快速ナビ
賢い乙女のたとえ
常に聖書を読み、祈り、苦労して働き、主の再来を熱心で待つ者は賢い乙女なのか
賢い乙女とは何か
終わりの日に、賢い乙女は主の再来をどのように扱うべきか
神様の声をどのように聞き分けるか
賢い乙女のたとえ
主イエスは言われました。「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」(マタイによる福音書25:1~12)
常に聖書を読み、祈り、苦労して働き、主の再来を熱心で待つ者は賢い乙女なのか
すべての真心で主を信じる兄弟姉妹はみな自分が賢い乙女で、終わりの日に救い主イエスの再来を迎えることができ、主と共に宴席に着くことを望んでいます。このため、ある人はよく聖書を読み、祈り、目を覚まして用意しています。ある人は苦労して働き、自らを捧げ費やしています。ある人は時間を厳守して集会し、熱心で主の再来を待ち望んでいるなど。私たちすべての人はみな自分の方法で用意し、費やし、待ち望み、そして自分が賢い乙女であり、必ず主の再来を迎えることができると堅く信じています。しかし、今、世界各地での飢饉、疫病、地震がますます多くなり、戦争も頻繁に発生し、血の月の稀有な現象も頻繁に現れ、主の再来の兆しは既に実現されています。本来から言えば、主が戻られたはずですが、私たちは長年、目を覚まして用意したのに、なぜまだ主を迎えていないのですか。一部の兄弟姉妹は思わずこのように心配しています。「私たちがこのように油を用意したのは主の御心に適わないのか。いったい賢い乙女とは何か。賢い乙女はどのように油を用意すれば、主を迎えて子羊の婚宴に着くことができるのか。」
賢い乙女とは何か
これらの問題に対して、私たちは2000年前、主イエスが働かれた時に、どの人が主イエスが来るべきメシアであることが分かったか、どの人が主の救いを失ったかなどの事実の中から答えを見つけます。律法の時代の末期に、ますます多くの人が律法を守れず、死刑を宣告される危険な状態にありました。人を律法によっての断罪、呪いを免れさせ、神様は受肉されて主イエスとなって一段階の贖いの働きをなさり、人々に「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)という道をもたらし、多くのしるしや奇跡を行われました。例えば、風と海を大なぎにさせ、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹させ、一言で死者を復活させたなど。それらの真心で真理を尋ね求め、神様の出現を切望する人、例えばペテロ、ヨハネ、マタイなどの人は、主イエスの言葉と働きの中から神様の権威と能力を感じ、主イエスが来るべきメシアであることがわかりました。それによって主に従い、主の救いを得られました。また、サマリアの女も主が彼女の心の中の秘密を言われたのを聞いて、神様だけが闇に隠されている人の秘密を明らかにされることに気づき、主イエスがメシア、キリストであることがわかりました。これらの人は主イエスの言葉から神様の声を聞き分け、主イエスが神様ご自身であることがわかり、彼らは本当の賢い乙女であり、花婿を迎えて花婿と共に宴席に着く人です。しかし、それらの祭司長、律法学者とパリサイ人は聖書に精通し、海と陸とを巡り歩いて福音を広め、多くの苦しみを受け、大きな代価を払ったが、彼らは傲慢で高ぶっていて、自分の観念と想像に固執し、「メシアと呼ばない限り神様ではない」と思っていました。主イエスの語られた言葉は権威と力があり、彼らは主イエスの言葉から真理を尋ね求めないだけではなく、主イエスの言葉の弱みを握り、主イエスを裁き、冒涜し、ユダヤ教の信者が主イエスに従うことを阻み、惑わし、ローマ政府と手を組んで主イエスを十字架につけ、神様を信じるが神様に抵抗する人になり、神様の性質を侵害し、神様の怒りと罰を受けたのです。
ここから分かるのは、賢い乙女の賢いところは、彼らは神様の声を聞くことを重視し、神様の声を聞き分けてから真理を受け入れることができ、神様の出現を迎えたのです。しかし、愚かな乙女は正反対です。彼らは神様の声を聞き分けられず、真理の声と言葉が聞こえても尋ね求めず、受け入れず、従順せず、自分の観念と想像に固執し、神様の出現と働きを拒絶し、最終的に神様の救いを失ったのです。賢い乙女になれるかどうかは、どれほど神様を信じているか、どれほど聖書の知識を知っているか、外見でどれほど苦労して働いているか、どれほど苦しみを受け費やしているかに関わらず、神様の声を重視するかどうか、神様の声を聞き分けるかどうかによることを十分に証明できます。まさに主イエスが言われた通りです。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)もし私たちは自分の観念と想像の中に生き、聖書を読み、目を覚まして用意し、集会を守り、ひたすら待ち望み、主のために苦労して働き、自らを捧げて費やすことだけがいいと思っているが、神様の声を聞くことを重視せず、ひいては真理の発表が聞こえても尋ね求めて考察しないなら、容易に愚かな乙女になって、主に見捨てられるのです。
終わりの日に、賢い乙女は主の再来をどのように扱うべきか
今は主イエスの再来の肝心な時です。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)ヨハネの黙示録第2、3章にも数箇所預言されています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」ここから分かるのは、終わりの日に主イエスが再来される時に、また諸教会に言葉を語られ、私たちをあらゆる真理に導いてくださるのです。つまり、主イエスが再来される時に、言葉を語られることによって羊を集め、賢い乙女は真の心と霊があり、主イエスが戻られた証しを聞いて、積極的に進んで尋ね求め、神様の声に耳を傾け、しばらく尋ね求め考察することを通して、賢い乙女は主の御声がわかり、このようにして、彼らは心の扉を開いて主を迎えられ、主と共に宴席に着くことができます。
