賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

信仰の無い人々の生死の周期

2020-03-20 23:00:34 | 聖書の奥義を開く

   それでは、まず信仰の無い人々の生死の周期の話をする。ある者が死ぬと、その者は霊界の執行官により取り去られる。それでは、その者の何が取り去られるか、というと、それはその者の肉体ではなく、魂である。その者の魂が取り去られると、死んだばかりの者の魂を受け付けることを専門とする霊界の部局に辿り着く。(注:死者が死後最初に行く場所は、死者の魂にとって未知の場所である。)魂がこの場所へと持ち込まれた時、役人が最初の検査を行い、名前や住所、年齢、その者が生涯に行ってきた物事が確認される。死者の生前の行動は、全て帳簿に記録され、それが正確であることが確認される。それらの確認が完了した後、その者の生前の態度や行動により、罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断される。これが第一段階である。この第一段階は恐ろしいであろうか。この段階はそれほど恐ろしいものではない。なぜなら、この段階では、その者が暗く馴染みの無い場所に到着するだけだからである。それほど恐ろしいものではない。

 

 

   第二段階では、その者が生前多くの悪業を行った場合、あるいは多くの邪悪な所行があった場合、その者は刑場へと連れられて罰せられる。こうした者が連れて行かれるのは、明白に人間を処罰する場所である。人間がどのように罰せられるかに関する具体的な内容は、その者が生前犯した罪や、邪悪な所行を行った回数により異なる。これが第二段階で最初に行われる事である。その者が生前行った物事や邪悪な所行が原因となって、その者が罰を受けた後に再び受肉して物質世界に再び生まれたとき、一部の者は引き続き人間となり、別の一部の者は動物となる。つまり、ある者が霊的世界に戻った後、その者は、自分が行った悪業のために罰せられた上、その悪業のため、その後再び受肉する際に、人間では無く動物となる。こうした者が生まれ変わる動物の範囲には、牛、馬、豚、犬などがある。一部の者は空を飛ぶ鳥や、アヒル、ガチョウなどになる。こうした者が動物として生まれ変わった後に死ぬと、霊的世界に還り、従前と同様に、その者の行いに基づいて霊的世界において人間として生まれ変わるかどうかが決定される。

   大部分の人々は、邪悪な行いが多すぎるため、また罪が深すぎるため、生まれ変わった時に7回から12回は動物となる。7回から12回とは、恐ろしいことではないか。あなたがたにとって、恐ろしいことは何であろうか。人間が動物となるとは、恐ろしいことである。人間にとって、動物となって最も辛い事柄は何であろうか。言葉が無く、単純な考えしか無く、動物が行う行動しか出来なくなり、動物の食べものを食べ、単純な精神を持ち、動物の身振りによる言葉を用い、直立歩行や人間との意思疎通が不可能となり、人間の行動や活動は動物と全く無関係である。つまり、動物となると、あなたがたは生き物のうち最低の存在となり、それは人間であることよりも遙かに辛いことである。これが、邪悪な行動を多く行い、深刻な罪を犯した者に対する霊的世界の罰の一側面である。罰の重さに関しては、人間がどのような動物となるかで決定される。たとえば、豚となるのは、犬となるよりも良いであろうか。豚の生活は、犬の生活よりも良いであろうか、それとも悪いであろうか。間違い無く悪いであろう。人間が牛や馬になった場合、豚よりも良い生活を送ることが出来るであろうか。(良い生活を送ることが出来る。)あなたがたには、選択肢がある場合、好みがあるようである。猫になった者は、比較的快適であろうか。猫になるのは、馬や牛になるよりも大幅に快適であろう。様々な動物から選択できるとしたら、猫を選ぶのが快適であろう。なぜなら、殆どの時間を怠けて寝て過ごすことができるからである。牛や馬になると、労働が比較的多いので、人間が牛や馬に生まれ変わった場合、勤勉に働く必要があり、それは重い罰のように思われる。犬になるのは、牛や馬になるよりも僅かに良いであろう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからである。さらに、現在、多くの人々が犬を飼い、3年、5年経つと犬は人間の言うことの多くを理解するようになる。犬は飼い主の言葉を数多く理解できるので、飼い主の事を十分理解し、飼い主の気分や要求に合わせることが出来る。したがって飼い主は犬の扱いを向上し、犬の食べ物や飲み物も向上し、犬に痛みがある場合には比較的手厚く看護される。したがって、犬は幸福な生涯を送るのではなかろうか。ゆえに、犬になるのは、牛や馬になるよりも良い。こうして、ある者の罰の重さが、その者が何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかを決定する。これについては理解したであろう。

