賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ラザロの復活が神を褒めたたえる

2020-03-30 22:55:06 | 聖書の奥義を開く

   こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

   あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

 

 

   ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

   主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。