賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

裕福な生活を持てば幸せになるのか

2020-04-30 16:31:28 | 人生の奧義

   【編集者メモ】裕福はすべての人が夢にまで願うことです。しかし、手に入れた後、それはまるで一枚の華やかな「上着」のよう、だたうわべを飾ることができ、私たちの心の中の苦痛と貧しさを解決することができないと私たちは気づきました。陳卓はかつて裕福な生活を得るために一生懸命働いたが、病の苦痛と心の空虚さから抜け出せず、苦痛と困惑の中で、神様の言葉の導きによって彼は本当の人生を見つけました。

   物質的な生活の豊かさは、すべての人が夢にまで願うことです。私も例外なく、私はかつて裕福な生活を得るため一生懸命働く人でした。しかし、手に入れた後、私は病の苦痛と心の空虚さの中に生きていました。私は聖書に書かれている「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」(伝道の書1:2−3)を切に体得しました。歩んできた道を振り返って、私は種々の感慨にこもごも至ります。

 

裕福な生活を得るために努力する

   小さい頃、事業が成功したおじさんがプレゼントを詰め込んだ車に乗って帰省するのを見る度、私は羨ましくてたまらず、心に夢を抱き、私は大人になってからおじさんのように金もあり力もあり、裕福な生活を送りたかったです。

   卒業後、私は海辺の都市に行き、周辺の高層ビル、走っている車を見て、私のお金持ちになる欲望が膨らんできました。親戚に頼って、私は国有企業の社員になり、その時から私は全身全霊で仕事に身を投じました。現場で私は汗びっしょり、苦闘し、事務所で私は上司の喋りたてる叱責を耐え忍び、徹夜業務の難関を解決していました。……数年後、私はライン管理者になり、それにつれて親戚や友達、近所の人々が私に贈り物をし、彼らの子供が就職先を見つけるように頼んできました。私は人々に見上げられることを享受し、心は極めて満足していました。年々昇給するにつれて、私の生活が裕福になってきました。

   しかし、私はそれに満足できず、生活を一層よくするため、私は大胆にも安定した国有企業の仕事を辞め、外国企業のボスに従って他の都市に起業しに行きました。

 

 

   それからの数年間、テンポの速い仕事環境、厳しい外国企業の管理法、それに加えて私は毎日違う性格の取引先に対応し、彼らと酒食遊楽にふけり、彼らと調子を合わせ、ストレスが溜まってきました。その後、私と接したそれらの外商やボスが贅沢で淫らな生活を過ごし、ひいては麻薬に制御されるのを目撃し、その狂ったような心ここにあらずの醜い姿を見て、私は見ただけで恐ろしくなりました。冷静になってから、私は自分が贅沢な生活を享受してから「得た」ものは、体重が何キロも増え、健康の各基準値を超え、ひどい不眠症になり、毎日疲れ果て、椎間板ヘルニアになって、長期の圧迫で足取りがしびれ、三月間自分の生活の面倒を見ることができなくなりました。異なる人々に直面し、私は人の顔色をうかがい、こびへつらうことを学びました。……これは私が裕福な生活を享受する裏にある辛酸と苦痛です。この時、私は自分が一生懸命努力してきた裕福な生活のゆえに、幸せと楽しみを感じないだけではなく、かえって、私に多くの病の苦痛と心の痛みをもたらしました。私はなぜ人が生きるのがこんな苦しいのかを知りませんでした。

 

苦痛の根源を探し求める

   途方に暮れる中、私は力の限りで問題の根源を探し求めていました。神様の言葉の中でその答えを見つけました。

   「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりの心に染み込み、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。……つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。」

   神様の言葉から、自分の苦痛の根源はいつも金銭を求めているためだったと、私はやっと分かりました。「地獄の沙汰も金次第」「金銭至上主義」などのサタン的生存法則に苦しめられ、私はいつも金銭を求めることを自分の人生の追求する目標とし、お金があれば、品質の高い生活を享受することができ、立派な人になり、他人に見上げられ、目立つ人として生活できると思っていました。裕福な生活を過ごせるため、私は夜昼なく働き、力を絞って業務を深く研究していました。昇進や昇給のため、上司の前で私は屈辱に耐えて重い任務を負い、慎重で勤勉にしていました。ライン管理者になってから、私は現状に満足できず、金銭の誘惑の下で、私は安定な国有企業の仕事を辞め、高い利益のある外国企業に身を投じていました。業績を向上させるため、私は限度を超えた仕事のストレスに耐え、駆けずり回り、苦労を重ねて病気になり、一年じゅう病気ばかりしていました。その上、取引先の機嫌を取るため、私はへいこらすることを学び、お客様に付き添って飲酒し、ますます堕落していきました。最後に少しお金を儲け、生活も裕福になるが、裕福な生活は病の苦痛と心の重苦しさを解決できませんでした。この時、私は金銭をと求めることは人生の正しい道ではなく、だたますます苦しく生きさせるだけだと見極めました。その後の日々に、私は真面目に御言葉を読み、教会生活を送り、徐々に私の心にはこれまでにない解放と自由を得られました。

