賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

復活祭とは?復活祭の意味は何か

2019-04-12 20:16:39 | 信仰生活

  復活祭とは?復活祭の本当の意味は何か、あなたは知っていますか?多くの人は復活祭がイエスの復活を祝うためのものであると信じています。実際には、そこにこめられているのはもっと深い意味です。

復活祭とは?復活祭の起源

  復活祭とは、復活の主日とも呼ばれ、主イエスが十字架につけられた三日後に起こった主の復活を祝う祭日です。その正確な時期は、毎年春分になってから最初の満月の後の最初の日曜日です。イエスの復活を記念し、イエスが人類にもたらされた救いと希望を思い起こすために、毎年三月から四月に世界中のキリスト教徒が復活祭の日にお祝いをします。私たちキリスト教徒はイエスの復活を記念しますが、それでは、すでに贖いの働きを終えられたのになぜ主は死人の中から蘇って人の前に出現されたのかを私たちは知っているでしょうか。そして、主の復活と人の前での出現の背後にはどのような意味があるのでしょうか。

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主イエスの復活と人の前での出現の意味

  神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)「主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。……主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

  神の御言葉から私たちに分かるのは、主イエスが死人の中から蘇られてから弟子たちに何度も出現されたことには深い意味があり、その背後には神の惜しみない気づかいと思慮が隠れてもいるということです。当時主イエスに付き従った人々は主の教えを多く聞き、主がなされた多くの奇跡を見て、イエスが自分たちの主であり、神の子であると主張しましたが、イエスがキリストで神ご自身であることについては本当に理解しておらず、イエスはこのことをご存知でした。イエスがローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑されたとき、主に付き従った人々の多くは主の身分を疑い始め、主への信仰が段々弱まりました。特に主イエスが十字架に付けられて死んだとき、多くの人々は主に全く失望し、疑いとして始まったものが主イエスの否定に変わったのです。このような状況を背景として、もし主イエスが復活後に人の前に出現されなかったなら、主に付き従った人々の多くはもはやイエス・キリストを信じず、律法の時代に戻って旧約聖書の律法を守り続けたでしょう。しかし神は人の心の奥深くを見極め、人の弱さを理解しておられ、人々の霊的背丈が小さいことをご存知でした。主イエスはそれゆえに、死人の中から蘇り、何度も弟子たちの前に出現されたのです。主は弟子たちと語り、復活後のご自身の霊体を彼らに見せ、彼らと食事を共にし、聖書を解説されました。こうしたことをなさった目的は、主に付き従った人々が、主イエスは本当に死人の中から蘇られ、この方は人を愛し憐れみをかけてくださったイエスとやはり同じ人であり、受肉された神ご自身であり、聖書で預言された人類を贖うために来られるメシアであることを心の底から確信できるようにすることでした。彼らはもはや主イエスを疑いも否定もせず、それどころか誠実に主を信じ、イエス・キリストを自分たちの主と認めました。このことから私たちに分かるのは、イエスは復活なさり人々の前に出現されることによって、人々の信仰を強め、主を信じて従えるようになさったのであり、人間を神に近づけてくださったということです。これがイエスの復活の意味の一側面です。

  これに加えて、イエスは肉となって現れて働き、律法の時代を完全に終わらせ、恵みの時代を始められました。受肉されたイエス・キリストは十字架にかけられましたが、罪と死を克服してサタンを破り、贖いの働きを成し遂げて栄光を得られたのであり、復活後の主イエスは人々にこの事実がはっきりと分かるようになさったのです。主イエスは新たな時代を開き、人類を旧約聖書の律法の時代から完全に脱却させ、恵みの時代にしっかりと定着させ、恵みの時代において神の導きと牧養と潤しを受けられるようになさいました。これにより、たとえイエスが復活して昇天なさり、もはや人と食事や生活を共にされることがなくなっても、人は今もイエスに祈り、御名を呼び、主の教えを守り、揺るがない信仰をもってイエスに付き従い、福音を広めることができるのです。特に、主イエスが復活なさり主に付き従った弟子たちの前に出現された後は、彼らの信仰は高まりました。主の福音を広め証しをすることに何の困難も危険も恐れず、不屈の忍耐力を持ち、福音を広めることに自らの全てを捧げ、主のために殉教さえしました。最終的には、イエスの福音は宇宙全体、世界中に広がり、主イエスに従う人の数は増え続け、やがてどの家庭の誰もが主の福音を耳にするまで万人に知れ渡ったのです。

  主イエスは死人の中から蘇られた後、人々の前に出現し、彼らと接触して語りかけ、聖書を解説して親しく交わり、食事を共にするといったことをなさいました。これらの御業のおかげで、主イエスに付き従った人々は主の人への気づかいと思いやりを感じ、イエスがまさしく神ご自身で、受肉されたキリストであると確証することができ、神に従う人々は恵みの時代にしっかりと定着したのです。しかも、イエスの贖いの働きはその時から広まり始め、やがて宇宙全体、世界中に及びました。従って、イエスの復活と人類への出現の背後に深い意味があるのは明白です。なぜならこれらの御業には神の惜しみない気づかいと思慮だけでなく、神の知恵と全能性もこめられているからです。

  親愛なる兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活の意味を理解し、主の働きの中に神の私たち人類への気づかいと思いやりを改めて感じることができるようにしてくださった神の啓きと導きに感謝しましょう。神に感謝!


クリスチャンの証し-人生の新たな道を発見しました

2019-04-11 10:12:07 | 神に帰す証

寄稿家:ティエシン(マレーシア)

目標を立てて全力で取り組む

  貧乏だった私の家族はいつも人から馬鹿にされ、見下されていました。私の両親は私が幼かった頃から、「お前は競争心を持たなくてはだめだ。しっかりとした将来性があれば、誰からも見下されることはない」、と言って私を教育してきました。その当時、私は一生懸命に勉強して上に這いあがり、両親の期待に応えることだけを目標にしていました。

  小学生の時、私は一生懸命に勉強しました。もっと多くの言葉を覚えたかった私は、毎日宿題をした後、父に新聞を読みました。小学3年生の時以来、私は語学力を伸ばすために毎日マレーシア語、英語、そして北京語で日記を書いていました。沢山努力したおかげで、私は学校でいつも好成績を収めていました。成績を更に伸ばしたかった私は放課後の授業も受けたかったのですが、父はその授業料を払うことができませんでした。こうして私はその授業料を払うために終末はレストランで働きました。私は注文とテーブルの掃除の両方を担当していたので、素早く仕事をこなすことができませんでした。私がもたもた仕事をしていると、ボスは汚い言葉で私を怒鳴りつけました。私はこれが起きるたびに酷い扱いを受けている気分になり、いつも夜に泣いていました。私は、「授業料のことがなかったら、あんたの下でなんか絶対に働かないんだから」、と思いました。私はこのようにしてお金を稼ぎ、同時に勉強していたのです。必至に稼いだ授業料で私は気が狂ったように勉強しました。夜は12時が過ぎてからベッドに入り、毎朝5時に起きて授業の見直しをしました。さらに、試験勉強をしていた時は1週間ほとんど寝ることはありませんでした。眠気が襲ってくるとコーヒーを飲んで目を覚ましたり、休憩中に自分のデスクで軽く睡眠をとりました。長い間続けていると、これはとても耐えがたくなってきましたが、人との差をつけたかった私はどれだけ辛かったり、しんどくても諦めないという意思を持っていました。

