賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私はもう日中に罪を犯し、夜に告白するという生活に悩まされてはいません (II)

2019-05-18 22:44:56 | 神に帰す証

   チェン兄弟は聖書に書かれた預言をいくつか取り入れ、主が来臨される方法について話し、神が人の子になられて地上に降臨されたと言いました。チェン兄弟はこう言いました:「実際に、主はお戻りになられました。主は人間の姿で受肉され、世の終わりに裁きの働きをしに御言葉を表されました。これは聖書の中の預言を現実化してもいます:「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)。主がお戻りになられた!本当に主はお戻りになられたのですか?主は裁きの働きをしに受肉されたのですか?チェン兄弟がたった今読んでくれた御言葉は正に神の新しい御言葉なのですか?私はとても驚いたと同時に嬉しくなりました。しかし、私は、彼が裁きが教会から始まると言ったのを聞いて思わず、「主はお戻りになられる時に私たちを裁かれるのかしら?」、と心配になりました。私は以前、主の教えを貫けずにいつも罪を犯して主に逆らっていたので、そんな私は刑罰を受けることになるのではないかと思いました。

   チェン兄弟は、神が実際はどのようにして裁きの働きをなさるかを私に理解させようと神の御言葉の他のパラグラフを読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。」

   兄弟は続けてこのように交流しました:「裁きは私たちが思っていたように、神が天国で白いテーブルクロスを広げたテーブルを立てられ、私たちがそれぞれの行いに応じて天国に昇るのか、それとも地獄に落ちるのかを決定されるのではありません。これは私たちの想像に過ぎません。もし神が本当にこのような形で私たちを私たちの行いに基づいて裁かれるのであれば、私たちの中に生き残れる人はいないでしょう。実際、神の裁きは私たちの罪を非難するためのものではなく、私たちを救うためのものなのです。」兄弟の交流を聞いて、私は神の御言葉にとても驚きました。これらの御言葉は私のことを言っているのではないでしょうか?私が以前想像していたのは、大きな白い御座の裁きが下される前に、私があの日やこの日に犯した罪がテレビに映し出されるというだけのものでした。そうか!これは本当に神の御声なのです。私の心の中の思考は神のみが知り得るものです。しかし、大きな白い御座の裁きの前に天国で下される裁きの内容が私の想像に過ぎないとしたら、神はどのようにして裁きの働きをなさるのでしょうか?

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   その後、私が困惑しているのを見たチェン兄弟はまた神の御言葉の節を読んでくれました:「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

   兄弟はこのように交流しました:「神の御言葉から、神は世の終わりに御言葉を通じて裁きの働きをされ、御言葉を使って私たちの堕落した本質を明らかにして私たちの考えと行い全てを暴露されることが分かります。神の御言葉の御啓示を通じ、私たちは自分の本質が本当に極めて傲慢かつ利己的であることに気付き、自分たちは嘆かわしいほどに汚れているため、何をするにしても自分の名声と地位を守るために自分の意図と不純さをもって行動していることを知るのです。神の働きが自分たちの観念と合わないと、私たちは未だに神に文句を言って抵抗します。また、私たちは全ての点においてサタンの傲慢な性質を指針に生き、常に高い地位に立って人々を叱ります。私たちは自分がもはや人間らしさをほんの僅かも持っていないほどサタンに堕落させられていることを知る時に初めて自らを嫌い、罵り始めます。これと同時に、私たちは神の御言葉の中に神の神聖さと義なる性質を体験し、主に対して敬虔の念を感じるようになり、主に満足していただくため自らの肉に背き、真理を実践する意欲を持つようになるのです。私たちは実践すればするほど、増々人間らしさを持つようになります。この全ては、裁きの働きがもたらす効果です。考えて見てください:「神がもし、来臨される時、救いにおけるこの段階の働きを実行されなかったら、私たちはどうやって自分の罪を捨て去り、清められることができるでしょう?私たちはどうやって天の御国にはいる資格を得ることができるでしょう?」