神様の声をどのように聞き分けるか
では、私たちは主が戻られたお知らせを聞いた時、どのようにして主の御声を聞き分けることができますか。神様の声を聞き分けるにはどんな原則がありますか。どんな重要点を身につけるべきですか。
一、神様の言葉は神様の性質の発表であり、権威と力がある
私たちは皆知っています。最初神様が言葉によって世界の万物を造られ、神様が語るやいなや、事実が成し遂げられ、神様が語ると、そのようになり、神様が定めると、それは成り、これは神様の言葉の最も著しい特徴です。旧約の時代に、神様はアブラハムに子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにすると約束され、その後事実が成し遂げられたのです。神様が語られたすべての言葉が成就され、これは神様の言葉の権威と力です。ヤーウェ神は言われました。「わたしを憎むものには、必ず父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には必ず恵みを施して千代に至るであろう。」(申命記5:9~10)また主イエスは言われました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイによる福音書18:3)「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31~32)「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」(マタイによる福音書5:22)神様の言葉には権威と力、神様の性質を帯びておられ、特に神様の言葉の中に「必ず」などはさらに神様の言葉に特有の特徴があり、神様の唯一無二の権威と神様ご自身の身分を完全に現しました。神様の言葉から、私たちは神様の言葉がすべてを支配され、管理されることを見ただけではなく、神様の言葉が人に対して約束され、祝福されることができ、人の逆らいと抵抗を呪われ、神様が神様を愛する人に対して憐れみと慈しみで満たされ、神様に抵抗する人に対して威厳と怒りで満たされ、神様の義なる性質は侵害を許さないことも見ました。ここから分かったのは、神様の言葉はみな神様の性質と神様の持っているもの、神様であるものの現れであり、さらに造物主の唯一無二の権威と力を帯びておられ、神様の言葉はいかなる人が語ることができません。私たちが神様の言葉のこの特徴を認識すれば、神様の声を思い込むのです。
二、神様の言葉は神様の経営の働きの奥義を明らかにすることができる
神様が語られた言葉であるなら、必ず神様の経営の働きの奥義を明らかにすることができます。例えば、旧約はエリアの到来を預言しましたが、エリアが来たが、誰でも知らなくて、主イエスが奥義「そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」(マタイによる福音書11:14)を明らかにされたまでに、人々は洗礼者ヨハネが預言者エリアであることが分かりました。また主イエスが言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイによる福音書13:47~50)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)主イエスは天国の奥義を明らかにされてから、私たちは真に悔い改めるだけが、天の父の御旨を行う人になって天国に入ることができ、それらの真に悔い改めない悪人は天国に入ることができないことを理解しました。このほか、主イエスはまた必ず来ると預言され、終わりの日に人の子が裁きの働きをなさり、災いの前に特定の人間の集団を勝利者として完全にされ、終わりの日にキリストの国が現れるなどを預言されました。なぜ主イエスがこれらの奥義を明らかにされることができますか。なぜなら、主イエスは神様ご自身であり、天国がどのような人間を必要としているか、終わりの日に神様が何の働きをなさるか、及び神様が人類を救う最終的に達する効果などは、神様だけが知っておられるからです。つまり、神様の語られた言葉だけが神様の経営の働きの奥義を明らかにされることができ、私たちいかなる人は達成できません。これは神様の声のもう一つの特徴です。
三、神様の言葉は真理であり、人の実際の問題を解決することができ、人に実践する道を示すことができる
主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハネによる福音書14:6)神様の言葉のすべてが真理であり、神様は生ける水の泉であり、私たち堕落した人類の必要性に基づいて、絶えず真理を発されて私たちに与えられることができ、進むべき道が開けてくださいます。例えば、律法の末期の人々はもはや律法、戒めを守ってはおらず、誰もが律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は自ら受肉され主イエスとなって現れて働きを行われ、旧約の律法に基づいて悔い改めの道を発表され、そしてご自身に従っている人々の必要性に対して、具体的な実践する道を指し示しました。例えば、祈りについて、主イエスは言われました。