彼女は勉強しています,人生の新たな道を発見しました

  高等学校に入学すると宿題の多さによる負担から好成績を上げるプレッシャーが増していきました。大学を目指していた私は1年目は勉強をしながらパートで働いて個人授業を受けて、次の2年間は一生懸命に勉強する決意をしていました。後に、私はコーヒーショップで仕事を見つけました。勤務時間が平日は夜の7時から夜中の12時まで、週末は夜の7時から朝の7時でした。その当時、私の仕事仲間は一緒によく外食してお酒を呑んでいました。私はお酒を呑まないでいると、彼らから非社交的だと言われました。私は職場で良い関係を維持するために嫌々ながらも参加しました。ある時、私は少し酔っぱらって午前1時に家に帰ったことがありました。顔を洗って歯を磨いていると、突然体中に力が入らなくなり、シンクの側で気を失ってしまったのです。運が良かったことに、私がバケツにぶつかる音を聞いた父が私をトイレから引きずり出してくれました。その後、父は私の個人授業の費用を払ってくれと約束してくれました。これで私はもうパートの仕事をする必要がなくなったのです。こうして、私は勉強に没頭しました。私は毎晩平均で4時間しか寝ませんでした。私は正午に学校から帰宅すると急いで昼食を食べ、学校の勉強の見直しをするために自分の部屋に閉じこもり、家族と話すことはほとんどありませんでした。私にとっては食事や家事をすることすら時間の無駄でした。この絶え間ない負担は耐え難いものでした。その後、私は不眠症に悩まされてしまいました。長い間コーヒーを飲み続けていた私はコーヒーの効果を感じなくなっていたのです。眠い時にどれだけコーヒーを飲んでも、もはや効果はありませんでした。

  2011年6月、私は高等学校から卒業しました。大学から合格通知を受けた時、私は成功がまるですぐそこまで来ているかのようにホッと安堵の長いため息をつきました。そして私は心の中でこう計画しました:「大学を卒業したら、数年間働いてまとまったお金を用意しよう。それで自分のビジネスを始めたら家とか車が買える。。。」私が自信ありげに明るい将来の計画を立てていたその時でした、悲痛な知らせが飛び込んできて、私はそれに一気に押し潰されてしまったのです。

母の他界

  大学の合格通知を受けてすぐ、私は母が長期的な過労と精神的な過度の負担により乳がんに罹っていたことを知り、言葉を絶するほどの悲痛に駆られました。私は母の病気は治らないのではないかと心配しました。母が死んでしまったら、私の成功など何の役にも立たない。その後、私は乳房切除術を受けに行く母を病院まで同行しました。耐え難い痛みと苦しみから開放されることを願った母は頻繁に自らの命を絶つことを望みました。それは私にとって心臓に鋭い痛みが走るほどつらいものでした。生まれて初めて、人間は病魔の前ではとても脆いものだと私は感じました。

  その1年後、母の状態が一時的に安定していたので、私は大学に戻って勉強を続けました。2013年8月のある日、父から電話がかかってきました。母は癌細胞が肺、肝臓、そして脊髄まで拡がり、癌の終末期に陥ったと父は言いました。私はこれを聞いて倒れそうになりました。急いで実家に帰って見ると、まだ40代後半であった母は60歳を超えているように見えました。足が弱くなっていた母は松葉づえを使ってしか歩けなくなっていました。癌に侵された肺のせいで呼吸が困難になっていた母は寝椅子に仰向けになって座ることを余儀なくされていました。その後、歩けなくなってしまった母は入院を余儀なくされ、私は病院で彼女の世話をしました。私は病棟の中で癌に苦しむ大勢の人たちと出会い、その中には意識不明のままの人、食べることができない人などがいました。私は心の中で言いようのない悲しみに駆られました。この時点で、私は既に、私たち人間はどれだけ有名で、どれだけ身分が高くても、病魔の前では本当にちっぽけな存在であることに気が付いていました。ある日、母は突然意識を失いました。私はパニックになり、必死に泣き叫びましたが母は帰らぬ人となってしまいました。母が去った瞬間、地位や、仕事や、車や、家など、全世界がもうどうでもよくなってしまいました。

これから歩んで行く道

  母が他界して以来、私はとても落ち込んでしまい、授業を受ける気分ではありませんでした。私は学校の勉強を何とか乗り切ってはいましたが、試験に向けて復習する気にはなりませんでした。私はまるで歩く死体になったようでした。1人でいると、こう考えずにはいられませんでした:「今までずっと、成功すること、尊敬されること、そして両親の期待に応えることを目指してやってこれた。それで大きなプレッシャーに耐えることもできた。でもお母さんが突然死んで、私たちの命は儚いことが分かった。私たちがいつこの世界を去るかなんて、誰にも分からない。私たちは死ぬまで大変な人生を送るためだけに生まれてきているのかしら?私のいのちの道は一体どこに向っているのかしら?

福音との出会い

  ある日、主を信仰している仕事仲間がインターネット上の集会に参加しないかと私を誘ってくれました。当時、私はとても落ち込んでいたので、これから先を進んでいくためのモチベーションを見つけるためにそれを受け入れました。ある集会の時、私は兄弟姉妹に自分の母が他界したことについて話しました。彼らは私を気の毒に思ってくれました。ヂャオ兄弟はこう言って交流しました、「私たち人間は神から距離を置き、サタンの支配下で暮らし、その害に苦しんでいます。私たちはサタンに何時でも飲み込まれてしまう可能性があります。今まで、主への信仰において、私たちは誰もがサタンに堕落させられていたことを知っていましたが、それがどのようにして私たちを堕落させたのかは知る術がありませんでした。神の御言葉を読んでいた時、私はサタンが私たち人間を堕落させる手段に関する見識を初めて得ることができました。神はこう仰っておられます:『神とともに時代を通り抜けてきたのに、神が万物と生けるものの運命を支配することや、神がどのようにして万物を指揮し方向づけるのかを、人は知らない。これは遥か昔から今日まで、人には分からないことである。その理由は、神の業があまりに見えにくいからあるいは神の計画がまだ実現されていないからではなく、人の心と霊が神から離れすぎているからである。したがって、人が神に付き従っているときでも、彼は知らないうちにサタンに仕え続ける。誰も神の足跡や出現を自発的に探し求めないし、誰も神の配慮と守りのもとで存在することを望まない。むしろ、人は、この世と、不正な人類が従う生存の法則に適応するために、喜んで悪であるサタンの腐敗に頼ろうとする。この時点で、人の心と霊はサタンに捧げられ、サタンの食物となる。さらに、人の心と霊は、サタンが住む場所になり、サタンの恰好の活動場所となる。このようにして、人間であることの根本的原則についての理解と、人間存在の価値と目的についての理解を、人は気づかないうちに失うのである。神からの律法と、神と人の間の契約は、人の心のなかで徐々に消えていき、やがて人はもはや神を求めたり、神を心に留めたりしなくなる。時が過ぎるにしたがって、人は、なぜ神が人を創造したのか理解しなくなり、もはや神の口から来る言葉を理解しなくなり、神からくるものすべてを認識しなくなるのである。人は神からの律法と掟に反逆し始め、人の心と霊は無感覚になっていく…。神は神の本来の創造物である人を失い、人は自分が始まったその起源を失うのである。これは今の人類の悲しみである。』

  そしてヂャオ兄弟は続けて交流しました、「アダムとイブは神が創造なされたエデンの園で最初は幸せな生活を送っていました。彼らには疲労や痛みなどなく、まして死を味わうことなどもってのほかでした。しかし、彼らはサタンの虚偽に耳を傾けて神を裏切ってしまい、サタンの支配下で生きるはめになってしまったのです。サタンは何千年にも渡って、偉大な人間や有名人の様々な観点、および ‘先立つものは金’、’苦は楽の種’、そして ‘この世は金しだい’ といったようなサタンの教育をもって私たちを騙し、私たちに毒を植え付けてきたのです。サタンからこれらの観点を受け入れてしまうと、私たちのいのちに対する考え、価値観、そして人生の目標が変わってしまうのです。私たちは地位と権力を称賛します。私たちはお金と権力がないと無能と見下されてしまうと考えます。私たちはお金と権力が私たちの生きる道を裕福にし、魅力的で幸せな人生を与えてくれると信じています。この結果、私たちは全力でお金稼ぎに取り組み、人生の大部分を多忙に暮らします。しかし、最終的に私たちはただ死んでしまうだけなのです。明らかに、サタンの虚偽は苦しみと暗闇しかもたらしません。私たちは、サタンが人類を堕落させることの真理を明確に理解してのみ苦しみを振り払うことができるのです。」

