ここんとこ忙しくて、公休日なのに電話が来て急きょ出勤したり、通常21時までの勤務なのに22時までの延長が2日続いたりして、夕刊に目を通してませんでした。
3月4日の夕刊を読んでいたら、死亡記事に玉虫義孝さんの名前を見つけました。
私は結婚していたころ山形市に住んでいて、夫婦で飲食店を経営していましたが、この店によく足を運んでくださったのが、当時、山形新聞社の重役だった玉虫さんです。
とても気さくで楽しいお酒を飲む方でした。
息子が店に遊びに来ていた時、黄色いランドセル(山形大学教育学部附属小学校の1年生はこれに指定されていた)を背負ってるのを見て、「おお、附属に入ったのか。じゃこれはお祝いだ」と言って、その場でポチ袋を取り出してササッと下さった。息子はもう覚えてないでしょうが、お年玉をいただいたこともあります。
当時は山形新聞社の方々ばかりでなく、山チョンと呼ばれる山形チョンガー族が所属する「他山会」というのがありまして、東北パイオニアの石島聡一(当時)社長、山形カシオ社長、旧富士銀行山形支店長など5~6人の方々が月に1回集まってご利用いただいてました。一種の異業種交流会ですね。
石島さんも気さくな方で、奥様や息子さんを連れてプライベートでご来店されたこともありました。その石島さんもお亡くなりになってしまった・・・。
人はいつか死んでしまうものですから、悲しみがあるとはいえ諦めはつきます。かわいがっていただいた思い出を偲び、ご冥福をお祈りいたします。
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私は結婚していたころ山形市に住んでいて、夫婦で飲食店を経営していましたが、この店によく足を運んでくださったのが、当時、山形新聞社の重役だった玉虫さんです。
とても気さくで楽しいお酒を飲む方でした。
息子が店に遊びに来ていた時、黄色いランドセル(山形大学教育学部附属小学校の1年生はこれに指定されていた)を背負ってるのを見て、「おお、附属に入ったのか。じゃこれはお祝いだ」と言って、その場でポチ袋を取り出してササッと下さった。息子はもう覚えてないでしょうが、お年玉をいただいたこともあります。
当時は山形新聞社の方々ばかりでなく、山チョンと呼ばれる山形チョンガー族が所属する「他山会」というのがありまして、東北パイオニアの石島聡一(当時)社長、山形カシオ社長、旧富士銀行山形支店長など5~6人の方々が月に1回集まってご利用いただいてました。一種の異業種交流会ですね。
石島さんも気さくな方で、奥様や息子さんを連れてプライベートでご来店されたこともありました。その石島さんもお亡くなりになってしまった・・・。
人はいつか死んでしまうものですから、悲しみがあるとはいえ諦めはつきます。かわいがっていただいた思い出を偲び、ご冥福をお祈りいたします。
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