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」(ヨハネによる福音書4:24)「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」(マタイによる福音書6:7)人と付き合うについて、主イエスは言われました。「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書5:46~48)「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:1~2)私たちは主イエスの言葉から、律法より高くより新しい道を得られ、私たちの様々な現実的な問題、困難を解決できると同時に、さらに正確な実践する道を得られ、そして私たちは主の教えによって実践するとき、聖霊の働きの導きを享受することができ、神様との関係がさらに近づくことができます。ここから分かるのは、主イエスが語られたこれらの言葉は恵みの時代の人に至急必要なものであり、さらに私たちのいのちの供給です。それでは、終わりの日に、神様はまたどんな言葉を語られて私たちを導かれるのでしょうか。この問題を理解するには、私たちはまず一つの事実を知るべきです。それは主イエスがなさったのは贖いの働きであり、私たちは主を信じて罪が赦されたが、罪深い本性はまだ解決しておらず、それゆえ、まだ常に罪を犯し、主の教えを実践することができません。主は聖なるものであり、私たちの罪深い本性が清められていなければ、主の承認を得ることができません。そのため、主イエスは終わりの日に再来される時にまた言葉を語られ、一段階の人を清め、救う働きをなさると預言されました。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47~48)ヘブル人への手紙9章28節にもこう記載されています。「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」このことからわかるように、終わりの日に神様は真理を用いて人を裁き、清め、徹底的に私たちを罪の束縛から救い出すのです。それらの目を覚まして花婿の声を待つ賢い乙女は、この中から啓発を得るべきです。もし主が再来されて裁きの働きをなさるという証しを聞いたら、心を尽くして耳を傾け、それの言葉が私たちの堕落した性質を明らかにすることができ、私たちに罪から逃れて清められる道を指し、私たちにいのちを供給することができるなら、これこそ神様の声です。
四、神様は人々の心の奥深くを探り、人類の堕落した性質を全て知り、そして明らかにすることができる
神様は造物主であり、神様の霊が全てを探り、私たちの全てを知っておられ、神様の言葉だけが私たち人類の堕落した根源及び本性と本質を明らかにすることができます。例えば、主イエスが受肉された神様であり、つまり天の神様の霊が一つの普通の肉体において具現化され、それゆえ、主イエスの言葉は直接私たち人類の本質を明らかにすることができます。私たちはみな知っている通り、当時のパリサイ人はユダヤの人々の眼中には神様を奉仕する敬虔な人でした。しかし、主イエスは人々の心の奥深くを探り、彼らが不義を愛し、真理を忌み嫌う本性と本質を見透かし、パリサイ人を暴いて言われました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」(マタイによる福音書23:27)「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」(マタイによる福音書23:13)「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音書23:33)神様は人々の心の奥深くを探り、人の内側の罪を見透かすことができ、パリサイ人の本性は真理、神様を憎み、神様に敵対する反キリストであることを知っておられます。そのため、主イエスはパリサイ人の罪を暴き、そして彼らを断罪しました。ここから分かるのは、神様が真理であり、神様の言葉が光であり、いかなる暗闇と邪悪は必ず神様の言葉によって明らかにされます。終わりの日に神様は真理を語られて私たちのすべての不義を裁き、必ず私たちが認識できない様々な堕落したサタンの性質を暴露し、私たちに自分の堕落した性質を認識させるのです。私たちは賢い乙女のように神様を畏れ、真理を受け入れる心を持ってこそ、神様の終わりの日の救いを得られるのです。
以上いつくかの側面は私たちが神様の声を聞き分ける主要な原則と道です。私たちはこれらの原則を理解し、把握し、主が戻られて、聖霊が諸教会への言葉をもたらす証しを聞いた時、私たちは積極的に進んで尋ね求め、心を尽くしてこれらの言葉に耳を傾ければ、正確に神様の声を聞き分け、主の再来を迎えるのです。したがって、私たちは賢い乙女になりたいなら、自分の観念と想像を脇に置き、神様の声を聞くことを重視し、神様の言葉の特徴に基づいて、神様の声を聞き分けたら、受け入れ、従順し、子羊の足跡に付き従い、こうしてこそ神様の流れつづけるいのちの生ける水の供給を享受でき、子羊の宴席に着くことができます。もし主の再来の言葉を聞いても尋ね求めず、受け入れずに、自分の観念と想像に束縛されて、常に聖書を読み、祈り、主のために苦労して働ければ主イエスを迎えることができると思い、神様の終わりの日の働きを尋ね求め考察しないなら、愚かな乙女になり、永遠に神様の終わりの日の救いを失ってしまうのです。
神様の啓きと導きに感謝します。私たちはみな賢い乙女になって、主イエスの再来を迎え、主と共に宴席に着くことができるように願っています。アーメン。