  私は、ヂャオ兄弟の話しを受けて、私たちがこれほど辛い思いをしながら生活している理由は、私たちが神から離れてしまっているから、そしてサタンから堕落させられその苦しみの中を生きているからだと理解しました。私たちは救われることを求めて神の前に行く場合に限って平安と幸せを得ることができるのです。私は帰宅して直ぐに全能神教会のウェブサイトにアクセスしました。そこには沢山の神の御言葉の書籍、讃美歌、映画、ミュージックビデオ等がありました。コンテンツはとても豊富にあり、私は興奮を抑えられませんでした。私は世の終わりの全能神の働きを調査し続けることにしました。

サタンの策略を見抜く

  集会で、ある姉妹が神の御言葉のこの節を読み上げました:「実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分な関連性がある。その二つの言葉は、人間それぞれの生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは、何でしょうか。そのひとつは『名声』で、もうひとつは『利得』。二つの言葉とは、名声と利得です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法を用います。その方法には、全く過激さが無いのです。人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生の理想を持つようになります。そうした人生の理想は、どれほど高尚な響きがあったとしても、名声や利得と複雑に関連している建前に過ぎません。…サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。」

  姉妹はこう言って交流しました、「この世界では、誰もが遅れをとるのを拒みます。誰もが人の上に立ちたがるものです。それはなぜなら、私たちは ‘注目を浴びて偉い人になれ’ や ‘力をもって人を服するのは、心から服するにあらず。徳をもって人を服するは、喜んで真に服するものなり’ といったサタンの観点に支配されているからです。私たちは卓越した人間になり、尊敬されることを求めるべきであると考え、それが私たちのいのちに価値を添えることができる唯一の方法だと思っているのです。この目標を達成するために、私たちは骨折って働き、難渋する屈辱に耐えるのです。他人の目からしたら私たちは意欲的であるように見えるかもしれません。しかし、神の御言葉によると、私たちが求める最終目標は名声と利益を手にすることに過ぎず、それはサタンの策略で満ち溢れているのです。サタンは私たちが神に背くようにするために名声と利益を使って私たちを誘惑、そして堕落させ、最終的には私たちを飲み込もうとするのです。」

人生の新たな道を発見しました,集会で姉妹が神の御言葉を読む

  私は彼女の話に衝撃を受けました。私は幼い頃から両親に他人の上を行って成功を収めるよう教育されてきました。このために、私は大きな目標を立て、それに向って苦労してきたのです。私は屈辱に耐え、倒れそうにまでなりましたが、決して諦めようと思ったことはありませんでした。私は自分の理想と目標を実現させるために多くの苦しみに耐え、体調を崩すことすらありました。私は名声と利益を目指していたがために、とても惨めな生活を送っていたのです。神の御救いがなければ、私は決してサタンの邪悪な悪意を見抜くことはなく、この先も絶えず騙され、虐待され、傷つけられていたことでしょう。

答えを見い出す

  その後、私は神の御言葉を毎日読みました。私は徐々に、サタンが人間を堕落させる方法に関する見識を得ていきました。サタンが私たちを騙し、堕落させる目的は私たちが神に背き、神の御気遣いと御加護から離れるようにすることなのです。それに対し、神は私たちを救うために真理を表し、私たちがサタンの策略と束縛を振り払い、人間が歩むべき適切な道を歩めるようにしてくださるのです。神への信仰を通じて真理を得ることができれば、私たちは罪を振り払い、神の御言葉に従って生きることができます。そして私たちは神の祝福を授かり、神の御気遣いと御加護の中で生きれるようになるのです。神の御旨を理解した私は、サタンにはもう二度と騙されたり、虐待されたくないと思いました。

  ある日、ヤン姉妹が私にあるリンクを送ってくれました。神の御言葉は私たちが生まれてから死ぬまでの間に通らなければならない6つの節目を明確に表していると彼女は言いました。彼女は私に時間がある時にそれを読むよう勧めてきました。私はリンクをクリックしてウェブページを表示しました。するとある節が私の心をつかみました。神はこう仰っておられたのです:「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」

  神の御言葉は、神の主権に関する真理と知識を持たぬ私たちは名声と利益を求めるために苦心して労力を費やしていることに気が付かせてくれました。私たちは人生の終端に達した時、いのちが最も尊いものであることに初めて気が付くのです。私たちはどれだけ裕福であろうとも、どれだけの人から尊敬されていようとも、いのちを延ばすことはできないのです。お金と名声は私たちを救うことはできません、ましていのちを購入することなど尚更できません。神の御言葉は真であります。私は人生の残りの日々を過ごす母に付き添いました。人生の終わりに近づいていることを知った母は何もできず、苦しい思いをしました。私はその時初めて、私たちのいのちは非常に貴重なものであることに気が付いたのです。病棟にいた他の患者たちにはどうだったかと言うと、彼らが権力や富を持っていたか否かにかかわらず、彼らのいのちも引き延ばすことなどできなかったのです。彼らは死に直面すると、皆が同じようにとても小さな存在に見えました。私たちは神を信じる場合のみ、神の御加護を授かり、平安と幸せを手にすることができます。神から離れて知識、高い地位、莫大な富、そして名声を追い求めても、それは無意味です。なぜなら、それらには何の価値もないからです。これを理解した私は解放された気分になり、母の死による絶望感も感じなくなりました。神のなさった選択に感謝します。神は私がこの世界で追い求めるべき有意義で価値のあるものに気付かせてくださいました。私の人生はまだ先が長いのです。私は残りの人生を通じて神に従い、神の働きを経験していく決意をしました。

自分の真のいのちを発見

  終わりの日の全能神の働きを受け入れた後、私は学校に通いながら兄弟姉妹と集会を開きました。私は神の御言葉を読んでいると、神の主権に関する知識を得ることができたので、自分の日常生活を神に委ねるようになりました。私が地元に戻ると、父はもう1年以上もまともな仕事に就いていないけれど、驚いたことに私の授業料を払う必要がある度に、誰かが仕事をくれて、稼いだ収入が丁度足りていたと私に言いました。私は父の言葉を聞いて感動しました。私はこれが神の御業であると分かっていました。神は秘かに私を守ってくださっていたのです。その時、私は神の全能さと主権をより深いレベルで体験したのです。神のこの御言葉が私の頭に浮かびました:「ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。」

  過去を振り返ってみると、私は神を知らず、辛くて苦しい思いをしていました。神の慈悲と御恵みが私を神の御家に導いてくださったのです。私はその時はじめて、人が創造主の前に立ち返る幸せを体験しました。私は人生の新たな道を選択します。以前、私は注目を浴びることに後押しされ、車や家、そしてお金を稼ぐことを目標にしていました。今現在、こういったものは私の人生の焦点ではありません。人生の正しい道を歩むということは、神の前に行き、神の御言葉をもっと読み、そして神の働きを経験することに他なりません。

  卒業した後、私は神の御導きで穏やかな仕事に就きました。給料は高くありませんでしたが、私が生活するには十分でした。現在、私は兄弟姉妹との集会に参加し、神の御言葉を読み続けているおかげで、ある程度の真理を理解できています。私は職場と私生活において真理を実践し、神の御言葉に沿って生活する努力をしています。私は仕事を楽しみ、神の家族の一員として更なる自由とゆとりの中で自分の本分を尽くすことに最善を尽くしています。全能神に感謝します。神の御言葉は私の人生を変え、私を人生の真の道へと導いてくれました。

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私は神様の名前はなぜ変わるかやっと分かりました

2019-04-10 23:00:32 | 神に帰す証

スエラン(オーストラリア)

  1980年代後半、私は大学在学中に主イエス様の福音を聞く幸運に恵まれました。私は集会に参加し、聖書を読んで、神の御名はイエスであったこと、神は天と地を創造されたこと、神は万物を支配される1つの真なる神であること、イエスは人類の罪を贖うために十字架に磔にされたこと、イエスは私たちの唯一なる救い主であること、そして私たちは常時、主の御名を掲げる必要があるということを学びました。なぜなら、聖書にはこう記されているからです。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。聖霊によって動かされていた私は聖書をもっと読み、集会に参加することを切望しました。私の心は平安と喜びで満ち溢れていたのです。