   一部の人々は、生前に犯した罪の回数が多すぎるため、7回から12回、動物に生まれ変わる罰を受ける。十分な回数の罰を受けて霊的世界に戻った時、こうした人々は別の場所へと連れて行かれる。この場所の様々な魂は既に罰を受け、人間として生まれ変わる準備をしている種類のものである。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わった時にどのような役割を担うかなどにより、それぞれの魂が分類される。たとえば、この世に生まれた時に歌手となる人々は他の歌手達と一緒にされ、この世に生まれた時に実業家となる人々は他の実業家と一緒にされ、人間として生を受けた時に科学研究者となる人々は、他の科学研究者と一緒にされる。魂が分類された後は、丁度現在の人々が電子メールを送信する時のように、それぞれ異なる時期に送り出される。これで生死の周期の一巡が完了するが、極めて劇的である。ある者が霊的世界に到着したその日から、その者に対する罰が終わるまで、その者は何度も動物として生まれ変わり、そしてその者が人間として生まれ変わるよう準備される。これがその過程の全てである。

   それでは、罰を受け終えて動物として生まれ変わることが無くなった者は、すぐに物質世界へと送られて人間となるであろうか。その者が人間となるまでには、どの程度の期間を要するであろうか。こうした者が人間になる頻度はどの程度であろうか。[a]これには、時期的な制限がある。霊的世界で発生する事柄には、それに関連する時期的な制限と規則が適用されるが、それは数値で説明すれば、理解できるであろう。短期間のうちに生まれ変わった者については、その者が死んだ時に人間として生まれ変わる準備が行われる。その期間は、最短で3日である。その期間が3ヵ月の人々も居れば、3年の人々も、30年の人々も、300年の人々も、3000年の人々も居る。それでは、こうした時期的な規則について、どのようなことが言えるであろうか。またその規則の詳細はどのようなものであろうか。人間の世界である物質世界への魂の到来は、必要性に基づくものである。それは、その魂がこの世で担う役割に準じたものである。人々が普通の人間として生まれ変わった場合、大部分の人々が極めて短い期間を経て生まれ変わる。なぜなら、人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからである。そうしたわけで、こうした人々は、3日後に、死ぬ前の家庭とは全く異なる家庭へと送られる。しかし、この世の中で特別な役割を担うべき人々も居る。「特別な」というのは、人間の世界には、そうした人々に対する大きな需要は無く、そうした役割を担うために必要とされる人々は、それほど多く無いので、そうした人々が生まれ変わるのは300年後となる場合もある。[b]すなわち、こうした魂は、300年に1度、あるいは3000年に1度、この世に現れる、ということである。それは何故だろうか。それは、300年間あるいは3000年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそうした魂は霊的世界のどこかに留められているからである。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼした。あなたがたは皆、孔子のことを知っているであろう。孔子の出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を及ぼした。しかし、そのような人間は、それぞれの時代に必要とされることは無く、したがって孔子は霊的世界に留められ、300年、あるいは3000年にわたって待機した後に生まれ変わる必要がある。人間の世界では、孔子のような人間を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要があった。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、孔子のような人間がなすべきことは少ないので、孔子は殆どの期間、霊的世界のどこかで、何もせずに留められ、人間の世界で孔子が必要となった時に送られる必要があったからである。霊的領域における時間的な規則はこのようなものであり、大部分の人々がそれに従って生まれ変わる。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊的世界には、人間の生まれ変わりの処理に関する適切な規則と慣行があり、そうした規則と慣行は神に由来し、神から送られたものであり、霊的世界の執行官その他の存在により決定されたり管理されたりするものでは無い。これで、あなたがたはこのことを理解したであろう。

