経過報告
先月三日に脊椎管狭窄症のため、椎弓切除及び椎間関節切除などの手術を行って22歳(あくまでも自称)になった夫は、その後も順調に回復し、退院した次の週からは出勤し、四週間目にはすでに庭の手入れ(草刈り、藤の枝の剪定等々)をこなし、コーストへの一泊出張も終え、二階の寝室で眠っている。手術前に考えていた二階へのホームエレベーター設置案は、結局不要となり、よって夫は階段を使っている。全く痛まないわけではなく、サロンパスの大きなLidocaine 4% Pain Relieving Maximum Strength Gel-Patchを週に二晩ほど手術跡の両側に貼っている。リドケインは局部麻酔薬で200mg以上使用すると痙攣を起こす副作用があるが、入院時にも使われていたので、4%の湿布薬週二回使用ではさほど心配はないようである。特に強い鎮痛剤を使用することもない。先日の術後ひと月目執刀医検診では、まったく理学療法(Physical Therapy)は必要がないと診断され、そして検査後すぐ椅子から立ち上がった夫に医師は驚いたと言う。「私の執刀だからだな」とドクターX並みの「失敗しない」神経外科医は喜んだ。
ありがた~いサロンパス
まったくサロンパスの必要のない新しい孫息子三人はすでに五か月、四か月、二か月となる。それぞれ私の大好きな歯のない笑いをし、時には声を立てて笑いもする。#7は相変わらず新米から二番目なくせに、夜間真面目に眠らず母親の末娘とその夫を困らす。そのためにパパの大事な法学校のアサイメントや予習や法廷仕事がおろそかになるのを危惧して、ママと#7は里帰りをしている。これで二回目だが、今月にクリスニング(というよりも命名・祝福式)を予定していたのでちょうどよかった。#7の成長は目覚ましく、話しかけるとすぐに笑みを浮かべ喜ぶ。その笑顔には、「もう、あなたのためなら、何だってしちゃう」人間にさせる眼力レーザー光線という秘密兵器が潜んでいる。
#7とクリスニングでの家族写真。白いクリスニングガウンは親子二世代にわたって使われているお手製。
#8もあっという間にもう二か月。長女は#8とこの秋からTK(Transitional Kindergarten*)へ通い始めた長男(#1)の登下校を家事の合間にし、妹の義理母と義理姉妹とで長くやっているブッククラブへ顔を出すのを忘れない。#8も#7に引けをとらず、最近はよく笑みを見せる。育児に家事にと忙しい姉を心配して末娘は、ここに里帰り中なのだからと、#1の退園時にはピックアップをかってでている。夜間子供をあやす時、テキストすれば必ず相手も同じ事情で起きている姉妹である。思えば、遠い昔五人の子供を育てていた私、真夜中のあやしタイムに付き合ってくれたのは、大抵は深夜TV映画劇場だった。The Maltese Falcon(邦題:マルタの鷹)で探偵サム・スペイドがダシール・ハメルの理想の探偵に違いない、と一人納得していた真夜中がよくあった。
*プリ・スクールとキンダーガーテンの間、カリフォルニア州では義務教育の一部。孫#1は11月生まれで、キンダーガーテンでは他の子供(1月~9月生まれ)に遅れをとるや知れず、今から予備的なTKに入れると学力も体力も他者にひけをとらずに来年キンダーガーテンに入れる。
#8:この子の事情で肝心の笑顔はお休み中
ドイツの#6の両親は12月で3歳の娘と今五か月の息子の育児に忙しい。#6の3歳の姉#3(ややこしい)は、弟のお世話のお手伝いを早速していて、Horse Whisperer(邦題:モンタナの風に抱かれて)ならぬBaby Whisperer(邦題にしたら、フランクフルトの風に抱かれて、かな?)としての力を発揮している。#6がぐずる時や泣きそうになると、#3が即座にあやし、やがて二人して笑い始めると言うのがママの話である。これは続々送ってくれるヴィデオで確証済み。ドイツはサンフランシスコから飛べば日本への飛行時間ほどだが、なかなか思うように訪問し合えないのが残念なことだ。来年こそは、夫と私は訪問したいものである。スカイプやスナップチャットは息子一家と我が家には、完全に神器となった。
#6は、育つのに忙しくて寝てばかりの坊や
追記:
ここまで書いていて、9月7日付けの邂逅というタイトルのブログの後記・追記を書くことになった。そこに書いたMの父親は二、三週間前に突然夫のオフィスの留守電にメッセージを残していた。何故夫の携帯や家の固定電話ではなかったのか不思議だが、オフィスの電話であるため、夫の注意はそのメッセージにすぐ向けられた。早速折り返し電話をかけた夫は、Mの父親Eが、五年ほど前最愛の妻を亡くしてからは、歩行がおぼつかなくなり常時プライベイトの看護師に看てもらう生活となったのを知っている。しかしながらEは、話も非常にはっきりとしていて、昔のようにひとつも衰えた所はなく、きさくな温かさは相変わらずだったと言った。
Eはサクラメントでキリスト教会伝道をしている孫息子に、そのうち夫が会いに行ってランチでも一緒にしてくれたら、本当に嬉しいと言った。夫は、勿論そうします、と答え、近いうちにアリゾナの彼の許へも訪問しますよ、と伝えたのだった。Eはそれを聞き、たいへんに喜んだそうだ。その後すぐ又Eは電話をしてきて、再度夫に孫息子を励ましてランチへ連れて行ってくれたら、嬉しいと告げた。夫はすぐに二人の兄たちにも連絡をして、どうせならば三人でその孫息子に会い、またアリゾナへ行こうかと相談したのだった。この時期感謝祭はあるし、クリスマスも近いがその間の二日三日でできそうな訪問だったので計画された。
すると昨日午後、別の幼馴染からメイルが入り、土曜日夜就寝したEがそのまま逝去したという訃報を聞いた。今週Eは90歳になるはずだったから、年齢に不足はないが、先日元気そうなEと楽しく会話したばかりの夫は、絶句した。幼い頃からの良き隣人で友人で本当に楽しい日々を提供もしてくれたEを訪問するのを楽しみにしていたのだった。訃報を聞いて、あのMの夢はMの息子だけではなく、父親の旅立ちについても意味を成していたのだと気づいた。Eは最愛の妻を亡くし、悲しみは深かったから、今また彼女の許へ行けて、また一人の孫息子にも会えて、その喜びが伝わってくるようにも感じられた。
夢の中でMを励ました夫の亡き父は、突然二人の家族をこの秋亡くすMのことを心にかけていたのだと思える。この世界とあちらの世界を隔てるヴェールは、ところどころ薄い所があって、そんな所ではこちらとあちらの人々が昔のように近しく思い合えるのではないだろうか。だから息子と父親を二か月の間に亡くしたMは打ちひしがれても、再び人生を歩み始められるのだ。そして私の希望も続くのである。