時代小説から学ぶ
高齢者になるにつれ、読物は時代物が多くなってきた。藤沢周平、池波正太郎、山本
周五郎などである。その山本周五郎がある講演で語ったと言われる言葉はある。
「慶長五年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなくて、
そのときに、道修町(どしようまち)の、ある商家の丁稚(でっち)が、どいう哀しい思いを
したか、であって、その悲しみ思いの中から、彼がどいうことを、しようとしたかとい
うことを探究するのが時代文学の仕事だ」
江戸時代は基本的に身分社会である。士農工商とわかれていただけでなく、侍のなか
にもあるいは商人のなかにも議びしい上下の身分の別がある。
その厳しさが哀しい思いを強いてゆく。そしておそらくはこの悲しみは、一見、自由
で平等に見える現代のわれわれにも深いところで通じるものがある。
時代小説を読みながらいつも思うことは、もし自分がその時代(江戸時代)に生きていて
商人とかあるいは丁稚とかいわゆる町人であったなら、どのような思いで生活しているだ
ろうかと。この経済、文化が発達し、80年近く続く平和な現代と比較して有難いと思う
半面、自由でありながら、何か事を起すと世の中の規則に何重にも縛り付けられているよ
うに感じるのは私だけだろうかと思うのです。
江戸時代の市井(しせい)の人々、とりわけ社会の隅のほうにいる人々の悲しみを描いた
ものをよく好んで読んでいます。最近以前とは少し違った読み方になっているようだとき
ずいています。それは、市井で暮らす彼らや彼女にもその身分の範囲で実にのびのびと暮
らしている人達も多くいることを行間の中に感じることが多くなっています。
情が深くお互いに助け合って生活している姿から学ぶ点が多いと。