賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神が世界を洪水で滅ぼそうと考え、ノアに箱舟を作るように命じる

2020-02-04 18:38:22 | 聖書の奥義を開く

   (創世記6:9-14)ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。」

   (創世記6:18-22)「ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。ノアはすべて神の命じられたようにした。

 

 

   その時代、神はノアにとても重要な仕事をさせようと考えた。なぜ神はそうしなければならなかったのか。それは、その時に神は計画を持っていたからである。神の計画は、洪水で世界を滅ぼすことだった。なぜ世界を滅ぼすのか。聖書にはこう書かれている。「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」。「暴虐が地に満ちた」という部分から、何を見て取れるだろうか。世界とその人々はこれ以上ないほどに堕落しており、それが「暴虐が地に満ちた」という当時の状態である。今日の言葉で言えば、「暴虐が地に満ちた」は、「全てのことがめちゃくちゃだった」ということである。人はさまざまな職業において無秩序であり、物事は混沌としており、管理が難しいということである。神の目には、世の人間は堕落しすぎていたという意味である。どれほど堕落していたのだろうか。それは神がもはや目も当てられないほど、そしてもはや忍耐の限界を超えるほどの堕落である。神が滅ぼすと決めたほどの堕落である。神が世界を滅ぼすと決めたとき、箱舟を作る者を探すことを計画した。そしてその人物にノアを選び、ノアに箱舟を作らせた。なぜ神はノアを選んだのであろうか。…

   ノアが召しを受けたということは単純な事実だが、この聖書のくだりに現れている神の性質、神の意志、そして神の本質というわたしたちの話の中心は単純ではない。これらの神の側面を理解するためには、まず神が召したいと思うのはどのような人物なのかを理解しなければならない。そしてその後、神の性質、意志、そして本質を理解することだ。このことは非常に重要だ。では神の目には、この召された人物はどのような人物だったのだろうか。その人物は神の言葉を聞くことができ、そして指示に従うことができる人物でなければならない。それと同時に、その人物には責任感があり、自分が責任を持ってやるべきことを果たして神の言葉を達成すべきと捉えることができる人物でなければならない。では、その人物は神を知る人物でなければならないか。そうではない。当時、ノアは神からの教えをそれほど受けておらず、神の働きも経験していなかった。したがって、ノアの神に対する認識は微々たるものであった。この聖書のくだりにノアは神と共に歩んだと書いてはあるが、ノアは神の姿を見ただろうか。もちろん見てはいない。なぜならこの時代には、人のところにやってくるのは神の使いだけであった。使いたちは言葉や行いで神を表すことはできたが、神の意志や考えを伝えているに過ぎなかった。神の姿は直接明らかにはされてはいないのである。この聖書のくだりでわたしたちが見ることができるのは、基本的に、このノアという人物が何をしなければならなかったのか、そして神のノアに対する指示は何だったのかということである。ではここで現された神の本質は何か。神のすることは全てが緻密に計画されている。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって、神はその事や状況に対応するための計画を開始するのか、どのようにそれを扱うのかを決める。神は無関心であったり無感情であったりするのではない。実際には全くその逆である。この聖書のくだりでは神はノアにこう言っている。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。この時神は人間だけを滅ぼすと言っているだろうか。そうは言っていない。神は全て肉なるものを滅ぼすと言っている。なぜ神は滅ぼそうとしたのか。ここにもう一つの神の性質の現れがある。神の目には、人間の堕落、全ての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対する忍耐の限界があった。その限界とは何だろうか。神はこう言っている。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのだろうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含む生きる全ての者も、彼らの態度が堕落に満ち、神の目に抵触したことがあるので、神は彼らを滅ぼさなければならないということだ。それが神の限界だった。ではどの程度まで、神は人間に耐えられ、肉なるものの堕落に耐えられたのか。全ての人々は、神に従っていた人であろうと未信者であろうと、正しい道を歩んではいなかった。人間は単に道徳的に堕落し悪に満ちていただけではない。神の存在を信じていた者はおらず、ましてや神が世界を支配していることや、神が人々に光を与え正しい道へ導くことができると信じていた者などいなかった。人間は神の存在を憎み、神の存在を認めなかった。人間の堕落がここまで来てしまうと、神はもう忍耐することはない。ではその状態は何と取って代わられるのか。神の怒りと罰の到来である。それは神の性質の現れの一部分ではないか。この時代にあっても、神の目にあって正しい者はいるのだろうか。神の目にあって完全な者はいるのだろうか。今の時代は地上の全て肉なる者の振る舞いが神の目に堕落と映る時代だろうか。この日この時代に、神が完全にしたいと望む者、神に従い、神の救いを受け入れている者を除けば、全て肉なる者は神の忍耐の限界に達しているのではないだろうか。身の回りに起こる全ての事、自分の目で見て耳で聞く事、そしてそれぞれがこの世で日々経験することは不法で満ちてはいないだろうか。神の目には、このような時代、このような世界はもう滅ぼされるべきものなのではないだろうか。今の時代背景はノアの時代背景とは全く違うが、人間の堕落に対する神の感情と怒りは、ノアの時代のものと全く同じである。神はその働きゆえに耐えることができる。しかし神の目からすれば、全ての状況や条件を考えるならば、この世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのだ。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる以前の世界よりもはるかにひどいものだ。