私は神様の名前はなぜ変わるかやっと分かりました,神様の名前

  その後、どういう訳か、私の教会はどんどん荒廃していきました。私の牧師の説教は乏しく、同労者たちは口論したり妬み合うようになり、信者たちの信仰と愛情は冷めていってしまったのです。私は聖霊の働きを求めて多くの教会に足を運びましたが、状況はどこも殆ど同じで、私はとても落胆しました。2017年11月下旬、私は有名な宣教師の説教を聞きに行きました。そこで、私はウェイ姉妹と出会いました。私たちはお互いに気が合って、奥の深い会話ができました。その後、ウェイ姉妹は私にあるウェブサイトを紹介してくれて、私はそこで聖書の勉強会を見つけて参加し、更にはピーターという名前の兄弟とも出会いました。聖書の勉強会で、ピーター兄弟は天なる父の御心を行う方法、どのような人々が天国に入れるか、賢明な処女とは何か、神の御声を聞き分ける方法等、主の御言葉を頻繁に話してくれました。彼はまた、教会が荒廃している理由、律法の時代と恵みの時代における神の働きの背景的知識、この2つの時代の関係、そしてその他にも私にとって非常に啓発的であった内容をたくさん交流してくれました。彼は私が以前理解していなかった真理の側面を理解するのを手伝ってもくれました。私はこのように集会に参加できることを非常に幸せに思い、それはまるで私が初めて主の信者になった時の気持ちが蘇ったようでした。この集会は聖霊の導きで満ちており、私は感動して心の中が豊かな気持ちになりました。その後、私は、真理をもっと理解して、いのちの備えをより多く得ることを期待しながら頻繁に聖書の勉強会に参加しました。

神の御名と神の働きの関係について知る

  ある集会の時、ピーター兄弟はこう言いました。「今日、宗教界ではあちこちで荒廃した様子が見られ、信者たちは罪を犯して悔い改めるというサイクルの中を生き、罪の束縛と抑制から抜け出せないでいます。神はこう仰りました、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11章45節)。 ヘブル人への手紙12:14にもこう記されています。『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。』神は聖なる御方です。そして、私たちは汚れており、傲慢さ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといったサタンの性質で満ちています。それに、私たちはいつも罪の中を生き、頻繁に偽りを言って欺きます。私たちは自分の気に入らないことに遭遇したり、自分の家族が平和に暮らせていないと、神を誤解し、非難すらします。頻繁に罪を犯し、神に抵抗せずにはいられないような私たちが天国に入る資格を得るのは不可能なのです。これ故に、神は私たちを罪から完全に救い出すために、終わりの日に全能神という御名の下で私たちの罪を取り除く段階の働きをされており、私たちが罪の束縛と支配から完全に抜け出し、神によって変えられ、清められるように、そして、神の御国に入れるようにしてくださっておられるのです。」

  ピーター兄弟の言葉は私にとって非常に意外な内容でした。私はこう思いました。「私たちは紛れもなく罪を犯して告白するという状態の中を生き、罪の束縛から抜け出せず、天国に入る資格を持っていないのです。人間が必要とすることに基づいて、主が私たちの罪を完全に取り除くために新たな働きをされるということは可能であると私には思えましたが、主がその御名を変更されて、新たな御名をお使いになるなんてことがあり得るのでしょうか?クリスチャンは二千年以上に渡って主イエス様の御名を掲げ、その御名によって祈りを捧げてきたし、主イエス様を信仰し、頼りにしてのみ、私たちは恵みと救いを受けることができていたのです。なのに、主は本当にその御名を変更されるというのでしょうか?」私はこれを受け入れられず、こう言いました。「兄弟、聖書にはこう書かれています、『 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』。 私たちを救いうる御名は主イエス様の御名以外には与えられていないとここに明確に記されています。どうして、主は再臨される時に新たな御名をお持ちになって、全能神と呼ばれるなどと言えるのですか?この交流は聖書に基づいているのでしょうか?」

  ピーター兄弟は根気よく説明してくれました。「姉妹、実は、主が終わりの日に再臨なさる時に新たな御名をお持ちになるという預言は既に聖書に含まれているんですよ。聖書の中から幾つか節を読んでみましょう。ヨハネの黙示録3:12にはこう記されています。『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。 』ヨハネの黙示録1:8にはこう記されています。『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』ヨハネの黙示録11:17にはこう記されています、『 今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』 そして、イザヤ書13:6にはこう記されています。『あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ。』 ヨハネの黙示録は明確に「わたしの新しい名」を言及しており、それは主の新しい御名が 「イエス」 にはならないことを示唆していて、さらに後続の節では 「全能者」の御名が預言されています。つまり、これらの預言から、主イエス様は再臨される時に新たな御名をお持ちになり、全能神と呼ばれるのだと私たちは確信できるのです。」

  私はピーター兄弟の交流を聞きながら、聖書でこれらの聖句を調べてこう思いました。「本当だ、ヨハネの黙示録には神が新たな御名をお持ちになるとはっきり書いてあるし、本当にたくさんの預言の中に ‘全能者’ という記述がある。主イエス様は再臨される時に新たな御名をお持ちになるようだ。これは間違いない。聖書はもう何回も読んでいるのに、どうして以前はこれらの聖句に気が付かなかったんだろう?」私は、「 あなたがたは泣き叫べ。主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ」 、という節には特に驚きました。主イエス様でなく、全能神が世界を滅ぼす働きをされるのです!こう考えると、私はショックを受けたと当時に興奮しました。私たちは既に終わりの日の中を生きており、ありとあらゆる災害が勢力を増しています。これは主が既に再臨されて、全能神と呼ばれておられることを意味しているのでしょうか?こう考えた時、私はこの事態を真剣にとらえて、もっと調査を行うことにしました。

  この時、ピーター兄弟がこう言いました。「姉妹、神のお言葉をあと数節読んで差し上げますよ。そうすれば、神の御名に関する真理をより明確に理解できるでしょう。全能神はこう仰りました。『神の名は変わらないという人たちがいる。ではなぜヤーウェという名前がイエスになったのか。メシアの到来についての預言はあるが、ではなぜイエスという名の人が来たのか。なぜ神の名は変ったのか。そのような働きはずっと以前に実行されなかったか。神は今日新しい働きをすることはできないのか。昨日の働きは変えることができ、イエスの働きはヤーウェの働きから続いて起こることができる。ではイエスの働きを別の働きが継承することはできないのか。ヤーウェの名前をイエスに変えることができるなら、イエスの名前も変えることはできないのか。これは特異なことではなく、人々がそう考えるのはひとえに彼らの短絡思考のせいである。』(「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より)。 『なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか』(「神の働きのビジョン(3)」より)。『神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはするべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、一、二の、あるいは多くの名前を持っただけであった。どのような名で呼ばれるにしても、それは神自身が自由に選んだのではないだろうか。神はそれを決めるのに被造物を必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は人が理解できること、人の言葉にそったものであるが、その名前は人によって要約されることはできない。』(「神の働きのビジョン(3)」より)。」

  神のこの御言葉を読んだ後、ピーター兄弟はこのように交流しました。「神は元々は御名を持っておられなかったとはっきり仰っておられます。神は人類を救う働きを行うがために、現在の時代の働きを象徴することができるよう異なる御名を採用されているのです。神の御名は神の働きと共に更新されます。律法の時代に、神が律法と戒めを発布され、人間の生活を導かれた時も同じでした。神はヤーウェと呼ばれていました。恵みの時代が到来した時、神は人間の罪を贖う働きをされました。神の働きが変わり、神の御名もイエスと変わったのです。終わりの日に、神は神の家を起点に裁きの働きをされています。それは新しく、かつ一歩進んだ働きであり、神の御名も確実に変わります。しかし、神の御名がどのように変化するとしても、それは働きの必要性によるものであり、私たち人間にはそれに支障を来す権利はなく、自分たちの観念と想像まかせに神の働きの範囲を定める権利などはなおさらありません。そうすると、私たちは完全に無知であることになってしまいます。聖書にはこう書かれています、『だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、…だれが、ヤーウェの霊を導き、その相談役となってヤーウェを教えたか。』(イザヤ書40章12、13節)。神は天と地と万物の創造主であり、支配者であります。神の考えは人間の考えよりも高いものです。神が御名をお持ちであろうと、新たな御名をお使いになろうとも、その全てに神の知恵が含まれており、私たち人類にはそれを理解することはできません。これ故に、私たちは謙遜する、かつ探求する心を維持してのみ、その奥義を理解し、神の歩みを発見し、終わりの日の神の救いを得ることができるのです。」

