画家モーガン・ウエイストリングは、この自作品に「神の御顔にキスをする」と名付けた。
クリスマスは、サンタクロースがいるかいないかではなく、サンタ彼自身についてでもなく、ケンタッキーフライドチキンの店頭に殺到することでもなく、家のイルミネイションの競争をするかしないかの問題でもなく、ギフトをするかしないかでも、勿論ない。クリスマスと銘打つ商魂に浮つく巷の喧騒や、遠く故郷や家族から離れて一人鬱々と過ごさねばならぬ寂しさでもない。私にとってクリスマスはゆっくりとリラックスし、平安な気持ちで、かの幼な子を心に留め、希望を新たにすることである。そして、キリスト教徒でなくとも起こることである、もしあなたがそうしたいと願うならば。
かの幼な子の生涯に何が起こり、あるいは自分の人生に何が起こっていくのかについて過剰に心配し、不安に苛まれずに、その代わりに、おそらく世界の歴史の中で最も穏やかな平安な瞬間について考えてみたい。天界全体が「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2 :14)という瞬間である。東方の三賢者が、導かれたという誕生と共に空に現れた輝く星を想像してみることさえ、希望が湧く。
世界的キリスト教会の指導者の一人、D.トッド・クリストファーソンは数年前こう語った。
「ある日南アフリカの英国国教会大司教であるデズモンド・ツツ司教を特集したラジオインタビューを耳にしました。彼は娘と一緒に、アパルトヘイトに続いて南アフリカで起こった和解についての本を出版したばかりでした。基本的に、ツツ司教のこの本のメッセージは、すべての人には善があるということです。
ラジオ・インタビューの中で、司会者はツツ司教に実に見事な質問をしました。『あなたは年をとるにつれて神との関係が変わったことに気づきましたか?』
ツツ司教はしばし沈黙してから、こう答えました。『私は神の御前(みまえ)でもっと黙することを学んでいます。』
司教は若い頃に祈ったとき、要求と懇願のリストを読むように祈ったことを思い出していました。司教自身が『一種の買い物リスト』と呼んだものでそれで天国に近づけると思ったのだと。しかし歳と経験を重ね、信仰をますます深めた今、彼はこう言いました。『私はそこ(神の御前)にいるだけで成長するかのように思います。冬に火の前に座っているときのように、火の前にいるだけで、そこには頭がいいなどの必要はありません。火はあなたを暖めます。』
クリストファーソン氏はそのインタビューの司教の答えについて続けて語った。「それはなんと素敵な比喩でしょうか。ただ主と一緒に座って、冬の火のように主が暖めてくださるとは。そして誰も完璧完全である必要はなく、最高の地位である必要もないのですから。」
「今年のクリスマスシーズン、しばし静かに座って、救い主の霊があなたを温め、あなたの奉仕なさること、人生の価値をゆっくりと省みることで心の平安が持てることを願っています。あの幼な子の許で一緒に静かに座って、霊的に強化され、後で来るすべてのことに備えられますように。その瞬間があなたにとって休息と元気付けと安寧となることを願っています。」
O Come, Emmanuel---Christmas Version By ThePianoGuys
「久しく待ちにし主よとく来たりて」をピアノガイズのピアノとチェロ演奏にて。5分27秒。