賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ヨブについて(1)

2020-02-22 18:43:56 | 聖書の奥義を開く

  ヨブの経験した試練を学んできたわけだが、あなた方の大半はヨブ自身についてもっと知りたくなっただろう。特に、神から称賛される秘訣は何であるかを知りたいだろう。ではこれからヨブについての話をしよう。

   ヨブの日々の生活に完全さ、正しさ、神への畏れ、悪を避ける生き方を見ることができる

   ヨブについて語ろうとするならば、「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない。」という神自身の言葉によるヨブの評価をまず知らなくてはならない。

   まずヨブの完全さと義について学ぶとしよう。

 

 

   あなたは「完全」そして「正しい」という言葉をどのように理解しているだろうか。あなた方はヨブが責められるところのない人で、高潔であったと思うだろうか。勿論これは「完全」そして「正しい」の文字通りの解釈である。ヨブのことを真に理解するためには実生活から離れてはいけない――言葉、書籍、理論だけでは、答えを見つけることはできない。まずヨブの家庭生活、日々の生活はどのようなものだったかを検討しよう。そうすることで彼の人生における原則と目的、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからだ。それではヨブ記1:3の最後の部分を読む。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するところは、ヨブの地位と立場は非常に高く、彼が多くの財産を所有しているからと言って、または彼が完全であり正しく、神を畏れ悪を避ける人間であるからと言って東方で最も偉大な人間であったかどうかは分からないにしても、とにかくヨブの地位と立場が非常に尊ばれていたということである。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れ悪を避ける完全な人で、非常に多くの財産と尊敬される地位にいたということである。そのような環境と条件の下で生きている普通の人間であるヨブの食生活、生活水準等の日常生活はいったいどのようなものであったのか、それが大方の人間の注目するところである。続けて聖句を読む。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記1:4-5)。この聖句から2つのことが分かる。ヨブの息子娘達は定期的に宴会を催し、飲み食いをしていたということ。2つ目は、ヨブが度々息子娘達のために全焼のいけにえを捧げていたということである。ヨブは自分の息子娘達が罪を犯したり、心の中で神を呪ったりしてはいないかと心配していたのである。この聖句の中に、2種類の全く異なる種類の人間が描かれている。まず、ヨブの息子娘達は裕福であり、贅沢に暮らしていた。心ゆくまで豪華な食事を楽しみ、物質的な豊かさがもたらす高水準の暮らしを享受していた。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神の怒りを招くことは避けられなかったが、それでも彼らは自らを清めたり、全焼のいけにえを捧げたりすることはなかった。そこから分かるのは、神は彼らの心の中に居場所はなく、彼らが神の恵み、神の怒りを招くことに対する畏れなどを思うこともなく、ましてや神を放棄することを恐れてなどいなかったことが分かる。もちろん、わたしたちがいま問題としているのはヨブの子ども達ではなく、そのような子ども達を目の当たりにしたヨブがどうしたかである。これが、この聖句に書かれているもうひとつの問題であり、ヨブの日常生活と彼の人間性の本質と関わりがある。ヨブの息子娘達の宴会について書かれている聖句では、ヨブには言及していない。ヨブの息子娘達がしばしば宴会を催し、飲み食いしていたとだけ書いてある。言い換えれば、ヨブが宴会を催した訳ではなく、ヨブはそこで一緒に贅沢に飲み食いもしていないのである。彼は富んでおり、多くの資産としもべとを所有していたが、ヨブは贅沢な暮らしはしていなかった。ヨブは贅沢な生活環境を楽しむことなく、肉の楽しみを貪ることもなく、富むが故に全焼のいけにえを捧げ忘れるということもなく、ましてや徐々に神を自分の心から遠ざけるというようなことはしなかった。明らかにヨブはその生活に自制心を持っており、貪欲でも快楽主義でもなく、神からの祝福による高い生活水準に固執することもなかった。むしろ、彼は謙虚で慎み深く、そして神の前に注意深く慎重であった。しばしば神の恵みと祝福に思いをめぐらせ、常に神を畏れた。ヨブは度々朝早く起きて、息子娘達のために全焼のいけにえを捧げた。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子ども達も同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていた。物質的な豊かさがヨブの心の一部分でも占めることはなく、物質的な豊かさがヨブの心にある神に取って代わることもなかった。自分自身のためであれ子ども達のためであれ、ヨブの習慣は全て神を畏れ悪を避けることに直結していた。ヨブのヤーウェ神への畏れは言葉によるものだけではなく、行動で現され、彼の日常生活のあらゆる場面に反映されていた。このようなヨブの振る舞いから、ヨブが正直で、その本質は義を愛し、善を愛するものであったことが分かる。ヨブはしばしば息子娘達を送って清めたということは、彼が自分の息子娘達の振る舞いを認めておらず、良しとしてはいなかったということである。むしろ、その心は子ども達の行いにうんざりしており、非難していた。ヨブは自分の子ども達の行いがヤーウェ神に喜ばれていないと結論付けた。それ故、彼は頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に出て罪を告白させたのである。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見える。それは、ヨブは罪を犯す者達と決して歩まず、彼らから遠ざかり、避けたということである。たとえそれが自分の息子娘達であれ、ヨブは彼らのために自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃したりはしなかった。むしろ子ども達に、罪を告白してヤーウェ神の寛容を受け、快楽に対する貪欲さ故に神を捨ててはならないと警告した。ヨブの周囲の人々に対する接し方の原則は、神を畏れ悪を避けるという原則と切り離すことはできない。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が拒絶する物事を憎んだ。神を畏れる心を持つ人々を愛し、神に対して悪を行なったり罪を犯したりする人々を憎んだ。ヨブの日々の生活がその愛と憎しみを語っており、正にその愛と憎しみが、神の目に映ったヨブの正しさそのものであった。当然これが、周囲の人々との関わりの中におけるヨブの真の人間性の現れであり生き様であり、わたしたちは是非これについて学ぶべきである。