  ピーター兄弟の交流を聞いた後、私の心は軽くなり、私は嬉しくなってこう言いました。「分かりました。神の働きは不変のものではなく、神の御名は神の働きと共に変わるのです。神は古いものを固守されず、神の働きが変われば、神の御名も変わるのです。私は本当に賢明な処女になって、終わりの日の神の働きを求める謙虚な心を持つことを学ぶ必要があるようです。」

神の御名の意味を理解する

  ピーター兄弟は私の理解を聞いた時、とても喜んで、興奮しながら神に対して感謝の意を表しました。私は全能神の御言葉とピーター兄弟の交流について熟考した時、こう考えました。「神は各時代において働きの内容に応じて異なる御名をお使いになるとは言っても、これらの御名は一体何を意味しているのだろう?」こう考えながら、私はこの困惑を提起しました。

  これを聞いたピーター兄弟はこう言いました。「姉妹、この疑問は全能神の御言葉の中でとても明確に答えが出されています。なので、神の御言葉を数節読んでみましょう。全能神はこう仰りました。『「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。…各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。…人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、六千年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない』(「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より)。『神の経営のすべてにおよぶ神の働きはきわめて明白である。恵みの時代は恵みの時代で、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代に神はその時代を表す働きをするため、時代には明確な違いがある。終わりの日の働きがなされるためには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を意味する。最後の時代に、神は時代を終わらせないのであろうか。時代を終わらせるためには、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ神は時代を終わらせることができる。…したがって、律法の時代ではヤーウェが神の名であり、恵みの時代ではイエスの名が神を表した。終わりの日には、神の名は全能なる神――全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる』(「神の働きのビジョン(3)」より)。」

  私たちが神の御言葉を読み終わった時、ピーター兄弟はこう言って交流を続けました、「神の御言葉から、各時代において神がお使いになる御名には、それぞれ独自の意味があるということが理解できます。律法の時代に、神はヤ―ウェという御名をお使いになりました。それには、神がその時代に権威、怒り、呪い、そして憐みの性質を表されたということを象徴していました。神はヤ―ウェという御名で律法の時代に働きを開始されました。神は律法と戒めを発布され、新しく創造された人類に地上での生活の仕方を教えられました。ヤ―ウェの律法に従った者たちは神の祝福と恵みを受け、律法に違反した者たちは石で撃ち殺される、もしくは火で焼き殺されてしまいました。律法の下で、イスラエルの民は、ヤ―ウェ神の性質が不可侵であることを知り、彼らは律法を厳守してヤ―ウェの御名を聖なるものとみなしました。ヤ―ウェ神の導きの下で、人々は数千年にも渡って普通の規則正しい生活を送りました。律法の時代末期になると、人類はサタンによって極めて深刻に堕落させられてしまい、神の律法と戒めを守ることができなくなっていました。そして、彼らは自分たちの罪を償うに十分な罪の捧げものを持っていなかったため、律法によって有罪とされて処刑にされてしまう危険に直面していました。これ故に、神は人類を救うためにイエスという御名を使って贖いの働きをされたのです。神は愛と慈しみの性質を表されました。神は人間に無限の恵みをお与えくださり、最終的には人間をサタンから救うために十字架に磔にされました。それ以降、主を信仰した人々は主の御名によって祈りを捧げ始め、神の許しと無限の恵みを受けるようになったのです。’イエス’ という御名は恵みの時代の人々が生まれ変わり、救われることを可能とするために存在したのです。’イエス’ という御名は、神の贖いの働きと、神の愛と慈しみの性質を象徴しています。私たちは主イエス様によって救われたものの、私たちが持つサタンのような性質は依然として私たちの内に深く根を張ったままであり、いつでも私たちが罪を犯し、神に抵抗するよう私たちを操っているのです。神は私たちを罪から完全に救い出すために、全能神という御名で裁きと刑罰の働きをなされました。神は心から神を信仰し、真理を切望する人たちを完全に変え、清め、そして罪から救い出し、彼らが最初神に創造された時のような人間らしさを取り戻せるようにしてくださるのです。同時に、神は真理を嫌い軽蔑して神に抵抗する人たち全員を明らかにし、人類をそれぞれの種類によって分別し、善良な人たちを報い、邪悪な人たちを罰し、そして人類を救う六千年の経営計画の働きを完結されるのです。これ故に、神は終わりの日に義、威厳、怒り、そして不可侵の性質をもってその御姿を人間にお見せになります。神は人間に神が元々お持ちの性質、そして神が有する全てと神そのものをお見せになります。すると、神は万物を創造されただけでなく、万物を支配されてもいるということを私たちは知るのです。神は人間のために罪の捧げものになるだけでなく、人間を完全にし、変え、そして清めることもおできになります。神は最初であり、最後なのです。神の不思議さや御業を完全に理解できる人はいません。神が終わりの日に ‘全能神’ という御名をお使いになることには、こういった意味合いがあるのです。人類を救うための経営計画の実施中、神は新しい御名で新しい時代を始め、その時代を完結されます。主イエス様が再臨される時も依然としてイエスと呼ばれるのであれば、人類を救う神の経営計画は恵みの時代に留まることになり、前進することができなくなります。そして、私たちは永遠と罪の中に生き、清めることも、天国に入ることも出来なくなってしまうでしょう。」

神の名前,私は神様の名前はなぜ変わるかやっと分かりました

  ピーター兄弟は論理的に話し、その根拠を証拠で裏付けました。神は異なる時代に異なる御名で異なる働きをされ、神の御名はそれぞれがその時代における神の働きと、神がその時代にお見せになる性質を象徴しているのです。これこそが、神が各時代において異なる御名をお使いになる理由です。この時、私は少しながらこの真理に目覚め、「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」 、という節は、神の贖いの働きを受け入れて、主の御名を呼びさえすれば、私たちは救われるということを意味していることに気が付いたのです。しかし、救われるというのは人の罪が許されるということだけを意味するため、イエスという御名にいつまでもこだわっていたら、私たちは永遠に恵みの時代に居留まることになり、私たちの堕落した性質が変えられなければ、神に清められ、救われることもないのです。結局、私たちは天国に入ることができません。

  私はすかさず応えました。「その通りです!アーメン!兄弟、あなたの交流のおかげで、私はこれを理解することができました。これでもう、神の御名が変わる理由について困惑することはありません。私は何十年も主を信仰してきましたが、このような真理を聞いたことは一度もありませんでした。私の牧師たちは主の御名を掲げるようにとは言いますが、神の御名がどこからきて、それにどういった意味合いがあるかを理解させてくれる牧師はいませんでした。全能神の御言葉は神の御名に関する奥義を明らかにしてくださりました。神は元々御名を持っておられず、神の働きの必要性に応じて異なる時代に異なる御名で呼ばれていたのです。各御名はその時代における神の働きと、その時代に神がお見せになる性質を象徴しているのです。これは有意義なことで、人々が定められることではないのです。これで、私は主イエス様が本当に再臨されており、主が全能神であることを確信しました!だから、私は終わりの日の全能神の働きを受け入れます!」

  私たちは神の新たな御名によって祈る場合に限り、聖霊の働きを得ることができます

  ある集会が終わった後、ピーター兄弟は、全能神の御名によって祈るべきだと私に言いました。しかし、私は何十年にも渡って主イエス様の御名によって祈りを捧げていたので、神の新たな御名によって祈ることに気まずさを感じていました。なので、私は自分の本当の状態をピーター兄弟に打ち明けました。