   そうです。私は以前、夫と子供たちに対する怒りを抑えられなかったために罪から抜け出せないことに頭を悩ませ、罪を犯してはそれを告白するという状況の中を生きていました。私は主が再臨なさる時に非難されることをとても心配しました。私は今日聞いたチェン兄弟の交流を通じ、主による裁きは人間を直接非難しているのではなく、むしろ御言葉を表して私たちのサタンのような性質を明らかにすること、そして私たちが自己認識をして自らを変えられるようにすることだと理解しました。それは私たちを清めて変えるためのものなのです。主は本当に私たちを愛してくださっています!常に罪を犯してきた私のような人は紛れもなくこの神の救いを必要としているのです!私にまだ悔い改めて変化を遂げるチャンスがあるというのは、本当に素晴らしいことなのです。

   集会が終わった時、私は、「主は本当に再臨なされた!」と思ってとても興奮しました。私は夢を見ているような気分で、しばらく興奮が冷めませんでした。この2日間でチェン兄弟が交流してくれた内容を振り返ると、私はとても感動し、涙しながら神に祈りを捧げずにはいられなくなりました:「ああ、神様!私はサタンからとても深く堕落させられてしまい、あなたの前に来るにふさわしい者ではありません。それでも、あなたはお戻りになった時、卑しむべき私があなたの御声を聞いて、あなたの再臨をお迎えできるようにしてくださりました。あなたは私をとても愛してくださっています。今となっては私の生活の惨めさとストレスは全てもうどうでもいいことで、最も重要なのはあなたの再臨をやっと見ることができたということです。私は将来全能神の御言葉をよく読み、自分の堕落を捨て去ることに努め、人間らしさを貫いていく必要があります。」

   しばらく調査した後、私は全能神が主イエス様の再臨であると確信し、神の御言葉をもっと切望しました。その後、私はこの神の御言葉を目にしました:「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。」 この時、私は、「私を操り、私に夫と子供たちに怒りをぶつけさせていたのは自分の傲慢な性質であった」、ということに気が付きました。過去に、子供たちが自分の言うことを聞かないと私は彼らを大声で叱っていました。夫が私の期待に沿わないことをすると私は彼を口喧嘩をしていました。私は常に彼らが自分の意図に従って行動することを望んでいましたが、彼らの考えに耳を傾けたり、彼らの気持ちを大切にしたことはありませんでした。その時、私は主イエス様でさえ弟子たちの足を洗われたことがあったのを思い出しました。これ故に、自分のことを振り返ってみると、私は傲慢過ぎたと言えないでしょうか?

   これを理解した後、私は夫と子供たちと仲良くなり、そして彼らに怒りたい時があっても、自分の傲慢な本質が顔を出していることに気が付き、意識的に神に私の心を静めてくださるよう祈り、落ち着いて彼らと話したり、彼らが心の中で何を考えているのかを聞くことができました。娘が宿題をしないことがあっても、私は以前のように大声で彼女を叱りはせず、ゆっくりと彼女を善導し、どのような困難を抱えているのかを聞きました。このように実践していると、私と家族の関係は次第に大きく改善していきました。

   ある日、夫が私に、「最近は前みたいに気性が荒くなくなったな」、と言いました。私は彼がこう言ったのを聞いて、心の中で神に感謝をせずにはいられませんでした。そして、私は誇らしげにこう言いました:「神のおかげよ!神の御言葉が私を変えてくださったのよ。」私は神の働きを受け入れてから自分が少し変わったことに気が付き、世の終わりの神の裁きの働きは本当にとても有意義で、それは私たち人類を本当に変え、清めることができると感じ、真理を追い求める私の意思をさらにかき立ててくれました。自分の堕落したサタンの性質を捨てる方法を手にした今、私はもう日中に罪を犯し、夜にそれを告白するという生活に頭を悩ますことはなくなりました。私は神の御言葉を上手く飲食し、自分の堕落した性質を知ることに集中し、そして真理を実践している限り、いつかは清められ、そして神の御救いを受けることができると信じています。私は全能神に感謝し、全能神を讃えます!