の新しい働きについてどう考えているのか分かりません。考えていることを話してください。一緒に話し合いましょう。」私は反抗的な口調で彼女にこう言いました、「あなたたちは全員が主イエス様は新しい働きをするための御言葉を発するために肉として再臨された言っています。しかし、マタイ24:23–24にはこう記されています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」だからこそ私はあなたが主イエス様のふりをして来ると思っているんです。私は主を信仰しているので主の道に従うべきであり、あなたに従うことはできないのです。」姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「私たちの主への信仰において、偽のキリストに騙されることを恐れるのはよくあることです。なぜなら、主イエス様は世の終わりに偽のキリストと偽の預言者たちが神に選ばれた人々を欺くために現れるから私たちに慎重になって欲しいと仰られたからです。しかし、主は私たちに偽のキリストと偽の預言者の特徴も伝えてくださっておられます。彼らは人々を欺くために主イエス様の成された働きを真似たり、偉大なしるしや不思議な業を見せることもできるのです。主イエス様が私たちにこれを予めお伝えくださった理由は、私たちが慎重に主の再臨に対応することを望んでおられるからです。しかし、私たちは騙されることを恐れているので、主の再臨に対応する際には聞く耳を持たず、読みもせず、連絡も取らず、孤独にかつやみくもに待機してしまい、世の終わりの神の御救いを受け入れないという結果になってしまうのです。これら全ては間違いなく主の御意図とは違っています。私たちが昼夜待ち焦がれた主イエス様は再臨されておられるのです。それは紛れもない真実なのです。私たちが盲目に主の再臨を説く全ての知らせは過ちだと考えてしまうと、私たちは真の神を締め出すことになってしまうのです。すると、私たちは神を知らずに信仰し、神に抵抗する者と化したパリサイ人のようになってしまうのです。」私はこう言いました、「私たちは神を知らずに神を十字架に張り付けたパリサイ人たちのことを毎日のように話し、彼らを使って自分たちを警告しているのに、どうやったら自分たち自身が神に抵抗するパリサイ人のようになれると言うんですか?」姉妹はこう言いました、「パリサイ人の犯したミスを繰り返したくなかったら、私たちは真のキリスト様と偽のキリストを見分けるする方法を知っておく必要があります。私たちが真のキリストと偽のキリストを見分ける方法に関する真理を理解し、彼らの本質に関する知識を手にした後、私たちは初めて自分たちの方向性を失わない方法、そして主の御救いを逃さない方法を知り得るのです。欺かれることを防ぐには、先ずキリスト様はどういう御方であられるかを知る必要があります。シスター、キリスト様はどういう御方であられるか言ってくれますか?」私は心の中でこう思いました:「この質問の答えは誰でも知ってるでしょう。主イエス様がキリスト様ですよ。私はこんな質問には引っかかりませんよ。」そして私は躊躇せずこう答えました、「主イエス様がキリスト様です。」

   姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「神はこれについてどう仰られているか確認してみましょう、『神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。』これらの御言葉から、キリスト様は神の魂にまとわれた肉であられ、受肉された神がキリスト様と呼ばれておられることが分かります。なので、キリスト様は天国におられる神の御子でなければ、神が神の働きをさせるためにお育てになる地上の人間でもなく、むしろ、肉として現実化した神の魂であられ、神御自信の肉であられるのです。そして、この肉は誰とも取って代えることができないのです。すなわち、神の魂が人となるために肉をまとわれる時は、神がどの国にお生まれになろうとも、性別が何であられようとも、神はキリスト様であられるのです。神の肉と魂は1つとなられ、切り離すことはできないのです。この肉こそが地上における神の魂の働きの発現体であられます。神がお持ちであるもの、そして神が何であられるかはこの肉を通して発現されます。私たちは神のお示しを通じてキリスト様の本質を知ることができ、それによって真のキリスト様と偽のキリストを見分けるのです。」私は彼女がこう言ったのを聞いて、「そうか!私は長年に渡って神を信仰してきたけど、主イエス様がキリスト様と呼ばれていることしか知らなかった。肉をまとった神の魂のみがキリスト様と呼ばれるのか。彼女たちの説教は本当に高度だ。私はこれにもっと耳を傾けた方がいいな」と思いました。

   黙っていた私を見た姉妹は、続けてこう言いました、「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。」この神の御言葉から、神は御自信をキリスト様として受肉されるため、真理が具現され、謎が開示され、古い時代を完結させ新し時代を始める働きが成されるということが分かります。そしてもちろん、神が明らかにされる真理は無尽蔵に存在します。神が世の終わりに受肉されることが明らかにする真理を通して、神は6000年の人類救済の経営計画、知られざる詳細、真実、働きの施行方法、神の経営の働き全体の目的、受肉にまつわる謎等を明らかにされます。それと同時に、神はまた、神の全能さ、御知恵、義、神聖さ、人類の罪を容認されない性質も公表なされます。 神が具現なさる真理は私たちが神に対して抱くありとあらゆる観念、私たちの逸脱した、かつ誤った知識と実践をより好適に解決することができ、それによって私たちは神に対する純粋な受け入れと知識、そして神に対するより新しく、より正確な知識を取得できるようにしてくださるのです。さらに、神は神の御言葉を用いて人類に新しい時代の方向性とい新しい実践方法をもたらすことで人類を完全を救い、適切な終着点へと導くことがおできになるのです。なぜなら、神は真理、道、いのちであられるからです。真の神がなさる働きは他の誰かが有したり、取り替えることはできないのです。