  ピーター兄弟は言いました。「姉妹、私も全能神の御名で祈り始めた時は同じことを考えていました。でも、神の御言葉のある節を見つけて、考えが変わったんですよ。その節をあなたに読んで差し上げますよ。全能神はこう仰りました。『聖霊の働きは日毎に変化し、段階毎に高まっている。明日の啓示は今日よりも高く、段階が進むにつれてさらに高まる。これが神が人間を完全にする働きである。人がこれに付いて行けないのであれば、いつでも取り残されうる。人間が従順な心でいなければ、最後まで従うことはできない。これまでの時代は過ぎ去った。今は新しい時代である。新しい時代には新しい働きがされなければならない。とりわけ、人間が完全にされる最後の時代になると、神はそれまでになく素早く新しい働きをする。それゆえ、人が従順な心を持たないならば、神の足跡を辿ることを困難と感じる。』神の御言葉から、真の心をもって神と神の最新の働きに従う人たちのみが聖霊の働きを得て、神に完全にしていただくことができ、心から神に従わず、保守的でいる人たちは聖霊の働きと導きを得ることができず、まして神に完全にしていただくのはなおさらのことだと、私は理解しました。今、神は恵みの時代を完結され、全能神の御名をもって神の国の時代を迎え入れられます。聖霊の働きも終わりの日の神の働きを支えるために移行されました。全能神の働きを受け入れて、それに従い、そして全能神の御名によって心から祈る人たちは聖霊の働きと導きを授かり、聖霊の働きの喜びを得ることができます。しかし、全能神の働きを受け入れない、または全能神の御名で祈りを捧げない人たちは聖霊の働きと導きを受けることができません。神がイエスという御名で働きをするために受肉された時も同じで、聖霊の働きは恵みの時代の働きを支えるために移行されました。主イエス様の御名に祈り、その御名を呼んでさえいれば、私たちは聖霊の働きを受けて、主がお与えくださる恵み、平安、幸福を受けることができたのです。同時に、律法を守り続けて主の御名を受け入れなかった人たちは聖霊の働きを失い、闇の中に生きて、神から捨てられてしまいました。私はこれに気が付いた後、神の新たな御名、全能神によって祈りを捧げました。私は真理を理解できない時は、全能神の御名に祈り、全能神の御心を求めます。そして、神の御言葉を読んでいると、私の心は全てが突然明確になったような感じを受け、私は神の御旨を理解し、平安と幸せを感じます。なので、聖霊の働きを受けたいのであれば、私たちは心から神の新たな働きを受け入れ、それに従い、神の新たな御名によって祈りを捧げなければならないのです。こうすることでのみ、私たちは神の働きの歩みについて行き、神の救いを受けることができるのです。」

  神の御言葉とピーター兄弟の交流を聞いた後、私はこのように理解しました。「一旦神の新たな働きが始まると、主イエス様が新たな働きをしに来臨された時と同じように、聖霊の働きも新たな働きに移行されます。これ故に、主イエス様の働きを受け入れて、主の御名を呼んだ人たちは聖霊から個別の導きと備えを受けることができたのです。主の御名を受け入れなかった人たちは聖霊の新たな働きについて行けず、聖霊によって排斥され、排除されてしまいました。これと同様に、神は今、新たな時代を開始されて、新たな御名をお持ちになられたので、私は躊躇せずにそれを受け入れ、それに従う必要があるのです。私たちは神の新たな御名によって祈りを捧げてのみ、聖霊の働きを受けることができます。私は神の御言葉に従って振る舞い、保守的になってはならないのです。」

  神に感謝です。私は自分の観点を変えて、全能神の御名によって祈りを捧げた時、心の中が落ち着き、安心感を得て、祈りを捧げれば捧げるほど、私の神との関係は増々親密になっていきました。同時に、宗教界が荒廃し、信者たちが集会で何の喜びも得られないのは、彼らが神の新たな働きに従わずに、神の過去の御名、御言葉、働きに固執しているがために、彼らの魂が闇の中にあり、彼らが歩む道を失っていることが理由であると、私は理解しました。私はこれに気が付いた後、私が神の御声を聞いて、神の御前に立ち返れるようにしてくださった神の救いを更にありがたく思いました。

  今日、終わりの日の全能神の働きを受け入れてから半年以上が経ちましたが、私は教会生活を送り、神の御言葉を読み、自分の個人的な認識と体験を兄弟姉妹たちと共有しました。そして、私はこの半年間で、過去数十年に渡る主への信仰の中で得たものよりも多くを得ることができました。そして、私は神のいのちの水の流れと備えの恵みを心から喜びました。神に感謝です!

  【編集者メモ】兄弟姉妹の皆さん、時代が変わった今、神の働きが神の御名と共に変わりました。スエラン姉妹は神の新たな働きを受け入れ、神の新たな御名によって祈りを捧げています。彼女は神の歩みに従い、新たな時代に進み、聖霊の働きと導きを授かりました。彼女は心の麗しさを楽しみ、彼女の霊的状態は変化を遂げました。あなたもこのような体験をしたいと思いませんか?


「三位一体」の真意とは?「ヤーウェ」と「イエス」の関係はいったいどういうものなのか

2019-04-06 21:20:39 | 神に帰す証

ジミー(米国)

  【編集者メモ】「三位一体」とは宗教界が神に関して至った結論の1つである。2000年近くに渡り、この説はほとんどのクリスチャンに受け入れられ、認識されてきました。クリスチャンの中には神の三位一体説の存在に困惑を隠せない人もいて、それは説明が困難であり、神の三位一体説はクリスチャンの心の中で謎めいたものとなっている。三位一体説は検証しても残存するでしょうか?ヤーウェとイエスの関係とは一体どういったものか?以下に記述した著者の体験が謎の解決に役立つことと思われます。

三位一体の神に関する困惑

  私の牧師が説教をする度に、私たちは「光栄讃詞」を歌いました。私たちは、父なる神ヤーウェ、御子である主イエス様、そしてといった3つの異なる位格からなる三位一体の1つの真の神を信仰していると牧師は言いました。私はこれついてとても困惑しました。真の神しか存在しない訳ですから、ヤーウェと主イエス様はどういった関係にあるのでしょうか?御父、御子、そして聖霊が3つの個別の存在であるとしたら、これらがどうやって1つになり得るというのでしょうか?私は、これは非論理的だと感じました。私は牧師のところに答えを聞きに行きましたが、その度に、彼は何らかの言い訳をしたり、礼拝の後に話してくれると言ったり、その時は都合が悪いと言ったり、後で聞いて欲しいと言っていました。私は牧師が私のことをわざと避けていると気が付いたので、彼にはもう質問しませんでしたが、三位一体説を理解することはできませんでした。

「三位一体」の真意とは,ヤーウェ,イエス

三位一体説は検証しても残存するのか

  2017年6月のある週末、私の妻が主イエス様は既に再臨されている、と嬉しそうに言って私を集会に誘ってきたので、私はそれを快く受入れました。
  6月のニューヨークは、太陽が照り、美しい景色が見られました。私たちは自分たちの幼い赤ちゃんを連れて集会の場所まで車で行き、そこで私はリュウ兄弟、ハオ・ジン姉妹、そしてリサ姉妹と出会いました。私たちは出会った瞬間からお互い古い友人であるような気分になり、集会は穏やかで気分を和らげてくれました。兄弟姉妹たちは私が持ち出した質問について辛抱強く交流してくれた上に、彼らの答えはとても有益であったので、私はその後に長い間頭を悩ませてきた三位一体について質問しました。

  私はこう言いました。「私の牧師は頻繁に、神は3つの存在からなる1つの真の神であり、御父、御子、そして聖霊がそれを構成する3つの存在であると、私たちに言われるのです。1つの真の神が3つの異なる存在からなるとしたら、どうして真の神が1人しかいないのかが理解できなかったんです。リュウ兄弟、三位一体の神について、あなたの意見を話してもらえませんか?」

  リュウ兄弟は興奮した様子で言いました。「兄弟、あなたはとても大切な質問を提起されました。三位一体説について学ぶには、聖書を調べる必要があります。そしてそうすれば、この説は聖書を根拠にしているものではないことが分かります。なぜなら、そのようなことは神も預言者も仰っておられないし、聖霊によって明らかにされてもいないのです。この説は主が来臨された300年も後に第1ニカイア公会議の場で確立されました。そこで、各国の宗教指導者たちが神の本質は単一なものか、それとも多面的なものかということについて激しく議論し合い、最終的には人間の観念と想像、そして論理的理論に従って三位一体説を確立しました。その後、人々は主イエス様以外にも天の御父が存在すると思いこむようになったのです。従って、三位一体説は堕落した人類の産物であり、神から生まれたものではないことが分かります。今日、全能神は真理を表すために来られ、この謎を明らかにされました。なので、先ず最初は全能神の御言葉を読んでみましょう。」