 

金銭の誘惑から抜け出し、本当の人生を見つけた

   ある日、医者の友達が私と提携して病院の薬の商売し、私は薬の仕入れ、配達、連絡、送金、お客様の食事とお酒の相手をし、お客様の招待や贈答などを担当することに誘いました。私の心は動揺し始め、子供が大きくなったら、お金を使うところも多くなり、もうちょっと稼いだら、家族が裕福な生活をさらに保障できると思い巡らしていました。この時、妻が「起業の何年間で受けた苦しみは少なかったのか。腰椎椎間板がずっとよくないのに、また駆けずり回ることに耐えるのか。あなたの現在の体の状況は食事とお酒の相手をすることができないです。同じ過ちを二度犯したいのか。以前のようにサタンに騙される日々を過ごしたいのか。私たちはやっとのことでサタンの闇から抜け出したのに、二度と陥らないで、これはサタンの狡猾な策略です。慎重にならないといけない。」と私に注意しました。

   そうですね。今、私は幸いに神の国の福音を受け入れ、神様の言葉から私はサタンの邪悪さを認識でき、神様の導きで、私は過った道から戻ってきたのに、二度と同じ過った道を求めてはいけません。私は次の神の言葉を目にしたのです。「物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。」神様の言葉はまさに私の真実の描写です。かつて私は金銭と名利を貪り、お金を手に入れ、裕福な生活を送り、他人に見上げられたが、これらはだた一時的な享受で、心の空虚さと苦痛を全然覆い隠せなく、何十年もの間このように無駄に過ごしてしまいました。実は、神様が私たちをこの世に生まれてくることを支配するのは、私たちが裕福な生活を過ごせるために奮闘するのではなく、私たちが神様を信じ、神様を礼拝し、神様の導きを受け入れ、神様のすべての采配に従い、神様を認識することを追い求め、神様の奇しき業を証しすることを望み、このように生きてこそ価値があるのです。もし神様を認識する貴重な機会を逃したら、私は裕福な生活を持っていても空虚になり、心の楽しさを得ることができず、死ぬときでも手ぶらです。これらを理解した後、どう選択したらいいか私は分かりました。現在私の商売が安定しているし、稼いだお金も足りているし、もう欲張ってはいけません。私はより多くの時間を御言葉を読み神様を礼拝することにするべきです。それによって、私は友達の好意を断りました。

   私は決定を下したとき、かつて私が崇拝していたおじさんが、過労により脳出血で死んでしまった凶報を受け取りました。おじさんは地元で有名で、何千万の資産も持っていて、 半生の輝かしさはあっと言う間に消えてしまい、彼の人生は53歳で止まりました。おじさんの死から私は、裕福な生活を求めるのは、人に何の益ももたらすことができず、かえって、一種の危害だとさらに見極めました。

 

異なる裕福

   その後、私は御言葉を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。」そうですね。神様の本質は聖なるものであり、神様だけが私たちを人生の正しい道へと導かれます。私たちは神様の言葉によって人間として生きてこそ神様の配慮と見守りを得られ、様々なサタンの誘惑と侵害から遠ざかって、意義のある人生を生きることができます。私は思わずヨブのことを思い出しました。彼は一生自分が豊かになって、人々に見上げられるために生きることを求めるのではなく、神様を畏れ、悪を避ける道を歩み、神様の業を認識し、神様のすべての采配に従うことを求めたのです。そのため、彼が豊かになった時、それによって自分を誇るのではなく、依然として簡素な生活を過ごし、神様から離れるのを恐れるため、子女の宴楽に参加しませんでした。サタンが彼の財産を奪った時、彼は依然として神の御名を讃え、財産の損得によって神様への礼拝を変えず、神様のために証しに立ちました。最終、ヨブは神様の称賛を得られ、神様への認識は神様のことを聞いて知っていたから、神様が本当に存在していることを見られることに達し、神様への信仰心も高め、最も価値と意義のある人生を生き、彼は最も裕福な人でした。ヨブの経験は私を励まし、それからの日々に、時間があったら、私は心を神様の前で静め、神様の言葉を読み、神様を賛美する讃美歌を歌い、私の体が徐々によくなり、心もますます着実、平安になりました。

   成長過程において、私は自分が求めていた裕福はサタンが人を騙す華やかな「上着」であり、うわべだけを飾ることができ、永遠に私の心の虚しさを埋めることができないと深く感じました。金銭と名利は命の一分一秒も続くことができず、真理がいのちとならない人生は全く価値がありません。自分が神様の前に来て、神様のいのちの言葉の導きを得られ、心が着実と平安になることを喜ばしく、このような人生は本当の裕福です。