   …

   このような状況で神が最も問題とすることは何か。それは、神に全く付き従わない者たちやどちらにしても神に反対する者たちがどのように自身を扱い、拒否するかでも、人間がどのように神を中傷するかでもない。自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が、神によって全き者となったかどうか、彼らが神自身が満足する者になったかどうかが、神にとっては問題なのである。神に付き従う者以外の人間に対しては、神は時々多少の罰をもってその怒りを示すだけである。例えば、津波、地震、火山噴火などである。それと同時に、神は神に従う者とまもなく救われる者を強固に保護し世話をする。神の性質とは次のようなものだ。神は自分が完全にしようとする人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、待てる限り待ち続ける一方で、神に付き従わずに敵対するサタンの輩を激しく忌み嫌う。神はこのサタンの輩が自分に従い礼拝するかは気にかけてはいないが、彼らに対する忍耐を持ちながらも彼らを忌み、神がこのサタンの輩の最後を決めると同時に、自身の経営計画が段階的に進んでいくのを待っている。


聖書の奥義を開く ソドムは神の怒りを示すために滅ぼされた

2020-02-04 00:19:03 | 聖書の奥義を開く

   ソドムの人々が2人の使いに会った時、ソドムの人々は来訪の目的を尋ねることも、神の心を広めるために来たのかどうかを尋ねることも無かった。それとは反対に、人々は徒党を組み、あたかも野良犬か狼であるかのように、物も言わせず2人の使いを捉えようとした。神はこの出来事を見ていたであろうか。このような人間の行いを見た神は、どのように感じたであろうか。神は、この町を滅ぼすことを決定し、躊躇も容赦も全く無かった。やがてその日が訪れ、神は計画通りに業を行った。従って創世記19:24~25には「ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。」とある。この2つの聖句では、神がこの町を滅ぼした方法と、神が何を滅ぼしたかが記されている。聖書では、神がこの町を火で焼いたことが最初に述べられており、次に、その火の威力は、全ての人々と地の草木をすべて滅ぼすに十分であったことが記されている。つまり、天から降った火は、ソドムの町を破壊しただけでなく、町中の人々を含めて、生きとし生けるものも、すべて跡形も無く滅ぼした。ソドムが滅ぼされた後には、生き物が全く存在しなかった。全く生き物が存在せず、生き物が居たことが感じられることすら無かった。町は不毛の地となり、そこには死の静寂があるのみであった。虐殺や殺人など、神に反する邪悪な行いは、もはやこの地に存在しなかった。

 

 

   神がこれほど徹底的にこの地を焼き尽くすことを望んだのは、何故であろうか。その事実から分かることは、何であろうか。神は、自身が造った人間や万物がこのように破壊されるのを、見ていることができるであろうか。天から降った火からヤーウェ神の怒りを理解することが出来れば、破壊の対象が何であったか、そしてとソドムの町の破壊の程度からヤーウェ神の怒りがどれほどであったかを理解するのはそれほど困難ではない。神が町を見捨てる時、神は、その町に神の罰を下す。神が町を嫌悪する時、神は、神の怒りをその町の人々に伝える警告を繰り返し行う。しかし、神が町を滅ぼすと決めた時、つまり、神の怒りと威厳が反故にされた場合、神は罰や警告を与えるのを止める。その代わりに、神はその町を破壊する。神は、その町を完全に消滅させるのである。これが神の義なる性質である。