   あらゆる魂にとって、生まれ変わった後に担う役割、その魂の生涯における役割、その魂が生まれる家庭、その魂の人生がどのようなものかは、それ以前の人生と密接に関連している。様々な人々が人間の世界に現れ、人々が担う役割や行う任務も異なる。それでは、その任務とは何であろうか。一部の人々は、負債返済のために現れる。つまり、前世において他人からの借入額が多すぎた場合、その負債を返済する。その一方で、債権回収のために現れる人々も居る。こうした人々は前世において様々な事柄で騙されて金銭を巻き上げられたので、霊的世界に到着した後、霊的世界による公平に基づいて、その生涯で債権を回収することが許可されている。一部の人々は、恩返しをするために現れる。すなわち、死ぬ前に前世で誰かの厚意を受け、生まれ変わってその恩を返す素晴らしい機会を与えられる。その一方で、命を奪うために生まれ変わった人々も居る。それでは、こうした人々は誰の命を奪うのであろうか。それは、前世でそうした人々を殺した者の命である。つまり、各人の現在における人生には、前世との密接な関連性があり、断つことの出来ないつながりがある。すなわち、各人の現在における人生は、前世により大きく影響される。たとえば、チャン氏が生前に巨額の金銭をめぐってリー氏を騙したとする。チャン氏はリー氏に負債があるであろうか。負債がある場合、当然リー氏はチャン氏の負債を回収すべきである。したがって、両氏の死後には解消すべき負債が残されるが、両氏が生まれ変わった時、チャン氏が人間として生まれ変わった時、リー氏はどのようにしてチャン氏の負債を回収するであろうか。回収方法のひとつとして、リー氏がチャン氏を父として、その息子となって生まれ変わり、負債を回収するというのがある。それが現在の人生において実現されることがらである。リー氏の父親チャン氏は多くの収入を得るが、息子のリー氏がそれを浪費する。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを消費してチャン氏を「助ける」。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、決して十分ということは無く、何故か、最終的には常にその息子が父親の金銭を、様々な事柄や方法で使う。チャン氏は不思議に思う。「いったいどうなっているのだ。なぜ、私の息子は常に問題を起こすであろうか。他の人々の息子が立派なのは何故だろうか。私の息子は野心が無く、役立たずで収入を得られず、常に私が金銭的支援をしなければならないのは何故だろうか。私は息子を支援する必要があるので支援するが、私がいくら金銭を渡しても、息子には常にそれ以上の金額が必要となるのは何故だろうか。息子がまともに働けないのは何故だろうか。息子が怠惰で飲み食いをしては風俗や賭博に明け暮れるのは何故だろうか。一体どうなってしまっているのだろうか。」チャン氏は暫く考える。「それは、前世において私には息子に借りがあるからではないだろうか。そうだ、前世において私には息子に借りがあるからというのは、あり得る。それならば、借りを返そうではないか。これは、私が借りを完済するまで終わることがないであろう。」やがて、リー氏が債務を回収し終え、40代、50代になって、突然目覚める日が来るであろう。「自分の半生では、何も善い行いをしなかった。父が稼いだ金を、すべて浪費してしまった。私は善人になる必要がある。私は決心した。私は正直に、正しい生活を送り、二度と父を悲しませない。」リー氏は、なぜこのように考えるのであろうか。突然リー氏が変わり、向上するのは何故であろうか。それには何か理由があるであろうか。その理由とは何であろうか。実は、それはリー氏が債権を回収し終えたことが、その理由である。これについては、因果関係がある。話の発端は、両氏が生まれる前にまで遡り、両氏の前世における経緯が現在の人生にまで持ち越されているので、どちらも相手を責めることは出来ない。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうとはしなかったが、負債が返済された日には、息子を諭す必要は無く、息子は自然と理解した。これは簡単な例だが、当然この他にも類似する事例が多数ある。それでは、この例から何が分かるであろうか。(両者は善良で無ければならない。)両者は悪業を行ってはならず、悪業には、それに対する報いがあるということである。信仰の無い者は、お分かりの通り、悪業を数多く行い、その悪業に相応する報いがあるであろう。しかし、こうした報いは自主的なものであろうか。報いのある物事には、すべてその背景と原因がある。あなたは、誰かに対して金銭関連で不正を行っても、自分には何も起こらないと思うであろうか。金銭をめぐって誰かを騙し、金銭を騙し取った後に、あなたには報いが無いと思うであろうか。何も起こらないということは、有り得ない。自分のした事は、必ずめぐりめぐって自分に還ってくる、というのは完全に正しい。つまり、神の存在を信じるか如何を問わず、誰もが自分の行動に対する責任を負い、その行動による結果と対峙しなければならない。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が罰を受け、リー氏が償還を受けているが、これは公平であるか、というと、公平である。人間がこのような行動を取った場合、そのような結果となる。それでは、このことは霊的世界の管理と無関係であるか、というと、このことは霊的世界の管理と不可分の関係にある。神を信じない、信仰の無い者であっても、その存在は、誰も逃れることの出来ない天の命令や規則の対象となる。いかに人間の世界において地位が高い者であっても、この事実から逃れられる者は居ない。

