
自衛隊基地の金網のフェンスに咲く小さなオレンジ色の花。マルバルコウソウというのだろう。
鉄条網の向こうに広がる空。おセンチなみみ爺は、秋というとなにかとてもはかないものを感じてしまう。

疲れたような向日葵の先に秋の空。

空は高いんだが。

みみ爺が子供の頃、隣の家の広い庭の片隅に一本の大きな柿の木があった。秋になると、仲良しだったその家の子供たちと一緒に、先を割った長い竹ざおで柿の実をとり、皮もむかずにそのままかじって食べた。
その家の子供たちのお父さんが交通事故で亡くなったあと、一家はどこかへ引っ越していった。その後も毎年柿の実はなったが、誰もとるものがいなくて、地面に落ちて腐ってしまうか、木の枝に下がったまま鳥につつかれてしまったりしていた。

刈入れの近い田が明るく広がっている。明るいが、夏の明るさとは何かが違う。

みみ爺が小学2年生か3年生の頃のことだ。近所の遊び仲間と一緒に遠出をした。遠出といっても家から2キロほどの距離だ。それでも子供の足ではとても遠く感じられたよ。途中の寂しい分かれ道に、たくさんの石仏が並んでいたんだ。あたりには鬱蒼と木々が茂り、薄暗い里はずれの道だった。
みみ爺は、その日みんなより早く家に帰らなければならなく、一人心細い思いでそこを駆け抜けた記憶がある。薄暗い分かれ道に並んでいた石仏たちがなぜかとても恐ろしく感じられたんだ。それも日暮れの早い秋だったと思う。

やはり子供の頃、サトイモの畑の道を一人で通るのがとても怖かった。背の高いサトイモの葉陰から、ガサゴソと突然怖い男が出てきそうで…。

中学校へ通った道の途中に寺と墓があり、秋になると彼岸花が狂ったように咲き乱れた。

「下山途中、すぐ目の前を歩いていた仲間の一人が、ほんとになんでもないようなところで何かにつまずき、そのまま谷へ吸い込まれるように落ちていった」
そんな話をふと漏らした友人がいた。大学時代、山岳部に所属していた無骨な男だ。
「風の中で、なよなよと伏し倒れそうになっているコスモスの花がすきなんだ」
柄に似合わずそんなことを呟いていたその友人のことお思い出す。今は遠い九州にいる。どうしているだろう。

菊芋が食べられると知ったのは最近のことだ。知っていればお腹をすかせていた子供の頃、いくらでも取りに行ったのになあ。

運動会の練習だろうね。運動会というと、柿と栗と玉子焼きと海苔巻きとおいなりさんと…。


「鉄塔武蔵野線」という映画があった。遠い遠い忘れかけた記憶がよみがえってくるような映画だよ。
空が高いなあ。ヒメモロコシというのかな。

稲の刈入れというと、今ではほとんどこんな風に大きな機械が使われている。サギもびっくりするほど、あっというまだ。


うわあっ!真っ赤だ。
