ハラボジの履歴書

祖父が日本に渡って来なければならなかった物語を記憶に基づき
在日100年が過ぎようとしているいま書き留めておく。

神風特攻隊知覧平和会館に行く

2013年03月24日 | Weblog
 鹿児島県知覧町を昨日始めて訪問した。
鹿児島市内から車で一時間。お茶と武家屋敷と時の太平洋戦争
のとき、米軍の沖縄攻撃が近づいたとき、軍部が最後の手段として
この特攻隊を組織し過去前例のない、人間爆弾ともいうべき
戦法を実行した。
昭和19年に沖縄に向け、知覧基地から周囲を米軍の軍艦300隻以上
に囲まれた沖縄を奪回するための作戦とはいえ、戦争とはいえあまりにも
残酷であった。
その特攻機に乗るのは下は16歳から上は25歳ぐらいの志願兵が採用され
南の海に散って行った。
敵艦に突っ込む前夜に基地近くの富屋食堂の女将鳥浜トメさん。
出撃する人生最後の日をこの食堂で過ごしたと言われ、多くの
若者の最後を励まし見送っていった。
これまで特攻隊の話はさまざまな形で聞いたが、常軌を逸していた
、また逆に大和魂のの真髄などと本来簡単に一言で表現または
評論できるものでない、究極の言葉がそこにはありすぎるほどあり
言葉だけでは表現できないものがあり、私は戦後8年を経た
生まれで戦争は全く分からない世代であるのだが、
当時の記憶がしkっかりと残る場所に行くと、そこには68年を経た
今にも、その当時の現実が叫びとして聞こえるような力を放っており
人間が戦争を行わなけばならない愚かさをいつまで続けていくのかという
大きなため息すら聞くような思いもした。


写真は隊員が出撃前に待機した三角兵舎
ここで遺品、遺書など生前の整理を行い、そして最後の食事などし飛び立っていった
敵に見つからないようにと半地下構造でいつも湿気ており、わら布団で粗末な食事でともに
出撃する隊員と最後の夜をここで過ごしたという。