   信仰の無い者は、しばしば目に見える物全てが存在し、目に見えない物や人間から遠く離れた物は存在しないと考える。信仰の無い者は、「生死の周期」も「罰」も存在しないと考えたがり、良心の呵責無く罪を犯し、悪業を行い、その後罰を受け、動物に生まれ変わる。信仰の無い者のうち殆どの者が、この悪循環に陥っている。それは何故であろうか。それは、こうした人々は、生きる物全ての管理に対し、霊的世界が厳格であることを知らないからである。信じるかどうかを問わず、この事実は存在し、神の目により確認される物事の範囲から逃れられる人や物、天の命令や神の規則によるきまりや制限から逃れられる人や物は存在しない。したがって、あなたがた各人に、この簡単な例について話をする。神を信じるかどうかを問わず、罪を犯し、悪業を行うことは認められず、そうした行動には報いがある、ということは、絶対的である。金銭をめぐって他人に対して不正を行った者が罰せられる時、その罰は公平妥当であり、かつ義である。こうした典型的な行動は、霊的世界において神による規則と天の命令により罰せられ、いわんや強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火など、重篤な犯罪や邪悪な行いに対しては、それにも増して様々な重さの罰の対象となる。それでは、こうした様々な重さの罰には、どのようなものがあるだろうか。その期間により重さが決まる罰もあれば、様々な方法で重さが決まる罰、生まれ変わるときの行き先で重さが決まる罰もある。たとえば、一部には、口汚い人がいる。ここで「口汚い」、とは何を意味するであろうか。それはしばしば他人に暴言を吐いたり、汚い言葉を使ったり、他人を罵倒するような言葉を使うことである。汚い言葉により示される事は何であろうか。それは、その人の心が汚れていることを示す。他人を罵倒する汚い言葉は、しばしばそうした人々が口にするが、そうした汚い言葉には、厳しい報いが伴う。そうした人々が死んで相応の罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は生前極めて計算高く、他人を利用することが多い。そうした人々の手口は、極めて周到であり、他人を傷つけることを数多く行う。こうした人々が生まれ変わる時、知能や精神に障害がある者として生まれ変わる可能性がある。一部の人々は、他人のプライバシーを頻繁にのぞき見て、見るべきでは無い内情を見たり、知るべきでは無い事柄を知ったりすることが多々あるが、そうした人々は、生まれ変わると全盲者となる可能性がある。生前は短気で喧嘩をすることが多く、邪悪な行いを多数行った者は、それに準じて身体障害や手足の不自由を持って生まれ変わったり、背むしや斜頸となったり、肢体不自由になったり、一方の足が他方よりも短くなったりする。こうした人々は、この場合、生前に行った邪悪な行動の程度に基づいて、様々な罰の対象となっている。それでは、斜視の人々が居るのは何故だと言えるだろうか。斜視の人は多数居るであろうか。現在、斜視の人々が多数いる。そうした人々は、生前に目を使いすぎたり、悪業が多すぎたりしたために斜視となって生まれ変わり、重篤な場合は全盲者となる。斜視の人々を見るのは気持ちの良いものだろうか。斜視の人々は好印象を与えるであろうか。こうした人々は、顔立ちが美しく、肌がきれいで色が明るく、目が大きく二重だが、残念ながら片方の目が斜視となっている。斜視の人々は、どのように見えるであろうか。斜視はその者の表情に全面的な影響を与えるのではないか。こうした影響を受けている人々は、どのような人生を送るであろうか。斜視の人々は、他の人と会う時に「私は斜視だ。あまり頻繁に他人を見てはならない。他人に自分の目を見られたくない。私は前にかがんで話をする必要がある。相手の顔を見てはならない。」などと考えるであろう。斜視は、その人の物の見方や、相手の顔を見る能力に影響を与える。この点について、斜視の人々は目の機能を喪失していないだろうか。こうした人々の前世における行き過ぎた行為は、それにより贖われていないだろうか。したがって、こうした人々は、その次の人生では、従前ほど悪業を行わなくなる。これが報いである。