   試みの中でのヨブの人間性の現れ(試練の中でのヨブの完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避ける生き方を理解する)

   ここまで、ヨブが試みに遭う前に彼の日常生活に見られた人間性の側面について話してきた。これらを理解することにより、ヨブが正しく、神を畏れ悪を避けることの初歩的知識と理解を得るこができ、確認することができたことは間違いないだろう。「初歩的」と言ったのは、大半の人がまだヨブの人間性を真に理解しておらず、彼がどれほど神に従い神を畏れる道を求めたかを真に理解していないからである。つまり、大半の人のヨブに対する理解は、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」、そして「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という聖句が与える幾分ヨブに好意的な印象の域を出ることがないのである。したがって、ヨブが神から試練を受けた後に見せた彼の人間性を理解する必要が大いにある。そうすることで、ヨブの真の人間性が全て明らかになるのである。

 

   ヨブが、財産を奪われ、息子と娘達が命を失い、しもべ達が殺されたと聞いた時のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、…」(ヨブ記1:20)という聖句に示されている。この言葉はひとつの事実をわたしたちに示している。知らせを聞いたヨブは動揺することもなく、泣くこともなく、知らせを持ってきた使いの者を責めることもせず、ましてや現場を検証してなぜどのようにしてそのようなことが起きたのか、詳細を確認しようなどとは考えなかった。彼は所有物を失ったことに対して一切の痛みや後悔を見せることもなく、愛する子供たちを失ったことで泣き崩れることもなかった。それどころか、ヨブは自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して神を礼拝した。ヨブの行動は普通の人間の行動とは全く異なっていた。ヨブの行動に多くの人は混乱し、ヨブの「冷血さ」を心の中で叱責した。所有物を突然失えば、普通の人間であれば悲しくなり、落胆する。人によっては深い絶望感を感じるだろう。人にとって財産は人生の長い苦労の結晶であり、生きる支えであり、生きる望みであるからである。財産を失うということはそれまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということである。これが普通の人の財産に対する考え方であり、普通の人はそれほど深く財産と関わっているのである。人の目には、財産とはそれほど重要なのである。そのような訳で、財産を失っても冷静でいられるヨブに大半の人々は困惑するのである。ここではヨブの心の中を理解することにより、そのような人々の困惑を払拭する。

   常識的に考えるならば、神から与えられた膨大な財産を失ったのだから、ヨブは恥じるべきだと言われるだろう。財産をきちんと管理できず、神に与えられた財産を手放さずに持っていることができなかった訳であるから。財産が奪われたと知った時、ヨブは現場に赴いて失った財産を記録し、それを神に報告し、もう一度神の祝福が得られるようにすべきであったと。だがヨブはそのようなことはしなかった。ヨブにはそうしない理由が当然あった。ヨブは、自分の所有物は全て神から与えられており、自分の労働から生まれたものではないと深く理解していた。故に神からの祝福を資本とするものとは考えず、自分の生きるべき道からどんなことがあっても離れない様、その原則に全力で留まったのである。ヨブは神に与えられた祝福を大切にし、感謝した。だがその祝福に心を奪われることはなく、更に祝福を求めることもしなかった。それがヨブの財産に対する彼の姿勢である。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、また、神からの祝福が欠けるとか失うということを心配したり悩んだりすることもなかった。神から祝福を受けることで荒っぽくなったり、有頂天になることもなく、繰り返し享受する祝福に神の道を無視するようになったり、神の恵みを忘れたりすることもなかった。財産に対するヨブの姿勢は、人々に彼の真の人間性を示すものとなった。その理由の1つ目は、まず、ヨブは欲深い人間ではなく、その生活において物質的に多くを求めることはしなかった。そして2つ目は、神が全てを取り上げることをヨブは心配したことが一度もなかった。これはヨブの神への従順を現している。つまりヨブは、神が彼の財産を取り上げるかどうか、そして取り上げるのであればいつならば良いかというような注文をつけたり不服を言ったりすることは一切なく、何故取り上げたかその理由を聞くこともなく、ひたすら神の計画に従うことだけを求めたのである。3つ目の理由は、ヨブは自分の財産が自分の労によるものだとは決して思わず、神に与えられたものだと信じていた。これがヨブの信仰であり、彼が確信するものの現れである。ヨブの人間性と日々追い求めていたものが今述べた3つのポイントで理解できただろうか。ヨブが財産を失っても冷静に振る舞うためには、彼の人間性と彼が追い求めてきたことが不可欠だった。神からの試練の中にあっても、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことのできる背丈を持ち、確信に立っていることができたのは、ヨブが日々追い求めていたものがそのようなものであったからである。ヨブのこの言葉はひと晩のうちに言えるようになるものでもなく、ヨブの思いつきで言った言葉でもない。ヨブの長い人生経験から生まれたものである。神の祝福ばかり求め、取り上げられることを恐れ、取り上げられることを嫌い、取り上げられれば不平を言う人達と比較すると、ヨブの従順さは実に本物ではないだろうか。神の存在は信じるが神が全てを支配するとは決して信じない人達と比較すると、ヨブは非常に正直で正しかったと言えるだろう。