  彼はあるウェブサイトを開いて、私に読むようにと、神の御言葉のこの節を見つけてくれました。「 あなたたちの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に『唯一の聖霊、唯一の神のみがいる』と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。」

  その後、彼はこう言って交流しました。「今あなたが読んだ神の御言葉を通じて、ヤーウェは神の御霊であること、主イエス様は神の御霊が受肉されたお姿であるということが理解できます。本質的に、彼らは同じ御霊です、すなわち、神は御一方しか存在しないということです。神は3つの位格を合一して存在してはいませんし、三位一体の神などというものもありません。神は、律法の時代には御霊として働きをされ、恵みの時代には肉として働きをされましたが、御霊として働かれても、肉として働かれても、その御方は異なる働きをする同じ御霊であります。しかし、人々は主イエス様が天の神の御霊の肉であることや、神の肉が天の神の御霊と同じ本質を共有していることを理解出来ず、代わりに、それぞれ独自の観念と想像にまかせて1つの真の神を3つの存在、3つの個別の御霊に分割してしまったのです。これは神を冒涜していると思いませんか?これこそが、『三位一体説』 が検証には耐えられない理由であり、三位一体の神は存在しない理由なのです。」

聖書に記された御父と御子について

  私はこう言いました。「リュウ兄弟、私はあなたの交流にとても賛成です。ヤーウェ神と主イエス様は異なる時代に異なる働きをされていました。彼らの働きは異なり、彼らの名前も異なりましたが、本質的に彼らは同じ御霊の働きをしていたので、ヤーウェと主イエス様は同じ神なのです。しかし、ヤーウェとイエスは同じ神であったにもかかわらず、聖書には主イエス様がバプテスマをお受けになられた時、天から、こういう声があったと記録されているのはどうしてなのでしょう。『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。』(マタイによる福音書3章17節)神はどうしてイエスを愛する子と呼ばれたのでしょうか?それと、主イエス様がゲッセマネの地で捧げた祈りの中で神を天の父と呼ばれたことについてはどう思われますか?聖書にはどうして父と子という名が使われているのでしょうか?」

「三位一体」の真意とは,ヤーウェ,イエス

  リュウ兄弟は笑顔でこう答えました。「とても重大な質問ですね。大勢の人たちはこの疑問の答えがはっきりと解らないので、想像と理論を神の三位一体説の根拠として使い、主イエス様には父親がいると勘違いしています。そう思いませんか?聖書には主イエス様とピリポのこの会話が記録されています。「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』(ヨハネによる福音書14章8-10節)この会話より、ピリポは主イエス様がヤーウェの子であり、主イエス様には天の父がいると思っていましたが、主イエス様はそれをお認めにならなかったことが分かります。代わりに、主はただこう仰りました。『 わたしを見た者は、父を見たのである。』『わたしが父におり、父がわたしにおられる』。 主イエス様は、父は子で、子は父であり、子と父は同一人物であると、とても明確に仰りました。しかし、どうして私たちはこれを聞いても理解できないのでしょう?それは主として、私たちが受肉された神の本質を知らず、神の御霊が肉となることに関する真理の側面を理解していないからです。神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」

  私はこの節を読みました。「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営(救いの)計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から『わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている。』と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。」

  そしてリュウ兄弟は交流しました。「神の御言葉は、主イエス様が天の神の御霊が受肉された御姿であると、はっきり語っておられます。天の神が主イエス様を愛する子と呼ばれた時、それは神が霊的な視点から自らの肉の証言をされていたのです。それは、なぜなら天におられる神と御霊は1つだけだからです。もっと詳しく言うと、受肉された神はヤーウェの肉の姿であり、すなわち、ヤーウェの御霊が謙そんして、自らを形ある肉の体の中に隠し、普通の人の子の形を取られたのです。主イエス様が祈り、天の父について触れた時、主は単に創造物、すなわち、人間の視点から神の御霊に名前を付けていただけなのです。しかし、これは主イエス様が実は天の神の御霊の子であると証明しているわけではありません。主イエス様は十字架に釘付けにされる前は人の子キリストであり、栄光の体ではありませんでした。それ故に、主イエス様が創造物の視点から天の神を父と呼ばれた時、それは主イエス様の謙そんした従順な姿勢を表していたのです。しかし、主イエス・キリストに従った使徒全員の中で、聖霊によって主イエス様がキリストであるという事実を啓発されたペテロ以外には、イエス・キリストが受肉された神であることを知っていた者がいなかった故に神の御霊は自らの霊的な視点から自らの肉の体の証言をされ、受肉された神を子と呼び、受肉した神は肉の視点から天の御霊を自らの父と呼んだのです。これが父と子という表現が生まれた発端です。しかし、これらの表現は、主イエス様が肉として来臨された頃の働きにおいてのみ使うのが適しています。主が去られた後、父と子という考えはなくなりました。これ故に、私たちは父と子という表現があるからと言って、三位一体の神を信じるわけにはいかないのです。この説は成り立ちません!」

  リュウ兄弟の交流を聞いた後、私の心は明るくなりました。私は言いました。「アーメン!兄弟、あなたの交流に感謝します!主イエス様は創造物の視点から話しておられたので、天の神を父と呼ばれ、それは神の謙そんした、かつ隠された本質の現れなのです。真実として、神は御霊であり、天ではヤーウェと呼ばれ、肉としてはイエスと呼ばれますが、それでも神は本質的には御霊であります。従って、主イエス様はピリポにこう仰りました。『 わたしを見た者は、父を見たのである』」。

  リュウ兄弟は笑顔でこう言いました、「神に讃えあれ!正にその通りです。私たちが神を3つの個別の存在に分けてしまうのは、神の受肉の真理を理解していないからなのです。」

  私の妻は言いました。「そうよ!神が直々に教えてくださらなかったら、私たちは絶対に理解できなかったわ。」

  リュウ兄弟は言いました。「その通り、私たちが毎日朗読している通り、『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。…』(マタイによる福音書6章9節)、ということなのです。主イエス様は私たちに主の御霊に向って祈りを捧げるようにと教えて下さっていたのです。私たちは自分たちのことを知識と経験のある大人とみなしますが、神からしたら何も理解していない赤ん坊と同じなのです。神の御言葉の節をあと幾つか読んでみましょう。ジミー、どうぞ読んでください。」

  私は真剣に読みました。「神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。」「イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ぶことができる。神の霊だけが多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球を洪水にして世界を破壊することもできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神のほかのどの位格が神の代わりに行ったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にもいる。天と地の唯一の主人である。」

  リュウ兄弟はこう言いました。「神は1つの御霊であり、神の御霊はあちこちにあり、全能であると、神の御言葉は明確に語っておられます。神の御霊は受肉して人間の中で生き、全宇宙の全てを操ることができます。神の御霊はたくさんの働きができます。人々を創造し、人々を導き、人々を救い、そして人々を征服し、人々を完全にし、人々を消すこともできます。天で働かれようと、地で働かれようと、御霊であろうと、キリストであろうと、神は創造主であります。過去に、私たちは受肉された神の本質に関して全く無知であったため、宗教界の言うことをうのみにして神を分けてしまっていましたが、現在、宗教界が神を分割して考えるということを、全能神は最も愚かな理論として分析されています。今日、神は1つであり、私たちがどのように祈りを捧げても、神にどのような名前を付けても、神の御霊と神の肉は1つの神であり、1つの御霊であり、3つの御霊ではなく、3つの位格でもないと、私たちは理解しています。これは事実であり、誰も疑う余地はありません。」

  その後、リュウ兄弟は受肉された神、および人類を救うための神の3段階の働きに関する真理について更に交流しました。この時、私の妻は、全能神は確実に主イエス様の顕現であると思うかと、私に聞いてきたのです。私は確信を持ってこう答えました。「私は信じるよ!私はこれらの御言葉が全て神の御言葉だと信じているから。私はこれらの御言葉の中で、疑問の答えを全て見つけたんだ。だから、私は全能神が主イエス様の顕現だと信じているんだ。」兄弟姉妹たちは私はこう言ったのを聞いてとても喜びました。ある兄弟は言いました、「神に感謝します!神の羊は皆が神の御声を聞けるんです。」
その後、私は定期的に兄弟姉妹たちと集会に参加するようになりました。

子羊の婚宴の場での食事

  風、雪、そして雨が、春と秋と共に訪れ、そして去り、あっと言う間に全能神の新たな働きを受入れてから1年以上が経ちました。あの年以降、私は集会で兄弟姉妹たちと神の御言葉を読み、福音映画を観賞し、兄弟姉妹たちの体験と証言を撮った動画を見て、真理を幾つか理解できるようになり、現在は創造物としての自分の本分を尽くすために教会で出来る限りの努力をしています。神の愛を授かったこと、そして幸運にも神の後足を辿り、子羊の婚宴の場で食事ができたことを、神に感謝します。全ての栄光、全能神にあれ!