   一部の人々は、生前には他の人々と仲良くできて、自分の周囲の人々や家族、友人、同僚やその関係者に対して親切な行為を多数行う。こうした人々は他人を助け、思いやりと配慮を与え、金銭的に支援し、他人はこうした人々を高く評価するが、こうした人々は、霊的世界に戻った時、罰を受けることはない。信仰の無い人々が何らかの方法で罰を免れるということは、その人々が極めて善人であったことを意味する。こうした人々は、神の存在を信じず、蒼天のみを信じる。こうした人々は、天に自分達を見守る魂があると信じているが、こうした人々が信じるのはそれが全てである。それでは、その結果はどうなるであろうか。こうした人々は極めて行いが良い。こうした人々は親切で思いやりがあり、最終的に霊的世界に戻ったとき、霊的世界ではこうした人々を極めて厚遇し、こうした人々はやがて生まれ変わる。それでは、こうした人々はどのような家庭に生まれるであろうか。その家庭は裕福では無いものの、家族生活は平和であり、家族の者同士は調和し、平穏で幸福な日々を送り、皆幸せで良い生活を送るであろう。こうした人々が成人すると、多数の息子と娘を授かり、大家族となって、子供達は皆才能に溢れて成功し、子供達とその家族は幸運に恵まれるであろう。そして、こうした結果は、その者の前世と密接に関連している。つまり、死後に生まれ変わって行く先まで、ある者の人生全体、すなわち、男になるか、女になるか、またその者の使命や将来の人生で経験すること、障壁や、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、何が起こるかについては、誰もそれを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたり出来ない。すなわち、あなたの人生が決定された後は、あなたに何が起こるかについて、どれほど懸命に、またどのような方法を用いてそれを避けようとしたとしても、霊的世界で神により定められた人生の進路を外れることは決して出来ない。なぜなら、生まれ変わった時、あなたの運命は既に決定されているからである。それが良いか悪いかを問わず、全員がそれに直面し、前進し続ける必要がある。これは、この世に生きる者全員にとって不可避な問題であり、それよりも現実的な問題は存在しない。これらのことは全て理解できたであろう。

   それを踏まえて、あなたがたは、信仰の無い者の生と死の周期について、神が極めて正確で厳格な検査と管理を行っていることを理解できるであろうか。まず、神は霊的世界における様々な天の命令や規則、組織を定め、そうした天の命令や規則、組織が宣言された後、それらは霊的世界の様々な役務を担当する者により、神が定めた通り厳密に施行され、敢えてそれらに違反する者は居ない。したがって、人間の世界における人間の生死の周期、そしてある者が動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについては、その両方に法則が存在する。これらの法則は神に由来するため、敢えてそれに背く者は居らず、背くことが出来る者も居ない。人間が見ることの出来る物質世界が規則正しく秩序が保たれているのは、こうした神の統治と法則のためである。人間が全く見ることの出来ない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活出来るのは、こうした神の統治のためであり、これらは全て神の統治と不可分のものである。肉にある魂の命が死んだ後も、魂には命があるとすれば、神の管理が無かったとしたら、その魂はどうなるであろうか。その魂は様々な場所をさまよい、様々な所に入り込んで、人間の世界の生き物を害することすらあるであろう。こうした危害は人間だけでなく、植物や動物も対象となるが、最初に害を受けるのは、人間であろう。こうした魂が管理されておらず、人間に危害を加え、極めて邪悪な物事を行ったとしたら、霊的世界にこうした魂の適切な処遇も存在するであろう。事態が深刻な場合、その魂はやがて消滅し、破壊されるであろう。可能であれば、どこかに置かれた後に生まれ変わるであろう。つまり、霊的世界における様々な魂の管理は、様々な段階と規則に従って命じられ、実施されている。人間の物質世界が混沌としたものとならず、物質世界の人間が正常な精神と分別を持ち、肉体にあって秩序ある生活を送っているのは、こうした管理があるために他ならない。人間がそうした通常の生活を送ることによって初めて、肉体にあって生活する者は繁栄し、何世代にもわたって繁殖を続けることができる。