   姉妹の交流を聞いた私はこう言いました、「姉妹バイの言っておられることは筋が通っているわ。聖書にはこう記録されています、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」 (ヨハネによる福音書1:1–2)。あなたが言われたとおり、神の本質は真理であり、道であり、いのちなのです。そしてこの「御言葉」とは何を指しているのでしょう?この節からすると、「御言葉」は神の御言葉を指しており、‘御言葉は神であり、御言葉は神と共にあられる’とこの節に記されています。そうすると、神が肉となられる時、すなわち、御言葉が肉となられる時、神は御言葉を発せられ、働きを成されるはずなのです。それは神が私たちにキリスト様と神の働きの本質について、そしてキリスト様が何をお持ちで、キリスト様がどういう御方であられるかについて教示される御言葉を発せられることで成されているのです。そして、神のみが新しい時代を開いて古い時代を完結することがおできになります。主は世の終わりにおいてこの御言葉の働きを間違いなく成されたことが分かります。」

   姉妹バイは幸せそうにこう言ってくれました、「上出来だわ、シスター。神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」 彼女はこの節を読んでくれました。「あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。」 「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。」

   そして姉妹はこう話しました、「この神の御言葉から、偽のキリストたちは神の働きを全くこなせないことが分かります。彼らは古い時代を完結させたり、新しい時代を開くことができず、病人を治し、悪霊を追い出し、沢山の奇跡を起こすいった主イエスの成さる働きの真似をすることしかできないのです。彼らは人類を救うために真理を語ることはできないのです。聖書にはこう記録されています、「先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、」 ( 使徒行伝5:36–39)。これら偽のキリストたちは自分たちが神であると断言し続けていますが、聖霊を彼らを支持していません。従って、偽のキリストたちがどのようにして自分たちが神であると断言しようとも、人から成るものやサタンから成るものは耐え抜くことができなければ、長続きもしないので何の効果もないのです。世の終わりの全能神の働きが中国で始まって以来、Spirit-Spirit派のフア・シエハ(Ling-ling Jiaoの拙訳)、Established King派のウー・ヤンミン、Third Redemption派のジィ・ヂョンジエ等、自らを主イエス様の来臨であると言い張る偽のキリストが人々を欺くために多く出現しています。彼らは主イエス様になったふりをして現れ、人々を欺くために神を真似して奇跡を起こそうとするのです。彼らの行いは、 ‘偽のキリストたちは人々を欺くために奇跡を起こす’という主イエス様の預言を現実化しています。彼らは主の信仰者ではありますが、自らをキリスト様であると断言し、彼らがこのような不合理なでたらめを口にするのは、彼ら自身が本質的に邪悪な霊に取り付かれていることが理由です。彼らは全く真理を抱いていないため、神の御言葉を語ることができず、人類の観念と想像を満たす知識と理論について話す、または神秘を誤解したり、人々を欺くために超自然的なことを行ったりすることしかできないのです。これ故に、彼らは遅かれ早かれ挫折するのです。これにより、真理が虚偽となること、そして虚偽が真理となることは決してありえないということが分かります。この全ては私たちが心から求めることができるかどうかにかかっているのです。」姉妹バイの交流を聞いて、私はこう思いました:「彼女の交流には真理が込められていて、私が簡単に理解できるようにしてくれる。私の説教師と牧師ですら偽のキリストの出現を明確に説明することはもちろん、それを説明することすらできないのに。これはもっと慎重に調査した方がよさそうだ。結局のところ、主の来臨はささいなことではないみたいだ。これは見逃せないぞ。私の生死にも影響することだ。」こう考えた時、私はこう言いました、「姉妹バイ、あなたの言葉は正しいと思います。でも私はこれを調べる必要があります。この本は私が預かっていても宜しいでしょうか?是非読みたいのですが。」姉妹は嬉しそうにこう言ってくれました、「いいわよ!後で読んでみて、分からないことがあったら一緒に交流し合いましょう。

   私はしばらく追求し調査した後、以前理解できなかった真理と謎の多くを理解することができました。これらの御言葉は人間が話せるものではないのです。私は、神の御言葉を読めば読むほど増々感動し、神が私のすぐ側で私に語りかけてくださっているような気がしました。私は大喜びして、これが主イエス様の再臨なのだと確信しました。私はついに神を迎え入れることができました!