夫婦間の不貞が生む辛い思い出から抜け出す方法とは?

2019-04-05 23:32:42 | 婚姻・家庭

信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

  こんにちわ、私は結婚して20年になります。私は私と夫はお互いに愛し合っていると思っていました。しかし、残念なことに、夫は浮気をしてしまったんです。私はとても憤慨していて、これとどう向き合えば良いのかわかりません。「どうして夫婦間の愛情はこんなにはかないのか?」そして、「どうすれば、この苦しみから抜けられるのか?」というのが私からの質問です。

  どうぞ宜しくお願いします、

  モーヤン

夫婦間の不貞,生む辛い思いでから抜け出す方法とは

モーヤン姉妹へ:

  こんにちは、あなたのメッセージを拝見させていただきまして、私も以前同じ経験をしておりますので、あなたの現在のお気持が理解できます。あの暗い日々、神の御言葉の御導きがなければ、私はどうやって前進して行けば良いのか分からなかったと思います。神の御言葉の御導きのおかげで、私は夫婦間の愛情がとてもはかない理由を理解し、人間の苦しみの根源を知ることもできました。次第に、私は夫に裏切られた辛い思いでから抜け出すことができました。

  私の夫と私は幼馴染の恋人同士で、同じ興味を沢山持ち、いつも会話が絶えませんでした。私の家族は彼との結婚を認めてくれませんでしたが、私たちは全ての障害を乗り越えて一緒にい続けました。結婚した後も、私の夫はとても思いやりがあって、私に気を使ってくれました。私たちはお互いを深く愛し合っているから、いつも幸せでいられると私は思っていました。しかし、現実は私にとって非常にショックの大きいものでした。

  私の夫は以前よりもお金を稼ぐようになり、もっと多くの人たちと触れ合うようにもなり、それは彼の近くに都合の良い時だけいるといった友人の数が増えていたことを意味していました。ある日、私は偶然彼のWeChatを開いてあるメッセージを読んでしまいました。その中で、彼は他の女性を ‘ハニー’ と呼んでいたのです。その瞬間、私は自分の目を疑いました。体中の震えが止まりませんでした。 彼は私たちの残りの人生を通して私を愛すると誓ってくれたのに、どうして他の女性にあんな甘い言葉をかけることができたんでしょう。何年も一緒にいるのに、どうして私を裏切ることができたのでしょう。私が彼に問いただしてみると、彼は実際に浮気したと認めた上に、平然とそれは大したことじゃないし彼の同僚も多数がやっていることだと私に言ったのです。
  その瞬間、私は空が崩れ落ちてきたような気分になりました。怒り、恥じ、そして絶望感が全て頭にこみ上げてきました。私は心の痛みを抑えられず、涙を流しながら泣き声をあげました。

  私の夫が裏切ったことを認めた後、私は何がどうなっても構わないと感じるようになりました。私は皆から自分を閉ざし、1週間の間一言も喋りませんでした。夫の裏切りについて考えたとたん、水門から流れ出る水のように涙が吹き出てきました。私は仕返しをするために夫のお金を全て使ってしまおうと思い、洋服と靴を買ったり、外食等をし始めました。しかし、夫のお金をいくら使っても、怒りは全く収まりませんでした。私は僅か2週間で、8.5キロも体重が減ってしまいました。

  苦しみと絶望感の中で、私は神のこの御言葉を目にしました:こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に退化させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。それでは、そのような社会動向とは何なのでしょうか。それは裸眼では見ることが不可能です。社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。

  神の御言葉から、私たちがたくさん苦しみながら生きているのは、サタンの邪悪なトレンドを受け入れてしまっていることが原因だと理解しました。近頃、公衆のモラルは日に日に乱れ、ポルノは蔓延し、「妻をもらうが、情婦ももらう」や「人生は短い、快楽を求めて今を生きよ」といったありとあらゆる誤った考え方が押し広められています。こういった考えが人々の持つ人生観と愛の観念を歪めてしまったのです。人々はこういった邪悪なトレンドを追い求め、浮気をすることや愛人を見つけることを恥ずべきことではなく、力の表れとして見ています。多くの家族が離れ離れになり、多くの恋人たちが愛情と憎しみの間を降れ動き、そこから抜け出せないでいるのです。私の夫が私を裏切ったのも、彼がこの種の考えを受け入れてしまったことが原因でした。彼は周りの人たちが浮気をしているのを見て、自らもやってしまったのです。彼は自分が悪かったと思っていないだけでなく、これはごく普通のことだと思い込んでいるのです。サタンの思考によって堕落させられた私たちは道徳を失い、人々の間の愛情もはかないものとなってしまっているのです。

  私もまた、「命はかけがえのないもの、しかし愛はもっと価値がある」や「彼の手を握り、年老いるまで付き添いましょう」といったサタンの他の観点を受け入れてしまっていたので、愛を手にすることを幸せになる第一条件、かつ自分の人生を生きる価値のあるものにしてくれる唯一のものと見なし、優しい愛情を手にした場合に限り、人の人生は価値と意味を持つものだと思っていました。これ故に、夫に裏切られるという状況の中で、人生を捧げて大切にしてきた自分の結婚生活が崩壊するのを見た私は、落胆して一日中呆然としていたのです。私はまるで歩く死体のようでした。これはサタンの哲学を指針として生きた結果であり、さらに重要なこととして、これはサタンが私に及ぼした害なのです。このようなサタンの生き残りのルールに関する真理と見識を持たない私たち人間は苦しみの中を生き、サタンから意のままに踏みつけられることを余儀なくされているのです。

  その後、私は神のこの御言葉を目にしました、神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。

  神の御言葉より、神は真理、道、そしていのちであると私は理解しました。神だけが私たちをサタンの被害から救うことがおできになります。神は私たち1人1人が幸せに暮らし、神を礼拝し、神の御言葉に耳を傾けることを望んでおられますが、その一方では遊び半分に人々を堕落させ、苦しめるサタンは私たちが苦しみの中を生きることを望んでいるのです。私たちは真理を追い求め、それをいのちとして手にする場合に限り、サタンから欺かれるのを避け、苦しみから抜け出すことができるのです。私は、サタンが人類を堕落させるために使う手段に関して見識をもっていなかったがために、夫の裏切りが生んだ辛い思いでの中を生き、過去に捕らわれながら自らを苦しめていたという事実についてじっくりと考えました。あの当時、私の心はぼろぼろに引き裂かれました。しかし、神の御言葉による御導きの下で、私はこれら邪悪なトレンドが人々に及ぼす被害を明確に知ったと同時に、私と夫は共にサタンの引き起こす邪悪なトレンドの被害者であったことにも気が付きました。徐々に、私は夫の裏切りが生んだ辛い思いでの中から歩み出て行きました。

  その後、私は教会で積極的に自分の本分を尽くし始め、今は豊かな生活を送っています。

  モーヤン姉妹、あなたがこの苦しみから抜け出す上で私の経験がお役に立つかは分かりませんが、人類を堕落させるこのような邪悪なトレンドが引き起こす結果を神の御言葉からはっきりと理解されることを願っています。サタンの策略には絶対に騙されないようにして、神の御言葉に従って生活を送ってください。神の恵みがあなたにありますように!

敬具、

信仰ステーションより

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