   ……信仰の無い人々について、神の業が基づく原則は、善良を讃え、邪悪を罰するものであるだろうか。神の業には原則があることを理解したであろうか。あなたがたは、原則があるということを理解できるであろう。信仰の無い人々は、実際に神を信じて居らず、神の指揮に従わず、神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなど無い。さらに深刻なことには、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を持っている。こうした人々は、神に対してそのような姿勢であるが、こうした人々に対する神の統治は、神の原則から逸脱することが無い。神は、神の原則と性質に従い、こうした人々を規則的に管理する。神は、こうした人々の敵意をどのように見なすか、というと、それを無知とみなす。そうしたわけで、神はこうした人々すなわち信仰の無い人々の大部分を、1回動物として生まれ変わらせられる。それではあなたに尋ねるが、神は信仰の無い人々をどのように見ているであろうか。(家畜として見ている。)神の目から見ると、こうした人々は、家畜の類いである。神は家畜を管理し、人間を管理するので、神はこの種の人々に対しても同じ原則がある。こうした人々に対する神の管理とこうした人々に対する神の業においても、やはり神の性質と神の万物支配の法則が存在することが分かる。これで、あなたがたはわたしが今話をした信仰の無い者を神が管理する原則における神の統治を理解したであろうか。神の義なる性質を理解したであろうか。(理解した。) あなたがたは神の統治と神の性質を理解した。つまり、神が取り扱う物が、万物のうち何であれ、神は神自身の原則と性質にしたがって業を行う。これは神の本質である。神は、こうした人々を家畜とみなすことで神が定めた規則や天の命令に何気なく反することは、決して無い。神は全く秩序を乱すことなく、原則に従って業を行い、神の業はいかなる要素にも影響されることが一切なく、業が何であるかを問わず、すべて神自身の原則に従うものである。これは、神には、いかなる創造物も持ち得る事の無い、神自身に特有の本質があるという事実により判断される。神は、神が造ったあらゆる物や人間、生き物について、その取り扱い、それに対する姿勢、経営、管理、支配について、誠実で、責任を持っており、決して不注意でいることはない。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない罰を与える。そして様々な生き物については、人間の世界における、その時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で、適切な采配を行うので、そうした様々な生き物は、それぞれが受け持つ役割に従い、秩序をもって生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊的世界の間を行き来する。これは、人間が理解し、知るべきことである。

   生き物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生き物が物質世界から霊的世界へと移動したことを示す一方、物理的な生命の誕生は、生き物が霊的世界から物質世界に来て、その役割を負い、果たし始めるということを示す。それが生き物の出発であるか、到着であるかを問わず、そうした出発と到着は両方とも霊的世界における業と不可分である。ある者が物質世界に到来した時、霊的世界において、その者が生まれる家庭、その者が現れる時代、時期、そしてその者が担う役割に関して、その者に適した采配と定義は、神により既に完了されている。そうしたわけで、その者の生涯全体、その者の行動や、その者が進む方向性は、霊的世界における采配に従い、一切の誤り無く進行してゆく。その一方で、物理的な生命が終焉を迎える時、そして終焉のかたちと場所は、霊的世界においては明瞭で認識可能である。神は物質世界を支配し、また霊的世界を支配し、また神は通常における魂の生死の周期を遅延させることは一切無く、ある魂の生死の周期に関する采配において誤ることも一切無い。霊的世界の当局に仕える執行官は、それぞれ神の指示と支配に従い任務を遂行し、なすべき事を行う。そのため、人間の世界では、人間が認識するあらゆる物質的現象は秩序があり、混沌は一切存在しない。こうしたことは、すべて神の秩序ある万物支配と、神の権威による万物支配のおかげであり、神の支配下にある物事には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊的世界がある。そうしたわけで、人間が良い生活を望み、好ましい環境を望むのであれば、物質世界全体において与えられることに加え、誰も見ることが出来ず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、秩序のある霊的世界においても与えられる必要がある。ここまでの話で、神が万物の生命の源である、と言った時の、「万物」に対する意識と知識が増えたのではないだろうか。