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Lund, Sweden
次男がスゥエーデン・ルンドからデンマーク・コペンハーゲンの会社への通勤に使うオーレスン・ブリッジを通る電車からの景色。距離にして片道24マイル(39Km) 52分ほど。清々しい窓外のエーレスン海峡の景色をシンプルに楽しめる。
10年以上忠実に働いていた古いデスクトップのコンピュータが「ついに死んでしまった!」とある友人が嘆いた。まさにある日突然うんともすんとも言わず、とにかくスタートさえしてくれない。コンピューターの修理屋が開いていない時間だったので、友人の娘は、友人にこの際新しいラップトップを購入して交換するように言った。購入後に続いたのは、2日間の純粋な欲求不満だったと友は言う。それは、まるで太古の昔のフォード社のモデルTの運転に慣れていたのに、突如スペースシャトルの飛行操縦に移行するようなものだと形容しつつ言った。
娘が新しいラップトップを設定した後、友人は以前から使用していた古い電子メールプログラムを探した。古いバージョンを新しいコンピューターにダウンロードしようとしても、機能しなかった。その後4人の異なるいわゆるコンピューターSavvyサヴィ(コンピューターに詳しいオタク)と話したが首を振るばかり。つまり全て無駄な努力てあると示唆された。ジャンプドライブで保存した古いストーリーなどをすべてラップトップへ転移送するのももちろん困難だった。ラップトップのいかにも派手な(友人の感想による)新しいプログラムは、まるでアイコンの地雷原で、誤ってそれらの1つに触れるたびに、画面のすべてが変更され、元に戻す方法を見つけるためにさらなる必死な努力が必要とされた。結局、友人は新しいラップトップコンピューターの設定をひどく台無しにしてしまい、娘にリセットをしてもらい、最初からやり直すことができた。やっとその2日後、友人は新しいコンピューターの必要ないくつかのごく簡単なことを実行できるようになったらしい。そして、おそらく永遠に使用しないだろう他の何千もの機能を無視しつつ、古いデスクトップと同じくらい長く忠実に動作機能することを願っているそうだ。
これらすべてから友人が学んだことは、コンピューターと生活に関して、物事をシンプル、シンプル、シンプルに保ちたいということであった。朝起きて急いで真っ先にコンピューターに向かいたくないし、その代わりに、まず愛犬を撫でて外に連れ出し、ここの山の端から太陽がゆっくりと昇るのを眺めたいと思うと言う。子供たちを抱きしめたり、友達と話したり、神様に祈ったりして時間を過ごしたい、とも。自然の鼓動と天の御父の愛を感じたいと言う。ゆっくり、と故意にでも、神聖に日々を過ごしたい。自分の時間と才能を費やして、この世界をより速くではなくより良く機能させたいと思うからだと友人は言った。
人生はそもそもシンプルなものである。愛もそうだ。物事を複雑にするのは他ならぬ私たち自身ではないか。「今日は少し時間を取って、電子機器の電源を切り、心臓の電源を入れてみよう。」と朝起きてまずそう思い、プログラムではなく人になろう。「自(分)撮り」ではない本物の私でいたい。小さくとも何か目的を持って、コンピューターや携帯に惑わされずに、自分の日々を過ごしてみたい。だから、なるたけシンプルに生きていきたい。
人生をなるべくシンプルにして生きていくこと、と、子供達が幼いうちから家訓のように言ってきた母親の私。それはシンプルに日々を大事にして、シンプルに人に親切にし、男女関係においても然り。良い伴侶を穴のあくほど見つめ、本当に大切な人か見極め、一度結婚したら、シンプルに添い遂げ、仕事にしてもシンプルに真面目に働けば良い。家族の運営にも、シンプルに、見栄だの、虚栄だのを蔑ろにして、何が一番大切かシンプルに判断し、子供や伴侶を愛し、シンプルに生活していくこと。そう言うことをシンプルに言い続けると、そのうち、何を決心するのでもシンプルに答えはやってこよう。そうでない場合は、シンプルに、神と対話し、シンプルに神に常に近くあることである。
コンピューターにかじりつく事が短ければ、シンプルに家族で近隣のトナカイに会いに公園へ行ける。
2歳児がトナカイに餌をあげることを助けられる。